人間は考える葦である ――パスカル (2)
「渋木と連絡がとれない」というメッセージを受け取った時、瑠璃はレッスンの最中だった。今日も怒られっぱなしで、ふて腐れたように音楽を聞いていた。おかげで随分と時間が経ってからメッセージに気が付いた。
立川からの短いメッセージは、まるで悲鳴みたいだった。彼にしては珍しく、書いては消し、書いては消しを繰り返した痕跡が、「立川陽介さんがメッセージの送信を取り消しました」といういくつもの爪痕になって残っていた。
李音がいなくなった、ということは聞いていた。くりくりしたセシルカットで、妖精みたいだったあの子の姿と同時に、それを探しに行った渋木までもが消息を絶った。
一日、二日の未読無視くらいでこんなに取り乱すなんて、立川らしくもない。そう思いながらも、不穏な塊が胸の中を蠢いた。
強い雨は今日も変わらず降り続いている。レッスンの帰り道、泥水の流れる道をレインブーツでとぼとぼと歩いた。他の生徒の迎えの車が自分の横を追い越していく。びしゃりと跳ねた泥がかからないように、瑠璃は少しだけ歩道の外側を歩く。
心配じゃないか? そんなわけない。
だけど自分には、二人が無事であるようにと祈ることしかできない。
今日も閉店までバイトで、面倒な締め作業をしなきゃいけない。化粧品や洋服を我慢しても、お金は思うように溜まらなかった。一人暮らしにはどのくらいのお金がかかるのか、調べてみたけれど、インターネットにある記事はどれもこれも親の仕送りを当てにする大学生向けのものばかりだった。引っ越し費用は、家財道具を全部そろえると、少なくとも十万円は必要らしいと人づてに聞いた。
十万円という値段は、自分の学費のなん分の一なのに、瑠璃には途方もなく大きな数字に見えた。パパ活とかキャバクラとかガールズバーとか風俗とか、遠くの世界だと思っていたものが、急にぐっと馴れ馴れしく距離を詰めた。理性なのかプライドなのか保身なのか、よくわからない何かが、そんなの嫌、ときつめにブレーキをかけた。
「男の家に転がり込めばいいじゃん」
何日か前、高校時代の女友達ばかりで集まった飲み会では、沙耶にそんなことを言われた。自分よりも一年早く卒業した沙耶は、今は会社の同期に、婚約している恋人がいるとのことだった。直樹、フラれたんだな。
「それはなんか……やだ」
瑠璃はグラスに刺さったストローを噛んだ。生きていくために誰かに隷従しなきゃいけないなら、実家にいるのとまるで変わらないと思った。だったら私は、どれだけ辛くても、惨めでも、時間がかかっても、ちゃんと自分で生きていきたい。
「我がままだなあ」
「だってそれって、男の人によりかかんなきゃ生きてけないってことじゃん」
「それが女の特権でしょ?」
瑠璃ってヘンなとこで頭固いよねー、という彼女のきゃらきゃらした声は、そのまま酒の肴に変わった。
びしゃり。自分の踏みしめた水たまりが、不機嫌そうな音を立てた。
時給一〇五〇円の小さな喫茶店は、今日もそれなりに混んでいた。バックヤードに荷物を置いて、黒いエプロンの紐を後ろで結ぶ。青色のインナーカラーは目立たないようにお団子の中にしまって、バレリーナみたいな、リボンのついた黒いネットで隠す。
昔、バレエを習ってみたかったことを思い出す。チュチュで持ち上げられた、お人形さんみたいにふわふわした衣装を着てみたかった。うんと小さい頃、母親に相談したら、「お姉ちゃんの塾のお迎えがあるのに、今は無理よ」とすげなく断られた。これを言い出したのがお姉ちゃんだったらきっとこんなことは言われなかったはずだ。だけど母親は、代わりに姉の塾の近くにあるピアノ教室に通わせてくれた。それがいつしか自分のすべてになった。
どうしてこんなに実家を出たいのか、瑠璃は自分でもよくわかっていなかった。門限は、夜までのバイトで破り続けているうちに、うるさく言われなくなっていた。たまに言い合いになることはあるけれど、叩かれたことも、ご飯を抜きにされたこともない。家に帰れば今でも、母親が冷えた夕飯をテーブルの上に残しておいてくれている。だけどそれがたまらなく惨めだった。自分がまだ子供なのだとつきつけられるようで。
テーブルを布巾で拭きながら、すっかり飾り気のなくなった自分の爪を眺める。自分の機嫌をとるためのきれいなジェルネイルは、「飲食店だから、そういう爪はね」とやんわり注意された。いつもだったら聞かなかったその注意を、瑠璃は気まぐれにそのまま呑み込んだ。クビにされたくなかった。お金が欲しかった。
昔から、熱中したらそれしか目に入らない子だと言われていたっけ。自分の執心にどこかで呆れながら、瑠璃は注文を聞き、料理を給仕し、会計をした。
小さな少年がやってきたのは、閉店間際のことだった。一瞬李音かと思ったけれど、よく見ると少し目つきが鋭くて、髪も李音より長かった。服のサイズが合っていない感じと、笑い方は、それでもけっこう似ている気がした。
お冷を置いた。注文を伺うと、「一番安いやつ」とだけ言われて、それ以降少年は何も喋らなかった。瑠璃は困惑ぎみに、ブレンドコーヒーをそっと置いた。少年はブラックのまま口をつけようとしたが、苦かったのか二口目には砂糖とミルクをめちゃくちゃに入れて飲んでいた。
「お姉さん」
客がまばらになった時、食事の皿をお盆に重ねていたら、少年は急に話しかけてきた。声変りのすぐ後みたいな、若くて生意気そうな声だった。
「李音は『秘密の場所』にいる」
「え?」
「助けに行ってやってくれよ。おれの大事な弟なんだ。あいつ、あんたのことが大好きなんだ」
ごちそうさま、と言って、少年は三八〇円を瑠璃の手に握らせる。そのまま去っていく背中の、跳ねるような歩き方は、やっぱりどうしようもなく李音に似ていた。
「待って」
咄嗟に口から言葉が飛び出ていた。「君、名前は?」
ドアを開けている手を止めたまま、少年が首だけでこちらを振り向く。外は雨が静かに降っている。音もなく。
しおん、と少年は秘め事のように口にする。
からん。ドアのベルが鳴り、少年の姿は夜闇に消える。
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