恒産無ければ恒心無し ――孟子 (3)

 レコーディングに設定された日付まで、あと二週間ほど。全体での合わせよりも少し早い時間に入って、渋木と瑠璃は二人で練習することになっていた。大学もすでに始まっている上、バイトを増やした様子の瑠璃は忙しそうだったが、いきいきとして見えた。

「私、一人暮らししようと思ってて」 

 ひっそりと秘密を打ち明けるみたいに、彼女は言った。「家族に内緒でね、お金貯めてるの」

 妹なんだし、茜さんに出資を頼めばいくらでも出してもらえそうなのになあ。そう思ったけど、自分でどうにかするのが瑠璃のプライドなんだろうな、と思ったから、言わないでおいた。

「渋木とか李音とか見ててさ、私ってまだまだ子どもなんだなって思って、恥ずかしかったんだよね」

 瑠璃はヘッドにつけたチューナーに手を伸ばす。しなやかな腕が、ベースの長いネックのてっぺんのほうに伸びていく。

「そんなことないでしょ」

 むしろ瑠璃は、同年代だとかなり大人びた風に見えた。多少じゃじゃ馬なところはあるが。

「渋木が自分の足で立って歩いてるの、カッコいいなあって思ってたんだよ。私、まだ親のすねガリガリかじってるから」

「マジ? オレカッコいい?」

「都合よく切り取りすぎ」

 瑠璃はくすぐったそうに笑う。

 褒められることはほとんどなかったから、渋木もどこかむず痒い気持ちだった。迷子になった手がぐしゃぐしゃと後頭部を掻いた。

 ペグを回す手には、この間と同じ青いネイルアート。爪が伸びてきているのか、根元から少し浮いている。

「自分の将来とか、まだ全然わかんないけど」

 四弦から順に、瑠璃の右手が弦を弾いていく。オレンジ色を示しているチューナーが、時折緑色に光る。その緑色に音程を合わせながら、慎重にペグが回される。

「ベースを弾いてる瞬間が、今はすごく楽しいから。そういう瞬間を大切にしてもいいかなって思ったの」

 親はそれなりに厳しいので、引き返せない状態まで持ち込んで事後報告にするのだという。行動力があるんだなあ、と思う。

 渋木は「がんばって」という言葉しか返せなかった。母親が放任主義な分、親から束縛されることはほとんどなかった。そういう意味で渋木は自由だった。自分にできることがなさそうなのが歯がゆい。

「引っ越したら、遊び行かせてよ」

 他意のない言い方のつもりだったが、これでは下心があると思われてしまう、と咄嗟に気づく。「李音も連れてくから」と慌てて付け足した。

「そうだね、そのうち」

 そろそろ練習始めようか、と言い、瑠璃はベースアンプの電源を入れる。


 ベースの輪郭を捉えられるようになると、呼吸が自然と合わせられるようになった。全体的に、この間よりも縦の線が揃っている気がする。最後に右足を踏み切ってから、渋木は顔の汗をぬぐう。手汗で滑って落としたスティックを拾い上げ、バスドラの上にそっと置いた。

 スタジオの一番奥にいるから、瑠璃、立川、日野、それぞれの顔がよく見える。顔に血色の戻った立川は、時折休憩を挟んでいるが、体調はだいぶ回復しているようだ。

 歌がない時は、進路を見失った船みたいだった各々の演奏が、歌があることですっと同じ方を向く。立川の歌声はアンプで増幅された音にも押しつぶされない芯があって、だから渋木は彼の歌が好きだ。どこに向かって進めばいいか、しっかり指し示してくれる。

 最初はどうなることかと思ったが、少しずつ、形になってきている。

「ルリのベースの音、粒が揃ってきたね」

 マイクを通して聞こえる立川の声。「これ本当、フレーズもリズムもバカ難しかったんですよ」と、げんなりした表情で瑠璃は言う。「嫌がらせかと思いました」

 自分にはあまり見せてくれない顔だ、と渋木は思う。瑠璃の自分に対する態度は、年長者ふたりへのものに比べて、だいぶ棘がない。腫れ物に触るような優しい態度は、こちらが傷つくことこそないが、なんだか複雑な気持ちだ。

「もう少し低音域ローの音を削ってもいいな。音のシルエットをはっきりさせたい。アンプでもいけるけど、プリアンプとか買わない?」

「今お金貯めてるので……」

 渋る瑠璃。

「へえ、なんで?」

「なんでもいいでしょ。時間もったいないんでもう一回合わせましょう」

 はいはい、と呆れたように言う立川。ちらりと視線を受け、頭の中でテンポを確かめてから、もう一度四カウントを打つ。


 レコーディグまでに三度、デモ音源の録音をして、そのたびに歌詞は変わった。

 立川の表情は日増しに暗くなる。先方とのやり取りに消耗し、窮屈さを感じているようだった。迷いと鬱屈が伝わるほど、一度興に乗り始めた全員での演奏は、委縮し、硬くなる。

 夜の練習の直後、誰かからの電話を受けた立川が、電話を切るなりスマホを投げたこともあった。画面の割れた破片が夜闇の中に光った。「クソッ」と小さく呟いた彼の表情は、どこか思い詰めているようにも見えた。

「ピリピリしてんなぁ、大丈夫なのお前ら」

 会計をしている時、柳沢からそう指摘されることもあった。奥歯を噛みしめながら、立川はずっと床のほうを睨んでいた。

 渋木は怯えていた。これじゃ前と同じ状態に逆戻りどころか、むしろ悪化している。立川がこんな風になって空中分解してしまうバンドを、今までに何度も目にしてきていた。

 レコーディングまであと一週間を切っていた。

 瑠璃と二人での練習は、その後も何度か入った。もはや甘い気分に浸るような余裕はなかった。

「立川さん、大丈夫なのかなあ」

 ドラムの椅子の上に膝を立てながら、渋木は天井を仰ぐ。

「思い通りにならなくてイライラしてるんでしょ。ばっかみたい」

 子供じゃないんだからさ、と吐き捨てながら、瑠璃は手馴れた動作でチューニングをしていく。立川に言われたように、低音域を抑えたイコライジングをして、指がウォーミングアップのスケールをなぞる。

 その日の全員での練習が、リハーサル前の最後の合わせだった。

 進路を示してくれるはずの歌に迷いがある。渋木にとっては、航路で方位磁石が狂ったも同然だった。立川の揺らぎにモロに揺さぶられて、ドラムが崩れて、もう残りわずかな練習の最中で何度も曲を止めた。

 意識しようとするほど、身体は思うように動かなくなる。ドラムを叩くのは全ての動きが連動しているから、一ヶ所の綻びはどんどん広がって大きくなる。

 そしてドラムは、ボーカルの息継ぎとも直結する。ますます思うように歌えなくなった立川が、露骨に苛立ちを見せ始める。

「なんでできないかな」

 頭を掻きむしりながらこちらを見る立川。その言葉が決して、自分だけに向けられたものでないとわかっていても、ごめんなさい、という声が震えた。「いやごめんなさいじゃなくてさ」と、立川がさらに重ねようとした時、「おい立川」と日野が遮る。

「八つ当たりも大概にしろ」

 尖った、冷たい声だった。

 立川の目がぎろりと日野を見た。

「いいんスよ日野さん、オレがミスしたのは本当だから」

 二人を制そうとして割り込んだら、「ならさっさと直してほしいんだけど」と立川に一蹴される。心臓がぎゅっと固くなる。曖昧に笑うしかなかった。

「何ヘラヘラしてんの?」

「いい加減にしろ立川」

 ますます温度のない、低い声。ますます空気が凍る。

「後輩に当たり散らしてストレス発散とはいいご身分だな」

「何それ。いいご身分なのはそっちじゃないの? 俺に説教できるほどのことしてんのかよ」

「ああそうだな、だったら一人でやれよ。一人でできるんだろお前は」

「雛鳥みたいに口開けて待ってるだけだったのによく言うよなあ。何、じゃあヒノちゃんが歌詞書いて歌ってくれんの?」

 一歩、二歩、と立川が日野に詰め寄っていく。日野は臆した様子もない。

「こっちはじゃなかったか? 元はといえばお前が勝手に言い出したことだろ」

 至近距離で視線をぶつけ合う二人。「じゃあさっさと降りれば?」と吐き捨て、立川が空のスタンドを蹴る。金属の床にぶつかる音。渋木は思わず身をすくませる。

「人の次はモノに当たるのか。懲りないな」

「だから? なんも生み出せない癖に調子乗んなよ」

 見ていられなかった。オレがうまく叩けていたら、こんなことにはならなかったんじゃないか。そう思うと、申し訳ないやら悲しいやらで胸が痛くなる。

「ちょ、立川さん。オレが悪かったから、ね」

 事が収束してほしい一心で声を振り絞ったら、「いいんだよ渋木」と日野がこちらに目を向ける。優しい言い方だったが、目には表情がなかった。「こいつはそうやって構ってもらいたいだけだから」

「あ?」

「怒ってるのをアピールして、周りから慰められたいだけだろ。まるで成長してないな」

「あっそう。さすがは言うことが違うよなあ。わかったよ俺が悪いんだろ? 気に入らねえならさっさと降りろ」

「相変わらず雰囲気を悪くすることだけは一人前だな」

 声に怒気の増していく立川と、冷然と言葉を打ち返し続ける日野。

 ぴりぴりとした緊張感が肌を焼く。

 渋木は生きた心地がしなかった。無意味に視線を彷徨わせる。何をどうしていいのかまるでわからない。

 隣家から聞こえる怒声と暴力の音に、ただ耳を塞ぐことしかできなかった時みたいだ。嵐が過ぎるのを祈って、ただ身体を硬くするしかない。

「もうっ、いい加減にしてください!」

 黙って事の顛末を見ていた瑠璃が、突如として声を張り上げた。

 全員の視線が集中する。瑠璃は全くうろたえない。切りそろえた前髪の下、その双眸がまっすぐ立川を見る。握った手がわなわなと震えている。

「自分がうまくいかないことを全部人のせいにして、ぶつけて、恥ずかしくないんですか? ほんっとうに情けない! ちょっとは大人になってください!」

 口をつぐんだまま、睨み返す立川。瑠璃はさらに畳みかける。

「いい年して一回りも年下の子に八つ当たりして、指摘されたら開き直って! 自分がなにやってるかわかってるんですか! 日野さんが本当に降りていいんですか? あなたが選んだんでしょう? 頼んだんでしょう? レコーディングまであと何日だと思ってるんですか!」

 甲高い声がスタジオ中に響く。

 瑠璃の権幕に一番動揺しているのは渋木だった。気圧されながらの「ちょっと、瑠璃ちゃん」という制止も、瑠璃の勢いを止めるには至らない。

「日野さんも日野さんですよっ!」

 ぶん、と瑠璃が勢いよく頭を動かす。面食らった様子の日野に、ますます瑠璃が声のトーンを上げる。

「理詰めで逃げ道をなくしても、相手がますます面白くないのはわかっているはずでしょう? 言っている側は気持ちいいかもしれませんけど、こっちはいい迷惑です。正論をぶつければいいってもんじゃないんですよ! あなただって十分空気悪くしてます!」

 言うだけ言い切って、瑠璃は肩で息をした。

 気まずそうに目線を逸らす立川と日野、ただ呆然とするしかない渋木。「まったく嘆かわしいですよ。いい大人が揃いも揃って」と、瑠璃が髪を掻きあげる。

「さっさと仲直りしてください。じゃないと私たちも降りますからね」

「えええ」

 当然のように自分が含まれていることに、渋木は困惑する。瑠璃が「当然でしょ」と鼻を鳴らす。

 一切の音も声も消え、アンプのざらついたノイズだけが残る。

 このまま解散になったらどうしよう。全員の顔を交互に見ながら、渋木は息をひそめていた。どうか平穏に終わりますように。

「すまなかった」口火を切ったのは日野だった。「瑠璃の言う通りだな。俺も大人げなかった」

「……で、立川さんは『ごめんなさい』も言えないんですか?」

 沈黙。つんとした瑠璃の眼差しを受けながら、立川は目線を上げようとすらしない。「行こ、渋木」と手を引かれそうになった時、黙りこくっていた立川は、小さく舌打ちをした。

「……悪かったよ」

 ふて腐れているのを隠しもしない声。母親に怒られている子どもみたいだった。


「決めた。もうこれでいく」

 リハーサルの日。開き直った風に言う立川の顔は、この間よりも少しスッキリとした表情になっていた。「歌詞を穏便にしろって散々言われたけど、キリがないからもう変えない」

 確かに立川は、少々過激な言葉選びが多い。今回は特にストレートな内容だったから、波風を立てたくない制作陣とどんな会話があったのかは、容易に想像がつく。

「そもそも波風立てようとしてんのにビビッてどうすんだよって感じだけどね。結果的にカントクがこっちについてくれたからよかったけど」

 早口にまくしたてるのは、愚痴っぽくなっているのもあるのだろう。散々周りを掻き回しておいて、どこか吹っ切れた様子。

「……いくら立川さんが良くても、楽曲申請が通らないと主題歌としては使えないんじゃ?」

 瑠璃が訝しげに尋ねる。

「大丈夫、ちゃあんと根回ししてあるからさ」

 な、と立川が日野に目配せをした。「さっさとやるぞ」無視する日野。

 歌がしっかり固まると、最初こそぎくしゃくしていた演奏も、少しずつ安定してきた。久しぶりに、スティックがちゃんとスネアの芯を捉えて、しっかり響いているのが実感できた。

 折り重なるエレキギターの音。鋭いけれどまろやかで優しい輪郭は、日野のものだとすぐにわかる。耳をまっすぐ突き抜けるようなシャープな音は、立川の方。

 呼吸の継ぎ目で上手くフィルに入れた。タム回しを叩ききる。シンバルの華やかな音。踏み込みが自然と強くなる。

 サビの最後の目立つフレーズ。手元のギターを文字通り掻き鳴らし、余韻の残らぬうちに立川がマイクに縋りつく。

 ぐしゃぐしゃと歌詞が入れ替わり試行錯誤がされる中、一ヶ所だけ、誰に何と言われようと立川が変えなかった場所がある。

「俺たちは生きてる」

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