私は何を知るか? ――モンテーニュ (7)
立川の行きつけだという楽器屋は、重い木戸を開けた途端、香のような独特のにおいがした。例えるなら、瑠璃の苦手なシナモンのような。あまり長居はしたくない場所だ。
辺りには所狭しと楽器が並んでいる。まさに「あるだけ並べてある」といった、雑然とした印象だった。ガラスケースに守られてもいない。瑠璃の馴染みの大手楽器屋とは、随分と印象が異なっている。ピアノや金管楽器もあるようだが、やはり目立つのはギターやベース、ドラムセットといった類だ。
床もほとんどがスタンドと楽器で覆われていた。鮮やかな色と数の多さに圧倒されながら、瑠璃は立川の後ろについて、楽器をよけながら歩いた。
いかにも怪しい雰囲気だ。傘つきの薄暗い照明のせいか、あるいはにおいのせいだろうか。それとも、ぎっしりと物で埋められた視界のせいだろうか。壁は打ちっぱなしのコンクリートで、楽器の隙間を埋めるかのように、昔のフェスやライブのポスターが貼られている。随分古いものらしく、端がめくれて黄ばんでいるものもあった。
ギターの置いてある所よりも少し奥まったところに、ベースがあった。ネックが長いぶん、ギターよりも背丈が高い。オーソドックスな四弦ベースがほとんどだったが、五弦や六弦のものも並んでいる。瑠璃は物珍しげに店内を眺めた。さっさと帰るつもりだったことなど、半ば忘れかけていた。
「ふうん。可愛いお嬢ちゃんじゃねえの」
背後で低く声がした。
びくりと背筋が強張った。見ると、店主と思しき中年の男が、目を細めてこちらを見ていた。男にしては長い首元までの長髪。彫りが深く、どこか異国風の面立ち。緩いシルエットのインカ模様の服を何枚も着重ねている。瑠璃の周りではまず見たことがないタイプだ。どこか浮世離れしているが、単なる世捨て人ではないような、妙な目の鋭さがあった。
「相変わらず節操がねえなあ。またお前の女?」
男は面白がるように言う。人を小馬鹿にしたような態度が、どこか立川と似ている気がした。
「いいや、茜サンの妹」
「へえ、あの女傑の。なるほど、気の強そうなとこがそっくりだ。――オネーチャン、ベースやるわけ?」
顔を覗き込まれ、瑠璃は固まった。目のどろりとした暗さが、底の見えない深淵のようだ。
「いいチョイスだな。ベースは文字通り土台であり要だ。ベースが生きているだけで、音楽全体がぐっと持ち上がる」
「……はあ」
「さ、選べよ。調節してやる」
瑠璃は困惑して立川を仰いだ。いつもはあんなに饒舌なのに、頼みの立川は、顔を渋めたままろくに助けてもくれない。
「柳沢サンさあ、あんま客ビビらせないでくれない? 貴重なベーシストなんだけど」
申し訳程度にそう言ってはいたけれど、いつもよりも声音が固い気がした。人を食ったような普段の余裕さは見られない。
柳沢と呼ばれた男は、「あっそう」とカウンターに浅く腰かけた。パイプのようなものを口に咥え、煙をくゆらせる。吐き出された煙からは甘いにおいがした。何やら煙草ではなさそうな代物だ。煙たくなって、少しだけ咳き込んだ。
並べられたベースは種々様々だった。値段も廉価なものからびっくりするような高値までそろえられている。色も形もメーカーも多種多様だが、聞いたことのある名前はあっても、瑠璃には正直違いがわからない。
半ば困惑しながら眺めていた中で、ひとつ、目の引き寄せられたものがあった。
ジャズベースだった。四弦。ボディ、ヘッドともに、澄んだ藍色。はっきりとした色だけれど、どこか上品な落ち着きと、透明感がある。
――宝石みたいだ。
瑠璃はほれぼれしながらそれを眺めた。触れたいと、思わずそう思わせるような、つるんと滑らかな表面。
ふと我に返って、値札を確認した。並んでいるものの中では、比較的手が出る部類だろうか。
「バッカスか、いいじゃん」
眺めていただけの立川が、横から口を挟んだ。廉価だがハイフレットも音が狂わず、しっかりとした低音の出るいいベースだという。
「これでいいの?」
瑠璃は「はい」と即答した。一目見て決めていた。ほとんど一目惚れと言ってもいい。
決済は立川が全て済ませた。金を出そうとしても、立川は「いいから」とやんわりと笑うだけだった。ベース本体とケース、チューナー、シールド、ストラップといった雑多な小物を受け取る。「重いでしょ」と手を差し出した立川を制して、瑠璃は自らケースを背負った。ずしりとした重さがどこか懐かしい。
「お前は今日はいいのか」
精算を確かめながら、柳沢は尋ねた。「今日のメインは俺じゃないから」と立川。店を出ようとした矢先に、浅黒い手に肩を掴まれる。
「ベースならいつでも教えてやるからさ。あいつに飽いたら俺のところに来いよ」
囁くような小声。男のまとっている抹香のようなにおいが鼻をついた。
瑠璃は咄嗟に身をよじった。鳥肌を撫でつけるようにしながら、
「結構です。警察呼びますよ」
「はねっかえりな嬢ちゃんだなあ。警察なんて呼ばれたらそっちも困るだろうが」
「……行くよ、ルリ」
立川が瑠璃の手を引いたが、瑠璃はそれを振り払わなかった。
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