トラック8

恒産無ければ恒心無し ――孟子 (1)

  *

 スタジオ。自分を見た瑠璃がぎょっとした顔をする。「立川さん、顔色どうしたんですか」

「え?」

「ちゃんと寝てるんですか?」

「んー、たぶん」

 朝も夜もない。最近まともな食事もしていなかった気がする。何日徹夜をしたのかは数えていない。歌を書いている間は、寝食すら邪魔だった。立ち眩みで血の気が引いて動けなくなってから、何か食べなきゃ流石にまずいな、と思い、痛む胃にむりやり菓子パンを押し込んだ。それもその後すぐ吐いてしまったが。

「隈酷いな」

 日野にも言われた。普段だったら「お前が言うかよ」と返すところだったが、言い返す気力すらない。頭が痛くて仕方なかった。

「今日は休みにした方がいいんじゃ?」と、こちらが気の毒になるぐらい渋木もうろたえていた。

 大丈夫大丈夫、と立川はへらへら笑う。誰もが自分に心配な眼差しを向けていることにも、なんとなく気が付きながら、彼は押し切る。

「できたんだ、歌。まずはそれを伝えたくて」

「う、歌えるんスか」

「根性でどうにかする」

「……焦りすぎるなよ、立川」

 その声を断ち切るように、マーシャルの電源を入れる。

 歌い終わってから、脳内麻薬が切れたのか、案の定へろへろになった。マイクスタンドにしがみつくように立っていた。

「大丈夫かよ」

「へーきへーき」

 椅子を引きずり出し、倒れ込むように座った。べたべたとした嫌な汗が浮かんでいるのがわかった。

「お前の歌い方は、いつ見ても消耗が激しそうでハラハラする」

 珍しく棘のある口調で、日野が言う。「心配性だなあ」と茶化す声にも、我ながらいつもの張りがない。声はへたり、と床に落ちていってしまう。

 それでもどうにか歌いきれたことだけが、嬉しかった。いつも通りとはいかなくても、それ相応のパフォーマンスにはできたはずだ。

「題名、聞きたい?」

 遠慮がちにこちらを伺う、三人の目線。

「――『コギト』」

「……我思う故に我ありコギト・エルゴ・スム、か」

「せーかい」

 二ッと笑う立川。一瞬意識が遠のいて、丸椅子から落ちそうになる。「おい!」と間一髪で日野の手が身体を支える。

「立川さん!」渋木の駆け寄る物音。

 息が荒い。気持ち悪い。酸素を求める魚みたいに、胸が激しく上下する。「オレ、柳沢さん呼んできます!」渋木が防音室を飛び出していく。

「……今回は揃いましたね」

 小さく瑠璃が言った。

「そんなこと言ってる場合か」

 日野の咎める声。

「よかったですよ、立川さん」

 瑠璃がまっすぐこちらを見た。霞んだり鮮明になったりを繰り返す意識の中で、はっきりとした強い声は、立川にきちんと届いた。

でなら、きっとタカトも超えられます」

 よかった、という言葉が声になったかは、自分でもわからなかった。


 目を覚ますと、長椅子の上だった。まず目に映ったのは、弱々しく揺れる照明の光と、壁にかけられた一本のギター。それから、長くのびる誰かの影。

 ニッパーが弦を切る硬い音がしている。立川は顔を上げないまま、目だけで周囲を見回した。どこかが欠けたり割れたり傷ついたりしているたくさんの楽器が、スタンドに立てかけられたり、床にそっと置かれたりしたまま、自分が手当てされるのを待っている。

 楽器屋の奥の部屋か。ふらりと身体を起こすと、「起きたか」と柳沢の低い声がした。するするとしたクロスの摩擦音。

 まだ眩暈がする。「それ、飲んどけ」と言われ、筋張った手からペットボトルの水を渡された。

「……変なモン入ってないよな」

 出そうとした声が、喉に張り付いてうまく出てくれない。

「介抱してやったのに何だその言い草はよ」

 ごとり、とレスポールをスタンドに置き、柳沢は不機嫌そうに言う。彼の話によれば、日野がそこの自販機で買ってきたものらしい。キャップに開封した形跡はなく、見たところ注射痕もない。中身はまだよく冷えていて、外気との温度差にうっすらと汗をかいている。

「ったく、無茶しやがってよ。お仲間がえらい心配してたぞ」

 キャップを捻る手に力が入らなくて、いつもよりも難儀した。

 なんでカントクはそんな頑張れんの、と聞いた時。我々凡人には努力しかないんですよ、と津原が言っていたのを思い出す。

「止まってられっかよ。時間がないんだ」

 風邪の時みたいに、うまく声がでない。何も胃に入れたくなかったが、無理やり水を流し込んだ。自分の身体は思っていたよりも簡単に水を受け入れた。胃にじわりと染み入る感覚。

 ちらりと時計を見る。スタジオ入りからまだ一時間と経っていない。それほど眠ったわけではないが、眠りが深かったのか、気分はかなりよくなっている。

 スマホに通知が入っていた。修二からだ。追悼ライブの会場について大学に交渉するよう言ってあったが、「音監の許可が下りないと、ライブはやっぱり厳しいみたいです」と、返答。実に予想通りだった。タカトゆかりの大学とはいえ、さすがにそう簡単にはいかないか。「大学の事務は渋い感じですけど、俺についてくれた担当者は乗り気なので、引き続き交渉してみます」続けてメッセージが来る。

 どうしたものか。重い溜息と共に、スマホをポケットへとしまう。

「あいつらは?」

「外で待ってる。あと十五分経って起きなかったら病院へ担ぎこむ予定だった」

 次の楽器の直しに取り掛かったらしい。木目調のベースを作業台に寝かせ、ドライバーでネジを外していく。

「病院って、大袈裟だなあ」

「いつまでもそこに居られると邪魔なんだよ。向かいの店で待たせてるから、うまいもんでも食ってとっとと帰れ」

 ドライバーを持ったままの手で、しっしと追い払われた。

 わかったよ、と立川は苦笑交じりに起き上がる。ギターとエフェクターボードは長椅子の近くに置かれていた。靴を履き、ギターケースを肩にかけた時。

「俺たちは生きてる、か」

 柳沢が呟いた。

「盗み聞きかよ」

「聞こえてたんだよ。面白いな。ドストレートで、お前らしくない」

「……何が“俺らしい”かは俺が決める」

 そうかよ、と鼻で笑う声を背に、立川はドアノブに手をかける。


 向かいの店は個人経営の喫茶店だったか。あそこの飯、お洒落で美味いけど量が少ないんだよな。そう思いながら階段を上がっていたら、店の入り口で妙にそわそわしている日野を見かけた。

「ヒノちゃん?」

「しっ」

 唇に人差し指を置く日野。黙って手招いてくる。面白そうな何かの気配を感じて、立川は言われるがまま物陰に身を潜めた。

「もう大丈夫なのか」

 囁き声。

「うん。飯食ったらたぶん完全復活する」

「悪いがもう少し待ってやってくれ」

 きょとんとした顔をする立川。

 物陰の隙間から店内をひっそりと覗いたら、すぐに察しがついた。

「……そういうこと」

 あとは若いお二人で、という奴か。

 ヒノちゃんにもそんな気が利くことできたんだね、というと、「うるさい」と顔をしかめれた。

   *

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る