凡庸な悪 ――アーレント (2)
「というわけで、主題歌を録ることになりましたー」
「え?」
「は?」
「うおお」
あまりにもバラバラで、そして予想通りな反応だった。固まる日野。顔をしかめる瑠璃。ひとり素直に目を輝かせる渋木。
昼間の教会はがらんとしている。礼拝堂に平行に並んだ椅子に、座っているのは彼らだけ。まばらなステンドグラスの明かりが、時折陰る太陽に合わせて、濃くなったり薄くなったりを繰り返す。
「いきなり映画ってなんですかちょっと話が急すぎてわからないです。他にも色々聞きたいことあるのに」
瑠璃が早口でまくしたてる。混乱した様子だった。
「てか立川さんに役者なんてできるんですか? しかもタカトの役? 冗談ですよね? 意味わかんない」
「ま、なんとかなるでしょ」
「もっと重く受け止めてください! 自分が背負った役の重大さをわかってるんですか? 中途半端な演技しかできない大根役者だったら本当に許しませんからね、一生恨みますからね」
喋らずにはいられない、と言った様子。「ちょっと落ち着け」と制そうとした日野まで、「日野さんは落ち着きすぎなんですよっ! もっとちゃんと考えてください!」と流れ弾を食らった。
「主演とかすごいッスね、さすが立川さん」
「だろ?」
渋っていたことなど棚に上げ、立川は得意げに口角を上げる。
「まあとにかくそういうことだから、レコーディングの準備をしてほしいわけ」
「ミサはどうなるんです?」
「それは追々考える」
瑠璃はますます顔をしかめる。
仕切り直しとでも言うように、日野がひとつ咳払いをした。
「曲は?」
これで行く、と短く言い、立川は自分のスマホを取り出した。再生ボタンを押す。渋木がごくりと唾を呑んだ。
最初はベースとドラムの静かな波。そこに二本のエレキギターが交差しあい、喰い合うように上り詰めていく。楽器はたった四本だが、静かなAメロとは対照的に、後半になるほど重層的で、激しさと迫力を帯びていく。
ボーナス・トラック、と最初に口に出したのは、日野だった。
タカトのベストアルバムの最後の曲だ。五分程度のインスト。歌も題名もない幻の曲。
「……歌は?」
「俺がつける」
「なっ」瑠璃が顔を強張らせる。「なんて冒涜的な……」
「そもそもこれ、俺が貰った曲だからね」
立川はできるだけさらりと口にした。
あれはアコギを買ってもらったばかりの頃だったか。「いつか歌で親父を超える」と言ったら、余った菓子でも押し付けるように、ひょいと渡してきた。「じゃあこれに歌、つけてみないか」と、試すように意地悪く笑って。
その直後にタカトが死んで、ずっと、手を付けることができなかった。
今がそのトラウマをぶち破る時だ。立川はそう思っていた。自分の殻を破るのが痛くないわけがない。いくら血を流そうと、俺はこのまま燻ぶっているわけにはいかない。
首に残る、かすかだがしっかりした重みを、無意識に手が握りしめる。
「ていうかこの曲、リードギター二本ありますよね?」
「ああ、確かに!」と声を上げたのは、渋木だ。「日野さん分身?」
二人の視線を同時に受け、日野は苦笑する。
「俺のギターの師匠は誰だと思う?」
日野のその言葉で、二人が同時に立川の方を向いた。にやり、と笑う。
脚本を持つのは久しぶりだ。そのずっしりとした重さを、今はひどく持て余してしまう。
本は時折読むくらいだったから、活字をじっと見ていると頭が痛くなりそうだった。ページをめくる感触と、インクのにおい。「脚本のためにお話をお聞きしたいのですが」と前置きをされ、津原に根掘り葉掘り聞かれたことを思い出す。
「羽山さんはどんな父親でした?」
率直な聞き方。少し間をおいてから、「小さい子どもがなんでも疑問に思う時期ってあるでしょ」と立川は話を始めた。まだ小学校にも上がらない頃。「どうして空は青いの?」と訊いたら、「そもそも、俺たちの認識している“青”は本当に全部同じ“青色”だと思う?」と、わけのわからない返しをされたこと。それから、サンスクリット語には認識を表す言葉がたくさんあるんだとか、古代インドにおける認識論とか空の思想とか、果てにはデカルトの方法的懐疑やカントの認識論にまで話が飛んで行った。改めて思い返しても、およそ未就学児に話す内容ではなかった。
「羽山さんらしいですね」と津原は笑っていた。「哲学の英才教育とは。それで立川さんは鍛えられたんですか?」「たぶんね」
脚本をめくっていくと、その話もバッチリのっていた。本当に抜け目ない。
自分が役者として再びやっていけるのか、正直なところ、立川には自信がなかった。演劇も音楽も、自分が立っていたのはあくまで舞台の上であって、カメラの前ではなかった。いくら演技経験があると言っても、映画に出るのは初めてのことだ。
台詞を覚える時の要領は、まだ身体に染みついていた。脚本はどんどん読み進められていくのに、傍らで書こうと思っていた詩はちっとも進まない。プリンター用紙は真っ白のままで、重たい油性ボールペンだけが、ペン先が出たまま放置されていた。抱える感情が膨らむほどに、言葉をうまく吐き出せない。自分はこれほど不器用な人間だっただろうか、と思った。
「立川さんってなんでもできるんスね!」渋木の言葉。「お前みたいな器用な人間が羨ましいよ」これはたぶん、高校時代の日野。「お前は器用貧乏なタイプだな」少し馬鹿にするように言ってきたのは、柳沢だったか。子供の頃からそれなりに要領はよかったし、なんとなく、自分は器用な方なのだと思っていた。
だが、そもそも俺は、本当に器用に生きてきたのか。人生という演目の中で、ただそれを演じていただけではなく。
脚本のページを繰るほどに、自分というものの輪郭が曖昧になる気がした。劇団にいた頃は、他人の声や姿を借りて“自分”から飛翔できることが、あんなにも開放的で甘美だったのに。
最後のページを読み終えた。一番目のページに戻って、今度は口に出しながら読んでいく。
最初のシーンは、タカトが初めてメディアの前で歌った場面だ。オーディション番組の体で作られたセットの中。「緊張していますか?」という審査員の質問に、彼ははにかみながら答える。
「そうですね、少しだけ」
口の中で台詞を唱える。慣れない口調がむず痒い。この後彼は歌い出すのだったか。詳しいパフォーマンスの指定はない。「あまり脚本は固め過ぎないんです。余白があった方が、役者さんも入り込めるし、自然な演技が引き出せるので」と津原は言っていた。
動画サイトで、当時のタカトの動画を探した。当該の動画は、少し掘り下げるだけですぐに見つかった。おそらく違法アップロードなのだろう、がさついた画質と音質。何かのCDの特典映像だったか。繰り返し消されてはアップロードされる類の動画だ。
この頃のタカトは、確か今の自分よりも若いはずだ。当時、大学を卒業して間もない彼は、まだ声にも若さが残っている。「デビューが決まったらどうしますか?」という質問に「奨学金を返して、あまったら自分の育った施設に寄付しようかな」とタカト。
ほどなくして演奏が始まる。
彼の音楽は魔法みたいに鮮やかで、そのくせ嵐みたいに荒々しかった。
その時使われた楽器は、広い舞台の上で、たった一人と一本。すなわち彼自身の声と、愛用のアコースティックギターだけだった。強い照明にもひるむことなく、彼は不敵に回ってみせた。少し長めの癖毛の下、その目がいかにも生意気そうだった。
ギターを弾いていく。最初は弦を鳴らさずに、ストロークの音だけ。それからコードを刻む音。指での単音引き。スラップの、弦を弾く鋭い音。ギターたった一本で奏でられる、観客を弄ぶような長めのイントロ。焦らすだけ焦らして、緊張と期待が頂点に達した瞬間、彼の歌声が火蓋を切った。
それは電流に似ていた。あるいは雷鳴。すべてを巻き込んで、それでも余りある衝撃。あんなに余裕綽々とした表情だったのに、彼はすごく苦しそうに、吠えるように、歌う。それにずるずる引きずり込まれて、瞬きすらできなかった。
――ああ、これは、
親父が歌っているのは聞いたことがある。彼のライブも何回か見に行った。舞台から遠い関係者席でその姿を眺めながら、強大な何かに圧倒されて身動きも取れなかったことが、何度もあった。
俺は歌っている時の親父が怖かった。何か大きな怪物を宿しているみたいで、その存在感に喰われそうで。彼の声が若々しい張りを失う代わりに、大人らしい落ち着きを帯びた後のことしか、自分は知らない。だけど、あの巨大な津波のような感覚よりも、若い頃はさらに激しい。まるで、嵐の中の海に呑まれるような。
――バケモンだな。
こんなものを俺が演じられるのか? 乾いた笑みを殺すように、立川は顔に片手を添える。人は希望を失うと、むしろ笑えてくるらしい。
スタンドからアコースティックギターを取り出し、爪弾いた。『真』のコード進行はすっかり耳に馴染んでいる。スラップの鋭く艶やかな音。親父から離れることばかり意識していたから、親父に似せて歌う感覚が、最初はいまいちつかめなかった。呼吸の仕方、口の開け方、身体の響かせ方。全て見よう見まねで歌ってみる。こうか? わからない。粗野な画質では顔を見るので精いっぱいだ。音域の広さもシャレにならない。彼は喉に力を入れずに出しているのに、自分は声帯がどうしようもなく締まっているのがわかる。
一曲歌いきるころには汗だくになっていた。袖で汗をぬぐい、立川は首元の金属の感触を確かめる。
画面の中の父親を見ながら、思う。
――お前は何を考えて歌ってたんだよ、タカト。
夕飯の準備をしている時も、脚本は手放さなかった。内容を頭に繰り返し刷り込むように読んだ。一日しか経っていなかったが、ページの端にはすでに捲り癖がついていた。
タカトの半生は、聞いたことがある話もあれば、知らなかったエピソードもあった。その時彼が書いていた楽曲と年表で照らし合わせながら、彼の心情を考えながら、読む。ぶつぶつと唱えながら鍋の傍にいたら、「随分張り切ってるじゃない」と帰宅した茜に囃された。終電ギリギリで帰ったらしく、日付はもう変わろうとしていた。
「お宅の妹サンに、『大根役者だったら本当に許しませんから』って言われちゃったからな」
あら、と茜は小さく肩をそびやかす。ストッキングを脱ぎながら、
「ところで今日のごはんは何? すごくいい匂い」
「ん? ミートソース」
赤ワインとニンニクをたっぷりめに入れるのが、茜の好みだ。木べらでかき混ぜ、少しだけ味見をしたら、思っていた通りの味になっていた。
こういうところに関しては、我ながらけっこう尽くす方だと思っている。ごくたまに寄り道をしたくなるだけで。
「ワインも開けたらだめ?」
「やめとけよ」
えー、と物欲しそうな茜をいなして、鍋の湯を沸かし直す。塩を振り入れ、パスタをゆでている間も、文字を追いながら小さく声を出す。立川はもっぱら声に出して覚える方だった。自分の身体を通して音にしないと、歌も台詞も、自分のものになった感じがしなかった。
「もう遅いから、少しだけもらうねー」
おそらく化粧を落としているのだろう。ソファの背もたれの影から声がした。生返事をしながらも、目はずっと脚本を見ていたら、いつの間にか鍋が噴きこぼれそうになっていた。
「嵐が来るかもね。陽介が音楽以外にこんなに一生懸命なんて」
考え事をしながら食べていたら、茜にまた笑われた。
「しぶしぶ引き受けたとか言っていたけど、けっこう乗り気なんじゃない」
「別にそんなんじゃない」と言いながらも、咀嚼しているうちにまた、頭はひとりでに別のことを考える。
「ごちそうさま」
美味しかったわ、と言い、茜が一足早く席を立った。「ありがとうね」という言葉のついでに、頭を撫でられる。子ども扱いされているようで少し癪だが、嫌いじゃない。
飼われているなあ、と思う。だからせめて、料理くらいは少し優勢でありたいというのが、なけなしのプライドだった。
立川は残りを急いで平らげ、流し台に食器を置いた。
「茜サン」
自室に向かう背中に呼びかける。「んー?」と気のない相槌だけが返る。
「愛してるよ」
「そういうのはいいから。あなたは前だけ向いていなさい」
おやすみ、と告げる声が、憎いほどに優しかった。
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