私は何を知るか? ――モンテーニュ (9) 

 ホテルに着くころには、酔いはすでに覚め始めていた。

 エレベーターが到着を告げる。「ルリ、歩ける?」そう言って、立川が肩を抱く。少し体を引き剥がすふりをして、瑠璃はふかふかとしたカーペットを踏みしめる。酔いが覚めてきてもなお、酔っているふりは続けていた。肩に添えられた手の意味は、とっくの昔にわかっていたけれど、瑠璃はそれを甘んじて受け入れた。

 お互い、これが茶番ということには気づいているはずだった。立川はきっと最初からこのつもりだったのだろう。根拠はないけれど、直感的にそうだと思った。

 別に立川とのアバンチュールに溺れたいわけじゃない。これはちょっとした復讐なのかもしれないと、瑠璃は思う。姉の恋人を独占できるこの状況は、夜中に甘いクリームの乗ったケーキを食べるような、言い知れない背徳感があった。

 お姉ちゃんにだけ美味しい思いをさせるのはもう終わりだ。

 お姉ちゃんが買ってもらったアップライトピアノ。テストで一番だったご褒美のかわいいお洋服。お宅のお嬢さんは本当に偉いわね。そういうときの「お嬢さん」はいつもお姉ちゃんだった。お姉ちゃんにだけ部屋があった。お姉ちゃんが出て行ってから私の部屋になった。姉ちゃんは何もかも持っていたから、簡単にピアノを捨てた。

 ざまあみろとほくそ笑んでやりたいはずなのに、なんだか息が詰まっている。

 立川はもはや茶番を演じるのも飽いたらしい。薄暗い部屋に入るなり、彼は羽織っていた上着のボタンを外した。椅子の背に上着がかけられる。

「ルリってこういうの慣れてんの?」

 ベッドに浅く腰かけ、立川はにやりと目を細めた。何もかも見透かしたような目。そういうところが気に食わないんだよな、と思う。

「どうでしょうね」

 正直に答える気にはなれなかった。手招かれるまま、彼の隣に腰を下ろした。

「やだねえ、今ドキの子の貞操観念のなさってのは」

「あはっ、それをあなたが言うんですか?」

 ――この人のお遊びの一人なんて、とんだつまらない女になりさがったものだ。

 立川の太ももに手を置いた。彼の顔をのぞき込むと、細かいまつ毛の一本一本や、不揃いな歯の一本一本まで間近に伺えた。

 さっきまで何もかもを見透かすようだった目は、獣のような鋭い眼光に変わっていた。目は口程に物を言うってのは、この人も例外じゃないらしい。

「ねーちゃんに悪いと思わないわけ?」

 悪乗りするような口調。

「そんなこと、」

 立川さんが言えたことじゃないでしょう? そう言おうとして、口をふさがれた。

 離れた瞬間の彼の顔は、いつにも増して真剣に見えた。一瞬、ほんの一瞬だけどきりとした自分に、見て見ぬふりをする。

 頭の後ろに手が入れられ、もう一度顔が近づく。唇の間を割り裂いてくる舌が熱い。ジンジャーエールのシロップの味が、唾液の中に混ざり合って、どろどろになる。

 口が離れた。立川の手が瑠璃の頭を撫でた。いたわるように。

「その口で、一体何人に愛を囁いてきたんです?」

 自分の声に、少しだけ呼気が混ざってしまったのが、悔しかった。

「さあね」

「クズ」

 そう言って軽く肩を殴ったら、そのまま手を掴まれた。やわらかいベッドの中に身体が沈む。じたばたともがこうとしたけれど、握る力が強い。首元に降ってきたキスに、少しだけ身じろぎをする。

 強引だけど、乱暴じゃない所作。

 慣れているな、と思う。

「せっかくなんだから楽しもうぜ」

 本当にかすかな、マイク越しよりもずっと甘い声が、耳の裏をくすぐった。

 こんな武器を好き勝手に振り回して、一体どれだけの女の子が泣きを見て来たのだろう。貪るようなキスの中で、崩した襟の隙間から、指輪に似たネックレスが零れ落ちた。

 彼の薄い唇が、頬に、喉に、口に、色々なところに触れる。息を殺すたびに、自分の核、みたいなものが、半熟の玉子みたいに溶けていく気がした。

 六十デニールのタイツと素肌の間に、指が入れられた。

 撫でつけるように滑らかに指が下りる。姉を欺く心地よさも、お姉ちゃんとするときもこうなのかな、という一抹の不快感も、全部が曖昧になっていく。

 剥き出しになった脚の上を、指が這う。その手を捕まえた。

「立川さん」

 ごつごつとした指の間に、強引に自分の指を割り込ませた。掌がどうしようもなく熱いのは、きっと眠気のせいだ。

「ん?」

「愛してる、って、言って」

 あんたのことは全然好きじゃないけど。そう付け加える隙もなく、立川は残虐さと甘美さがないまぜの笑顔を浮かべた。

「随分かわいいこと言うね?」

 嘘くさい口調。

 かわいいなんて、ましてや愛しているだなんて、この人はきっと微塵も思っていないのだろう。

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