私は何を知るか? ――モンテーニュ (8)


 外は雨がちらつき始めていた。地面はそれほど濡れていないが、細かな雨の描く線を、街灯の弱々しい光が象っていた。

 ここのところ、天気が安定しない。春先の霧雨はじっとりと重く、冷たく濡れる。ぐっと冷え込んだ空気に身震いをする傍ら、立川は静かに傘を広げた。当然のように、瑠璃をその中に入れる。

「さっきの人は何なんですか」

「昔からの知り合い。俺がガキの頃からのね。タカト世代からインディーズにいる人」

 なんでも元ベーシストなのだという。腕前は確かだというが、今では引退して、あんな場所で怪しげな楽器屋を営んでいるらしい。

 なんだか得体の知れない凄みのある人だった。玩具を弄んでいる虎のような、一瞬でも気を抜けば喰われそうな感覚。柳沢本人はへらへらとしていたが、こちらは無意識のうちに緊張させられていたらしい。今では脱力感と空腹感だけがあった。

「腹減ってない? なんか食ってこうぜ」

 ふと、横を歩いていた立川が言った。肩の強張った感じはあからさまに消えていて、やっぱりこの人も緊張していたのだろうか、と思った。ステージの上でさえ、あんなにのびのびとしているのに。珍しいこともあるものだ。

「そうですね」

 立川が何を目論んでいるのか。なんとなくわかるような気がしながら、瑠璃は答えた。茶番に付き合う気になっているのは、自暴自棄になっているからだ。どうにもならないことばかりで、心をかき乱されっぱなしで、なんだかむしゃくしゃしている。疲れている。

 良くないんだろうな、こういうの。そう思いながら、濡れた路面を歩いた。 

 夜半だからか、通りの店は多くが閉まっていた。細々と灯りを点しているのはお酒のお店ばかりだ。立川はそのうちの一つ、軒の赤い店の前に立ち止まり、傘を畳んだ。

 ベースの大きなケースが邪魔だったから、壁際のテーブルに座った。ベースケースを下ろした途端、背中がふわりと軽くなる。歩いたのは短い距離なのに、すでに肩が凝っているような気がした。

 食事と言う風体のものは、メニューにはあまりない。お酒はワインが中心で、それに合いそうな料理がいくつか。好きなものを頼んでいいと言われたが、空腹感を感じる割に、重たいものを食べるような気分でもない。

 飲み物だけサングリアを選んで、あとはお任せします、と言った。「欲がねえなあ」と言って、立川はサービスのナッツを二つ、同時に口に放り込んだ。

 アンチョビのピザ、タラのムニエル、シーザーサラダ、ラザニア、バゲッド。二人分にはやや多すぎる気がする料理が、瞬く間に並べられた。味が濃くて脂っこいものばかりだ。下戸なのだろうか、彼はアルコールは頼まず、卓上にはジンジャーエールのグラスが置かれた。

 立川はしばらく黙々と料理を口にしていた。よほど空腹だったらしい。こんなに細い体のどこに、この料理が収まっているのだろう。取り分けられたサラダをつつきながら、瑠璃は呆然と立川を見ていた。

 サングリアを一口。オレンジの香りが鼻に抜けた。美味しいけれど、思っていたよりワインが濃い。

「言っとくけど、私まだ、立川さんとバンドをやるって決めたわけじゃないですよ。引き受けたのは一回だけです」

 アルコールに煽られて、今更言い訳がましい言葉が口を付く。何かを誤魔化すみたいにアーモンドを口に入れて、がりがりと噛み砕く。

「あら、そーなの?」口に料理を含んだままの、素っ頓狂な返事が聞こえた。

 店内にはBGMとして絶えずピアノ曲が流れていた。『月の光』が終わって、今度は『沈める寺』。ドビュッシーばかりだ。わかってしまう自分が憎かった。

「時間も限られてるし、私は、センスがないから。人一倍努力しなきゃいけないんです」

 どちらも弾いたことのある曲だ。膝の上で無意識に動いていた指を、ぎゅっと握り込めた。

「音大に入れてるんだから、センスがないわけじゃないでしょ」

「……全然ですよ、私なんか。落ちこぼれもいいところです」

 周りにはいくらでも「本物」がいるのだ。ぐっと喉が詰まるような感触を、お酒と一緒に飲み下す。

「確かに私は、こんな風にずっとピアノをやってこれて、音楽を勉強できて、恵まれてるのかもしれない。それは十分わかってるんです。――だけど周りには、幼少期から溢れるほどの英才教育を注がれてきた学生が、本当にたくさんいる。環境はそう違わないはずなのに、周りから頭一つ抜けていて、本当に才能としか言えない何かをもっている子もいる。立川さんだって――」

 言葉は堰を切ったように溢れ、そして途切れた。

 そうだ。目の前にいる立川だって、瑠璃にしてみれば紛れもない“天才”だ。自分では到底届かない場所に、彼はいる。あのステージの上で怖気づくばかりで、演奏をこなすだけで精一杯だった自分なんかとは違う。

 彼とつきあっている茜もそうだ。小さなころから神童扱いされて、瑠璃の受からなかった私立中学に行って、スキップでもしながら進むみたいに軽々と、推薦で難関私大に受かって。

 泣き言ばかり言うのはダサいと思ったから、できる限りの努力はしてきたつもりだ。一日に十何時間も、寝食さえ削りながら、ずっとピアノに向かった。

 その結果待っていたのは、長い長い停滞から抜け出せない自分への絶望だけだ。

 羨ましい。

 妬ましい。

 情けない。

 ふがいない。

 そんな感情に支配され、音楽が“楽しい”ものでなくなってしまったのは、いつからだっただろう。だから惹かれたのだ。音量と演奏に圧倒されて、余計なことを考えずに済む金曜日のミサに。「ただひたすら、楽しい時間」だけを提供するという、立川の言葉に。

「……立川さんは、すごいと思う。天才ってこういう人を言うんだなって、私、ミサを見て思ったんです」

 声が揺れた。誤魔化すみたいに飲んだサングリアは、とっくに残り僅かになっていた。

 二杯目を頼んだ。普段よりも早いペースだが、どこか投げやりな気分だった。今日はとことん酔ってしまいたい気がした。

 アメリカンレモネードが届く。ワインの赤とレモネードの黄色がきれいに分かれているのを、ストローで乱暴に混ぜた。氷ががしゃがしゃと鳴る。

 いつだって自分なりに頑張っているつもりだった。それでも届かないものばかりな自分が、それをいちいち気にしてばかりな自分が嫌だった。

「俺からしてみたら、瑠璃だって十分すごいけどね」

 立川はそう言って、一切れのピザを一口に押し込めた。目はなにか他にも言いたげなように見えた。

 瑠璃はふて腐れながら、ストローに口をつける。この人からそんな誉め言葉をもらったところで、嘘くささしか感じない。

「そうなんですか」

「うん。俺、音感ないから。音大の入試だと聴音とかあるだろ? 音を聞き取って採譜するヤツ。ああいうの、俺、めちゃくちゃ苦手だよ」

 え、と思わず声が出た。

 音感なしにあれだけの歌が歌えると言うこと、そのうえ曲をつくるということが、瑠璃はうまく想像できなかった。音階を介さずに歌うとはどういうわけなのだろう。ピアノをやっているうちに嫌でも音感は身に付いていたから、それがない世界というものが、知らぬ間にうまく想像できなくなっていた。

「そりゃ、音感が全くないのは不便だから、相対音感みたいなものは無理やり身に着けたけど。それでも速さと正確さは、ピアノを小さい頃からやってたような人にはどうしても劣る。必死に英語勉強しながら帰国子女とか見てる気分」

 ないものねだりってやつだな、と立川は笑い、脂でてかてかと光る指を舐めとった。

 なんだか腑に落ちない気分で、瑠璃はグラスの中の液体を吸い上げた。そんなことを言われたところで、意外ではあったが、何の慰みにもならない気がした。

 ムニエルはバターが固まり始めていた。立川は構わないと言った様子で、大ぶりにナイフで切り分けたのを、直接口に持っていく。

 寝不足のせいか、お酒のせいか、まだ二杯目なのに頭が重い。効きすぎている暖房に身体が火照った。思考の糸はどんどんほどけていく。ああ酔ってるんだな、と他人事みたいに思う。いつも仲間内で飲むときは、お酒を飲んでもあまり酔わないたちなのに。

 身体がテーブルに沈みそうになる。「おい、大丈夫?」と手を差し出した立川の目を見て、瑠璃は直感した。

「どっかで休む?」

 何かを期待するような目。それを見て、なんとなく腑に落ちた。

 吊り目がちな彼の双眸が、淡い色の瞳が、誰かに似ていると思っていた。

 ――修二だ。私が彼と重ねていたのは、間違いなく、忌々しいあの男だ。

 やっぱりクズなんだ、こいつも。

 人間なんて誰だってそうなんだ。

 立川がどんな人間かなんて、最初から、姉の家に出向いたあの時から、わかっていたじゃないか。慰めるような言葉が頭の中を満たしていく。それが何とも言えず惨めだった。

 声を出すこともなんだか億劫で、瑠璃はただ小さく頷いた。

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