トラック4

善人なをもて往生とぐ、況んや悪人をや ――親鸞 (1)

 *

 立川陽介は、終わった女には執着しない主義だ。それがつまみ食いであれ、しばらくの間の宿主であれ、一度手から離れたものはわざわざ追わない。来るもの拒まず、去る者追わず。それが一番スマートだと思っていたし、気まぐれな彼の性に合っていた。

 キープはしない。付き合おうと思えば何人とでも付き合えたし、求めてくる女も、ちょっと誑かしてみたいのもいる。だが、高校時代に六人から張り倒されてからというもの、同時に多数とつながるのは面倒なだけだというのを学んだ。だから、その時の宿主以外とは、なるべく一夜で済ませる。ごくたまに、危険な遊びもしてみたくはなるが。

 瑠璃にあのことを話したのはなぜだっただろうか。ピロートークは嫌でも気が緩むし、こちらの手の内を明かせば、あまり乗り気でなさそうだったバンドの件も、ノってくれるような気がしたから? 

 茜は妹が手垢をつけられたと知ったら怒るだろうか。でも仕方ないじゃん、そういう流れだったし。ルリもルリで楽しんでたみたいだし。悪いのは俺だけじゃない。

 雨あがりの夜風が頬を撫でた。

 彼が足を止めると、後ろをついてきていた足音も止んだ。

 下手くそな尾行にはとっくに気が付いていた。警察やら監理局の類やら、急を要するものではなさそうだから放っておいたが、そろそろ鬱陶しかった。

 自業自得という奴なのか。誰彼構わず食い散らかしていれば、ごくたまに面倒なのを引く。

「出てくれば?」

 人影は戸惑いがちに顔を出した。遊びの相手ではない。二年ほど前の宿主で、一年程度とはいえ、たぶん一番長く続いた女だ。茜の次に見慣れた顔だった。

 想像していたのとは違ったが、これはこれで面倒な相手だ。

 人目を憚るようなフードの下で、女の目はおどおどと泳ぎっぱなしだった。二十代半ばにしては童顔なのも、くしゃくしゃのショートカットも相変わらずだ。

「陽介」

 澄んだ声は、泣きそうな揺れを孕んでいた。

「……俺はもう戻る気はないよ」

 立川はわざとそっけなく言った。

 女は悔しそうに目を伏せる。そうじゃなくて、と、蚊の鳴くようなか細い声に、聞こえないふりをした。

「違いすぎたんだよ。俺とお前とはさ」

「そんなことない。私たち一緒に支え合っていけるはずだよ。同じ音楽家なんだから」

「何もかも違うよ。見てる景色も、目指す場所も」

 立川は踵を返そうとした。ここは悪人になりきって、無慈悲を貫こうと思ったのに、「どうして?」と切実に言われて、思わず足が止まってしまった。

 妙な懐かしさに苛まれる。育ちがいいからか、つきあっていた時から、素直で屈託のない奴だった。控えめに見えてけっこう我が強くて、怒りも愛情もストレートに口にする。それが彼女の美点であり厄介なところだった。

「どうして険しい道ばかり選ぼうとするの? 敵を増やすような過激なやり方ばっかりするの?」

 悲痛な声色は、歯がゆさを隠しもしなかった。

 ――陽介のことをわかりたい。

 恋人時代にも、同じような声で何度も言われた。人間に対する諦めなど抱いたことのないような、あまりにもまっすぐな言い方が眩しかった。彼女はまっとうだった。そのまっとうさに傷つく人もいる、ということすらわからないほどに。

「俺たちは自分の足で歩いてかなきゃいけないんだよ」

 立川は目を合わせずに告げた。物分かりの悪い子どもを諭しているような気分だ。見ていなくても、彼女の苦しそうな表情は手に取るようにわかった。

「一人でやってくのは辛いよな。俺だってそうだ」

「ならどうして」

「それでも、自分の歌を歌わなきゃいけないんだよ。俺たちは」

 思ったよりも強い口調になった。冷静さを欠いているのは、あの頃のざらついた気持ちが思い出されたからだ。あの頃余るほど貰った愛情はたぶん本物で、だからこそ苦しくなった気持ちも、些細なすれ違いがサンドペーパーみたいに心を削っていったことも、痛いほどよく覚えている。

 おそらく今も、彼女には下心など欠片もないのだろう。本当に、純粋に、心から、何のまじりっけもなく、心配しているんだろう。母親が子供を案じるみたいに。

「……でも」

「トーリ」

 立川はわざと名前を呼んだ。

 びくりと肩をすくませた藤里とうりは、助けを求める子どものような、ひどく困った顔をしていた。

「お前もさ、ちゃんと自分の歌を歌いなよ」

 言い捨てて、踵を返す。もの言いたげな視線を背中に感じた。

 固い靴音が路地に響いた。

 *


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