恒産無ければ恒心無し ――孟子 (2)

 渋木は焦っていた。

 二杯目のメロンソーダが空になろうとしているのに、立川も、立川の様子を見に行くといって席を立った日野も、まだ帰って来ない。

「遅いねえ」

 つまらなそうにアイスティーを掻き回す瑠璃。細いストローを持つ指先の爪が、きらきらと飾られている。青と白を基調とした爽やかなネイル。「それ、自分で描いてんの?」と聞いたら、「そんなわけないでしょ、お店でやってもらったの」とバッサリ斬られ、会話が止まってしまった。丸っこくてきれいで、だけどちゃんと短い爪。

 ネイルをやるような店は、バイトの行き返りに通りがかるけど、ああいうところって一回五千円とかしなかったっけ。四角くて平べったくてがさがさした自分の爪を見る。冬の間の手荒れがまだ治りきっていないから、爪の周りのさかむけの跡がひどい。

 自分はこんなに口下手だっただろうか。自分の心臓の音はやっぱりバスドラみたいで、だけどBPMがいつもよりもずっと速い気がする。

「渋木のピアスは自分で?」

 瑠璃から「渋木」と呼ばれるのはまだくすぐったい。最初は李音の真似で「蓮ちゃん」と呼ばれたのだけど、そっちの方が心臓に悪かったからすぐに変えてもらった。それを少し後悔するような、でもやっぱり「蓮ちゃん」じゃなくてよかったと思うような、複雑な気持ち。

「そう、ニードルで」

「痛くないの?」

「最初のうちだけだから、慣れたら全然」

 言って、もうすっかり氷だけになったメロンソーダを啜る。いつになったら帰ってくるんだろう、あの人たちは。

 入り口にちらりと人影が見えた気がしたけれど、もう一度目を凝らすと見えなくなっていた。

「李音、どう? もう受験生だっけ」

 アップにした髪の毛をまとめ直しながら、瑠璃が尋ねた。後れ毛のかかった白い首元に、ひとつほくろがある。「そう、なんか大変みたいでさ」なんでもないふりを貫き通しながら、渋木は答える。瑠璃のほうをまっすぐ見ていたら邪念に邪魔をされるから、わざと窓の外に目を向ける。

「勉強あるからシフト減らしてくれって店長に言ったら、なんか超怒鳴られたって」

「うわ大丈夫なのそれ、パワハラとかじゃないの?」

「うーん、でも、辞めるなら学校にバラすとか言われてるみたいでさ。……ほら、李音のとこの学校頭いいから。バイト禁止なの」

「あー……あるあるだね」

 まったく、立場の弱い人間には世の中優しくないよねえ。ぼやくように瑠璃が言った。なんだか遠い目をしながら。

「守ってもらえる人ばかりじゃないんだよね」

 アイスティーを混ぜる手が止まる。

 妙な静けさ。気まずい。そんな時でも、店内にかかるジャズのBGMの、ドラムの部分だけを、無意識に耳が拾い上げる。

「あの、さ」

 心臓のBPMがさらに上がる。

「ん?」

 涼しげにこちらに目をやる瑠璃。目の周りがきらきらしているのは、化粧だろうか。李音は化粧っけがないし、母親の化粧はこんなにささやかじゃなくてもっと武装みたいだったから、よくわからない。

 すっと長い睫毛が瞬く。そのたびに、まぶたのラメがきらりと光を返す。

「ふたりでスタジオ入らない?」

 肩がどうしようもなく強張っているのがわかる。

「ほら、オレらリズム隊じゃん。最初のとことか、合ってたほうがカッコいいし、全員で入るとギターが強くて埋もれるからさ、ちゃんとベースライン聞いておきたくて」

 焦るほど早口に言い訳を重ねる。

 瑠璃はしばらく、渋木の顔を見やったまま、目を丸くしていた。あわあわとあからさまに慌てる渋木。自分はなにか機嫌を損ねてしまったんじゃないか、と。

「いいよ」

 ふふ、という笑い混じりに瑠璃が答える。その顔をまともに見られなかった。


「……立川さんたちが来なかったの、わざとでしょ」

 帰り際。瑠璃も最近バイト戦士らしく、駅の方まで歩いていくのを見送ってから、渋木はうらめしげに言った。

「あ、バレてた?」

 悪びれた様子のない立川。

「大変だったんスけど」

「たくさん話せてよかったじゃん。ふ、た、り、で」

 小憎らしいほどに愉快そうな顔。人をおちょくる時の立川は、どうしてこうも輝くのだろう。ふくれっ面を作ったら、膨らんだ頬を指でつつかれる。

「どこまでいった? チューとかした?」

「んなわけないでしょお???」

 肩を掴んでぐらぐらと揺さぶる。「やめろよ病み上がりなんだぞ」と笑いながら立川が手を払う。

「シブキがピュアすぎてお兄さん泣いちゃいそうだよ」

「立川さんが汚れすぎなんスよ」

「あ?」

 険悪な空気になりかけたのを見て、その辺にしとけよ、と日野が口を挟んだ。

「言っとくけど日野さんも同罪ッスからね?」

 きっと睨む渋木。むしろあいつが主犯格だよ、と耳打ちする立川。日野は少し慌てながら「お前が一番楽しんでただろ」と弁解する。

「ま、がんばれよ、少年」

 どこか気取った言い方で、立川がくるりと背を見せた。いつも通りの真っ黒な装いで、今日は暑いからかジャケットは手に持って。

「都合のいい時だけ大人になるんだな」「うっさいなあ」

 あの二人は高校の同級生だったか。随分と仲がいいものだ。少しの羨ましさを感じながら、渋木は今日もバイトに向かう。これから夜勤と早番の梯子だ。

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