私は何を知るか? ――モンテーニュ (10)
二人ぶんの汗のにおいがしていた。息が整ったころには動くのも面倒になっていた。身体の奥に籠った熱に、意識がふわりと焦点を失いそうになる。
立川にそっぽを向きながら、枕に顔を埋めた。痺れにも似た余韻と、重力がどんどん増していくような気だるさ。
「立川さんが私を引き入れたのは、」
彼の腕が瑠璃の肩を引き寄せる。されるがままになって、身を預けた。
「私が女だからですか。それとも、音大生だからですか」
背中にぴったりとくっついた温度は、離れる気配を見せない。
正直なところ、彼に選ばれたことは――一緒にバンドを組んでほしいと誘われたことは、嬉しくないわけじゃない。
それでも瑠璃は信じ切れていなかった。選んだ立川のことも、選ばれた自分のことも。
女はいいよな、という修二の言葉が脳裏から離れなかった。
瑠璃は立川から、人間に対するある種の希薄さを感じ取っていた。過去、恋人といたときの自分と同じ。心の底では誰も好きにはなれないからこそ、作り笑いで「愛してる」なんて嘯けるような、そんな、最低な奴だと思っていた。
だけど、その言葉をねだったあの時、立川は応えなかった。「ルリのそういうとこ、好きだよ」なんて誤魔化すようにキスをしただけで、「愛してる」とは言わなかった。ただの一言も。
「俺は白石瑠璃を誘ったんだけど」
うっすらと汗ばんだ彼の手が、瑠璃の髪を弄ぶように梳いていく。
ベッドの中はぼうっとしそうなほど暑い。
雨脚が強くなっているのか、小さな雨音がしていた。
「私、立川さんが羨ましいんです。私にないものを全部持ってる。だから嫌い」
「それって、才能とか、そういうこと?」
「うん」
どうして私はこんなことを言っているんだろう。他人事のように思うけれど、言葉はひとりでに流れ出る。
どこかに沈んでしまいそうなほど眠かった。
「私だって、天才に生まれたかった」
自分の台詞があまりに情けなくて、涙が出そうだった。こんな泣き言を大真面目に吐いてしまえるのは、やっぱり、頭のどこかが自制心を失っているのだろう、と言い訳をする。
瑠璃の頭をぼふぼふと撫で、立川はそのままベッドを出た。スプリングが軋む。一人分の温度が減った布団は、妙にすかすかと寒くなった気がした。
「俺だって、色んな壁にぶつかりながら、寝れないほど悔しい思いをしながら今までやってきたんだけどね、一応」
そうは見えないけど、と瑠璃が呟いた声は枕の中に埋もれていった。立川は服を拾い上げているらしく、もぞもぞと背後で動く気配がした。ベルトを留める音が聞こえる。
「だからさ、ルリは俺に『わかる』なんて言ってほしくないかもしんないけど、頑張ってるつもりなのにうまくいかない気持ちも、それで人を恨みたくなる気持ちも、わかっちゃうわけ。俺がそうだから」
まさか。瑠璃は思わず寝返りを打つ。立川は半裸のまま、備え付けの冷蔵庫を開く。背を向けているせいで、表情は見えない。
さっきまで手をまわしていた背中に、痘痕のようなでこぼこした傷があった。一つや二つではない。煙草を押し当てた火傷の痕のように見えた。
「飲む?」
そう言って、立川はペットボトルの水を差し出した。瑠璃は億劫そうにベッドから手を伸ばす。手が水を受け取ろうとするとき、彼がまっすぐにこちらを見ているのに、瑠璃は気がついた。
「……――『天才はいいよな』ってくくられて線引きされるのってさ、『女だから』『音大生だから』って色眼鏡をかけられるのと何が違う?」
強い眼差し。
背中を寒気が走る。一瞬で目が冴えた。
その一瞬の間、立川に言い放った言葉が頭を巡った。レッテルを貼られるのが嫌だと常々思っていた。自分も同じことをしていたなんて思いたくなかった。
ごめんなさい、という言葉が喉まで出かかったのに、子供みたいな意地が邪魔をした。震える唇を固く結ぶ。
「そんな顔すんなよ。ちょっと揶揄っただけだろ」
立川は意地悪く笑う。
「ほんっと、いい性格してますよね」
「そう?」と得意げな立川。
瑠璃は思いっきり顔をしかめた。せめてもの報復のつもりだった。
細身なのに筋肉質なのはたぶん、自然とそうなったわけではないのだろう。腹から声を出すためには筋肉が要るし、肺活量や体力だって必要になる。そんなことは言われるまでもなくわかっている。
瑠璃はふて腐れたように膝を寄せた。ペットボトルに口をつけると、乾いた口内に染みる水がとても甘く感じた。
「……それは指輪ですか」
話を替えたかった。
「これ?」
瑠璃に指摘された立川は、首に残っていたネックレスを示す。指輪を模したものかと思ったけれど、よく見ると、やっぱり指輪に簡素なチェーンが通されているだけだ。
「そうだよ。親父のだけど」
すごくシンプルなデザインだ。つるりとしたシルエットは結婚指輪を思わせる。
「お父さん、ですか」
「そ。とっくの昔に死んだ親父の、ね」
指輪を指先で弄びながら、立川はぞんざいに言う。
ほんの一瞬の無音が、ひどく長いものに思えた。
親の形見を肌身離さず持ち歩くとは、立川にしては随分と殊勝なことをする。
「健気ですねえ」
布団を首元に引き寄せた。嫌味たらしい口調になったのが自分でもわかった。それでも、予想外にぶつかってきた重さは、そうやって茶化さないと捌けそうになかった。
「別に、親父を偲ぶため、とかじゃないよ。俺が痛みを忘れないためだ」
弁明じみた口調。立川は指輪を爪で弾いた。指輪なのに指にははめないところが、何とも言えず天の邪鬼だ、と思う。
立川は投げやりにまくしたてた。
「突然勝手に死にやがってさ。俺まだ十二とかだぜ? 明け方に警察から呼び出されて、ぶくぶくの水死体見せられて『あなたのお父さんですか?』なんてさあ、誰が聞かれたいんだよ、な」
いつもはしっかり目を合わせるのに、彼はこちらを見ようとしなかった。嘲るような声音はいかにもわざとらしく、ちぐはぐだった。
瑠璃は、自分が何か、取り返しのつかないことをしてしまったような気がしていた。開けてはいけない何かの蓋を開けてしまったような。
内容が深刻だからこそ、努めて朗らかに振舞っているのか。それとも、無意識のうちにおどけてしまうのか。その明るさに一点の陰りもないことが、かえって痛ましく、見ていられなかった。
自分の指先を見つめた。あの人にとっての「痛み」はきっと、瑠璃にとっての「悔しさ」と同じだ。指先に力をこめる。いくらお洒落をしたくても絶対に伸ばさなかった爪が、シーツにぎゅっと食い込む。立川は「痛み」を原動力にしている。――でも、そんなの、危うすぎる。自分を痛めつけるようなものだ。いつか絶対に瓦解するに決まってる。
悶々と考え込む最中、瑠璃ははっと目を見開いた。
散り散りになっていた違和感が、ある一点に向かって束ねられ、繋がっていくような感覚。なぜ天才という言葉を嫌がったのか。あれほどタカトの面影を負っていながら、タカトを忌避するのか。
「立川さんは、――」
顔を上げると同時に、立川の人差し指が瑠璃の唇を塞いだ。視界で丸い金属がきらりと光った。
立川はそのまま、自分の口に人差し指を当てた。唇の奥に悪戯っぽく鬼歯を覗かせながら。
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