トラック7

凡庸な悪 ――アーレント (1)

 首に下げていた親父の指輪から、ベルト、靴紐に至るまで。あらゆるものを取り上げられ、立川は小さな部屋に押し込まれた。途中、鉄格子の向こうにある人影から、舐めるような嫌な視線を感じた。

 自分の扱いは、言葉にこそされなかったが、いわゆる“思想犯”であるらしい。他の容疑者たちとの接触がなされないよう、彼は徹底的に隔離されていた。誰かと同室になるよりはましだが、手持ち無沙汰で話し相手もいなくては気も滅入る。冷たい床に足を投げ出し、できることもなく、ただ惰眠を貪った。同じ体勢でいたらすぐに体が痛くなる。そのたびに姿勢を変えていたら、そのうちどんな体勢でも腰の痛みが消えなくなった。

 何もつけていない首元がひどく寂しかった。女と寝る時、垂れさがってきて邪魔になることはたまにあったけれど、それでもほとんど外したことはなかった。

 勾留から釈放までの三日間、警察と茜がつけてくれた弁護士以外は、人と会うことも喋ることもなかった。簡素な食事は三食出たが、量が少なかったからすぐに腹が減った。風呂は入らせてもらえなかった。髪がべたべたするし、自分の周りに不潔な膜みたいなものが張っているような気がして、気持ちが悪かった。

 まさしく借りてきた猫のような状態で、立川はじっとしていた。浅い眠りの隙間、嫌な夢を何度も見た。少し歌わないだけで、喉がじっと閉じていく気がする。焦れるような気持ちだった。気持ちが急いていくほどに、時間の進みは遅くなった。これは見せしめだからすぐに出られるはずだと言われていたが、たった三日が永遠かと思うほどに長かった。けれど、ミサを失った自分が今後どうすべきか、きちんと考えるにはあまりにも短かった。

 保釈の日、茜は仕事だった。弁護士が迎えを申し出たが、立川はそれを断った。

 ずっと動いていなかったからか、身体がぎくしゃくとしている。久しぶりに浴びる太陽が眩しかった。少し閉じこもっていた間に、外の空気はすっかり春らしくなっていた。

 帰って手早くシャワーを浴び、立川はある場所へと向かった。手には一枚の名刺。「あなたに会いたがっている人がいます」と、最後の面会の時弁護士に渡されたそれには、『津原亮也』という見たことのある名前があった。狩岡の所に取材に来たという映画監督だ。

 興味本位で連絡をしたら、彼は喜んで時間と場所を設定してきた。津原の所属する制作スタジオの応接間、やたらと沈むソファに腰かけながら、立川は彼を待った。

「お好きにどうぞ」と差し出されたクッキーの三枚目を開けると同時に、津原は応接間に入ってきた。

「ごめんなさい、お待たせしました」

 敬語だが、どことなくラフな雰囲気が抜けない。垢抜けたフレームの眼鏡と、一応羽織っているという様子のジャケット。

 どうも、と軽く会釈をした。

 津原亮也つはらりょうや。新進気鋭の若手映画監督。

「お会いできてうれしいです」と爽やかに微笑し、慣れた様子でソファに座る。日の当たる場所の人間、という感じがした。黙々と仕事をする働きアリとも、放蕩に耽るキリギリスとも違う。

「今日はあなたを口説きに来ました」

 表情と口調からは、冗談なのか本気なのか、いまいちわからない。

 まったくモテすぎるのも困るな。立川は心中で呟く。生憎、男にモテても嬉しくはないんだけど。

「……タカトの映画を撮るんだっけ?」

 単刀直入に切り出したが、津原は動じない。「お聞きしていましたか。早耳ですね」と、膝の上で手を組む。

「僕、羽山さんのファンでして。ずっと撮ってみたいと思っていたんです。あなたの許可を取らずに話を進めたことは、申し訳ないと思っているのですが」

「それは別にいいけど」

 親父の人生は親父のモノだし、あいつはもう死んだ。自分が口を挟む義理はない。

「ただ、なんでこんな時に?」

 立川が何をして、さっきまでどこにいたのか。弁護士に連絡を取ってきた以上、まさか知らないわけではあるまい。今、羽山タカトの作った対抗文化カウンター・カルチャーが、どのような眼差しにさらされているのかも。

 怪訝そうな顔の立川に、「こんな時だから、ですよ」と津原は言った。

「むしろ今しかチャンスがないんです。――文化監理局の話、ご存知ですか」

 立川の目が鋭くなる。「これは僕の師匠筋から聞いた話なんですが」と前置きをし、津原は話始める。音楽倫理法の改定案が出され、遠からず、検閲と規制の対象があらゆる著作物に拡大される。小説や漫画からゲームに至るまで、対象は限りなく広い。映画も当然その中にある。施行されることになれば、映画も今ほど自由には撮らせては貰えなくなるだろう、と。

「音楽は畑違いですが、正直、映画業界もずっと他人事ではありませんでした。いつかこちらに飛び火することはわかりきっていましたが、もう目前まで来ている。

 こういうのは滑りやすい坂ですからね。一度下り始めたら、どんどん加速しますよ」

 ともすれば、治安維持法の時代までまっしぐらだ。思想犯が棒打ちで獄中死するまで、もう一歩と言ったところか。

 立川は顎の下に手を添える。事態は思っていたよりもずっと深刻だ。

「厄介なのは、わかりやすい巨悪が存在しないということです。誰かひとりを槍玉にあげれば解決する問題ではない。政府、為政者、という仮想敵を作り上げるのは簡単ですが、僕たちが一番向き合わなくちゃいけないのは、こういった体制を許してきたです。そしてそれを作ってきたのは、紛れもなく我々民衆の側です」

「なるほど」立川は足を組みなおす。

 まるでアイヒマンの寓話だ。ヒトラー政権下、ユダヤ人の大量虐殺を指揮したのは、ただ権力に従順で、役人としての責務を全うした、どこにでもいるような小男だった。

「確かに、極悪人をやっつければ何もかも解決してハッピーエンド、ってほど世界は単純じゃない。いるのはただ何も考えない普通の人間だけだ」

 そして、全体主義を作り上げるのは、まさしくそういう人間たちだ。たった一人のカリスマではなく。

「アーレントも言っていましたね。悪は陳腐で凡庸だと」

 津原は少し表情を緩める。「映画を見ただけなんですがね。『ハンナ・アーレント』。あれは名作でした」と、照れくさそうな弁解。

 自由というのは近代以降の発明品だ。だからこそ、元来人間は自由から逃れようとする。何もかも自分で考えなければいけない自由は、時に不安で息苦しい。

 決断を繰り返すことに疲弊した人間は、次第に、自由よりも支配されることに居心地の良さを覚える。何しろ、規範をなぞるだけで済む。何も考えなくていい。与えられた餌を甘受すればいいだけなのだから、思考停止ほど楽なことはない。

 ユダヤ人の虐殺という歴史的な大罪は、そうして思考を停止し、ただシステムに乗っかって回すことだけに執心した小役人によって引き起こされた。

 ただどこにでもいるありふれた人間が、極めつけの悪となりうる。自分で考えることを放棄すれば、人は誰でもアイヒマンになりうるというわけだ。

 システムに順応して、既存の枠組みの中で――道徳化によって推奨された美徳は、つまりはそういった、何も考えない人間の大量生産だ。

 だからこそ今、システムそのものを批判的に見る姿勢が必要だと、津原は言う。

「今の状況は僕らの無関心と諦めの賜物だ。羽山さんがずっと警鐘を鳴らしていたのは、きっとそういうことなんじゃないかな。そう思って、僕なりに、自分にできることを考えた結果が、今彼の映画を撮ることでした」

「おアツいねえ」

「あなたも同じことを考えていたのでは? だからインディーズを牽引しようとしていたのでしょう」

「俺はただ、自分が好きなように歌いたかっただけだよ。そんな高尚なモンじゃない」

「そうですか」

 目を細めたまま津原は言う。会話が止んだ折、「どうぞ、ごゆっくり」と小太りの中年男が茶を差し出してくる。

 立川は湯飲みに口をつけた。クッキーを続けざまに食べたせいで、口の中が甘ったるく乾いていた。淹れられたばかりの緑茶はまだ熱く、飲みこんでから舌がひりひりした。もっと冷ましてから飲めばよかった。

「羽山タカト役、やっていただけませんか。立川さん」

 湯呑を持ったまま、立川は固まった。

「は?」

 そっと湯呑を置く。随分と藪から棒だ。

「お話していて、やはりあなたしかいないと確信しました。引き受けてくださいませんか」

 いきなり主演とは驚いた。口説きにきた、とはそういうことか。立川は小さく合点する。

「それは俺がだから? 言っておくけど、俺たちはあんたらが思うような“親子”じゃない」

「親子、というだけではないですよ。オイシイ要素だとは、正直思っていますけど」 

 明け透けなのに、不思議と嫌味のない言い方だった。

 たっぷり間を持って、津原は口火を切る。飛びきりの切り札を差し出すように。

「あなたが昔役者だったことは知っています。劇団『プラトニック』」

 随分と懐かしい名前だった。今はもう解散した、名前を聞くこともないような小さな劇団。

 執念深いことだ。外堀から埋めて、とことん調べつくす。それがこの男のやり方なのだろう。

「知り合いがいたので、何度か見に行ったことがあります。音楽家としてのあなたも魅力的ですが、役者としてのあなたも、僕は好きですよ。画面が華やかになりますね。すごく存在感のある役者だった。立川幸さんの血を引いていると聞いた時は驚きましたが、納得でした」

 インディーズから一度足を洗った頃。立ってるだけでいいから、と友人に代役を頼まれて以来、ずるずると所属していたことがある。稽古は厳しかったし、女に食わせてもらいながらの、ろくに収入もない貧乏暮らしだった。自分ではない誰かを演じる楽しさを覚えると、出演を重ねるにつれ、少しずつ大きい役を任されるようになった。

 一方で、所属する女優と片っ端から関係を持ち、“プラトニック“とは似てもつかないことばかりしていたのもまた事実だ。

 主宰者の借金と夜逃げをきっかけに、劇団は立ち消えになった。小さいながらに評判はよかったから、残念がる人も多かった。

 あの頃の立川は四捨五入したらまだ二十歳だった。三十が手に届きそうな今ではもう、とっくに昔の話だ。

 津原は物腰柔らかだが、真意が読みづらい。この男は何を企んでいる?

「監督サンなら、お抱えの俳優なんていくらでもいるだろ。……俺は役者なんてとっくに辞めてる」

「あなたは羽山さんを最も身近で見てきたひとりだ。人物像も熟知している。それに、彼を演じるなら、やはり音楽的な技量も生半可ではいけない。映画全体の説得力に関わります。その上演技経験もある。これほどの適任はいないと思いますが」

「面白い冗談だな」

 鼻で笑い、立川はわざとらしくソファに背をつける。

「そんなことをして俺になんのメリットがある?」

 狭い応接間に、声は憎いほどよく響いた。遠くで人の働く気配がしていた。微かに聞こえる電話の音。

「――スランプなのでしょう?」

 沈黙。

 立川は津原を睨むように見た。こちらを仰ぎ見る津原の目は、それでもまっすぐと揺るがない。

「狩岡さんから伺いました。あなたの音楽活動に、羽山タカトの存在感は足枷になっている、と」

 あのクソジジイ、そんなことまで喋りやがったのか。立川は心中で舌打ちをする。

「これはあなた自身にとってもメリットになるのでは? 敵を打ち破るには、まずは敵を知るところから、とも言いますし」

 津原は切り込むことを辞めない。立川は人を小馬鹿にするのは好きだが、小馬鹿にされる趣味はない。一方的に劣勢に立つのは、気分が悪かった。

「条件がある」と、立川は言った。


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