語り得ぬものについては沈黙せねばならない ――ヴィトゲンシュタイン (6)

 さる金曜日、夜半。音楽監理局、局長室。

「付き合う友達は選ぶべきでしたね」

 絶句するばかりの日野に、中江諭子は静かに言った。

 ミサを鎮圧した? なら立川はどうなる? 渋木も瑠璃も、もしかしたらあそこにいたかもしれない。ミサには年端もいかない子どもだっていた。

 彼らは無事なのだろうか。

 音楽監理局の後ろ暗い部分をうっすらと知るからこそ、日野は案じずにはいられなかった。

 音楽監理局には複数の部署がある。日野の所属する総務部は、主に楽曲の受付と審査、使用料または著作権料の督促リストの作成、局内の備品の管理や発注など、主に事務的な部分を担う部署だ。営業部、広報部、人事部の他に、公にはなっていない、汚れ仕事を請け負うチームが存在しているのも知っている。それを牧が一括していることも。

 だから諭子は、いつも直接手を下してはいない。請負人は側近の牧だ。死神、と陰で呼ばれる人事部の長。

「処罰は……ないんですか」

「あなたに? なぜ?」

 わざと試すように諭子が言う。日野は何か言いたげな眼差しのまま、目を伏せてしまう。手の中の退職願が、くしゃりと音を立てた。

 もうこれ以上、この組織に尽くせる自信がなかった。毎日、玄関から外へ出る時のためらいも、満員電車の中で精神ごと潰されそうになるのも、言葉狩りの繰り返しで焼き切れそうになるのも、向精神薬や酒やカフェイン剤で押し流しながら働いていた。だけどもう、これ以上は身体の方が持ちそうになかった。

 どこに行ってもお荷物になる自分のことなど、いっそ捨ててくれた方が楽だった。

「近々、あなたが辞めそうだという話は聞いていました。その様子だと……」

 諭子は日野の手元に目をやる。皺になった封筒を一瞥し、

「すでに退職願を出そうとしていた、といったところかしら」

 牧は何も、嫌がらせで受け取らなかったわけじゃないの。幼子をあやすように、ごく優しく、諭子は言う。

 それからの彼女の話は予想だにしないものだった。

 音楽倫理法が改訂されれば、監査の対象は音楽からあらゆる著作物全般に拡大される。音楽監理局は業務を拡大し、「文化監理局」として著作物の監理を一端に担う。音楽から、文化全体の統制へ。音楽監理局は、そのための試験運用だったというわけだ。

 拡大・改変された文化監理局には、大量の人員が必要になる。だからこそ、今は一人の辞職ですら惜しいのだと。

「文化監理局……?」

 文化全体に一斉に行われる検閲と規制。音楽倫理法の制定以後、音楽市場は驚くほど縮小した。著作物すべてにそれを行えば、経済的にも文化的にも言い知れない打撃となるのは目に見えている。裾野が広くなければ山は高くはならない。これは緩やかな自殺と同じだ。

「そんなことをすれば、文化ごと滅びますよ。音楽と同じように」

 覚悟を振り絞った台詞だったのに、諭子は「ええ、そうね」と平然と受け流した。

「あなたたちの“神”は言っていましたね。文化は血であり、自由と思考の土壌である、と」

 諭子は羽山タカトの言葉をわざとらしく引用する。そう、だからこそ彼は言っているのだ。文化がひとたび滞れば、俺たちは自由に動く手足を失う。

「文化がイデオロギーを育てることなど、お上も百も承知です。だからだ――ということは、少し考えればわかることでしょう?」

 気が遠くなりそうだった。

 つまるところ、文化は“表現の手段”ではなくなった。にとっては、文化に政治的な要素は必要なく、ただビジネスでさえあればいいのだ。芸術や伝統として、経済効果と他国へのアピールポイントを生めるものでさえあれば。

 それは、“真・善・美”なんて抽象的な概念を問うべきものではなく、自らの定めた指標以外の正しさは必要ない。ましてそれを汚すものなど。それが彼らの良しとする世界観だ。

「沈黙は金、雄弁は銀。言わぬが花。雉も鳴かずば撃たれまい。色々な言葉があるわね。あるいは――語り得ぬものについては沈黙せねばならない、とか」

 形而上学そのものを否定した言葉だったか。いつだったか、倫理の授業で聞いた記憶がある。愛や正義や善、神の存在や死について――そういった抽象的なことを分析することは無意味だという、ある哲学者の格言。

 言葉がなければ思考はできない。それと同じように、表現する手段を持たない思考は、傍から見れば存在しないのと同じだ。黙殺されて、なかったことにされていく。

 昔読んだ英国の小説も、同時に思い出す。政治批判の言葉を持たない新言語が普及した、独裁者「ビッグブラザー」の支配する国。

「うるさく文句を言うことも、考えることもしない。飼いならされた大衆は、彼らにとってどれほど魅力的かしらね」

 優美な笑みが恐ろしいと思った。全く笑い事ではない。

 実際、大衆が愚かであることほど、為政者にとって都合のいいこともない。文化監理局の設立は、道徳化という錦の御旗を掲げながら、大衆を飼いならそうという本音を隠さない。

 全くタカトの危惧していた通りだ。日野は凍りつく。俺たちは自由を得ようとする手足をも奪われようとしているのか。

「本気ですか? あなたもひとりの音楽家でしょう」

 この際なりふり構わなかった。思い切って尋ねた日野に、「青いのね」と諭子は笑った。

「道理をいくら唱えても、どうにもならないこともある。それが世の不条理というものよ、日野くん」

 何かを諦めたような、切なげな眼差し。「とにかく」と、取りなおすように、諭子は声を張り上げる。

「音監が文化監理局に移行すれば、どの道わたくしも、この椅子には座れなくなります。その時まで、その退職届は自身で持っておきなさい。……これは助言ですよ、親切心からのね」

「……ありがたく頂戴します」

 苦々しげに、そう言うのが精いっぱいだった。


「全く、君にはハラハラさせられたよ。急に吹っ切れるんだもの」

「……申し訳ありません」

「いい、いい。謝らないで。いいものを見せてもらった」

 快活に笑う牧。オフィスの廊下を歩きながら、日野は居心地悪そうに肩をすくめた。

 この人は背中に何人の屍を背負っているのだろう。それなのにどうして、こんなに朗らかに笑える?

 オフィスの廊下は相変わらず、不気味なくらいに静まり返っている。

「少しお訊きしたいのですが」

「どうぞ」

「牧さんはなぜ、局長の補佐を?」

「仕事だからね」

 そういうことではない。眉をひそめた日野に、「冗談だよ」と牧は小さく笑う。全く、この人も食えない人だ。

「行きに言ったね。私はひとりの天才にあてられていた。――今の君と、全く同じように」

 ふと目線を合わせられ、日野はびくりと肩を上げる。わかってはいたが、何もかも筒抜けであるらしい。「実は私も音楽畑の出身なんだよ」と、ひっそりと秘密を打ち明けるように、彼は言う。

「けれど、ある日、娘か彼かを選ばざるかを得なくなった。音楽家としての私たちはそもそもうまくいかなくなっていたし、私は親としても、肉親である娘を選んだ。妻と別れてから、少しばかり繊細で、生きづらいところのあった子でね。その頃は、学校はおろか、付き添いなしでは外にも出られなかった。私が守ってやらなくてはならない、と思っていた」

 その結果どうなったと思う?

 牧は思わせぶりに言う。その続きを聞くのが、どうしようもなく怖かった。

「神は死んで、そして娘も命を絶った。私なしでは家から出ることもままならなかった子がね、自宅のマンションから飛び降りて、死んだよ」

 ――ウェルテル効果。羽山タカトの死後、不登校の中学生の自殺を皮切りに、多くの若者たちが命を絶った。それから嘆かれ続けた、“若者の自殺”。

「思えば、あれは報いだったんだろうね。私は、自分の希望になっていたものを全て失ってしまった」

「……あなたが、羽山を?」

「言っておくけど、殺したわけじゃないよ。私がされたことと同じことを、彼にもしただけ。だから彼は紛れもなくだ。遺書も彼が書いたものだしね」

 牧も当然、知っていたのだろう。当時、羽山タカトには、牧の娘と同じ年頃の息子がいたこと。

 悲しみや怒りよりも、日野はやりきれない気持ちでいっぱいだった。これを知った立川が何を思うか、考えただけでも胸が痛かった。

「――失うものがない人間は強いね。君を見ていると、つくづく思うよ」

 その言葉を最後に、「じゃあ残業、頑張って」と牧は踵を返す。気づかないうちに、既に自分の部署の前まで戻ってきていた。

 デスクにはすでに人がまばらになっていた。残っていた数人が、牧と共に戻ってきた自分に向けて、憐れむような眼差しを向けた。構わず自分のデスクに座る。

 この胸騒ぎは、手を動かすことでしかきっと落ち着かない。カップに残っていたコーヒーを飲み干した。中身はとっくに冷え切っていて、もはやただの黒色の水となっていた。カップの中ほどに黒々とした線だけが残った。

 今日終わらせずに帰った仕事は、どのみち明日のものになるだけだ。スリープモードになっていたパソコンを立ち上げ直した。終電までに片付けられるようにと心の片隅で祈る。


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