善人なをもて往生とぐ、況んや悪人をや ――親鸞 (2)

 日野ひの響哉きょうやにとって音楽は、かつて、耳を塞ぐためのものだった。通学バスの中、乗客の喋り声をシャットアウトするための。あるいは、自分の部屋まで漏れ聞こえる両親の言い争いや、母親の泣き声に知らぬふりをするための。あるいは、世界の残酷さから目を背けるための。

 今はもう昔の話だ。

 幼少期から大人に望まれるように生きてきた。教育されるがままに正義も悪も受け入れてきた。宿題をやれと言われれば文句を言わずにやった。勉強をすることがあなたのためになると言われれば、予習も復習もした。

 小学校四年生から塾に通った。いい大学に行くことがいい人生だと言われていたから。母親は私立中学を受験させたがったが、父親は渋り、両親は随分ともめた。結局、経済的な理由から、地元の公立中学へ進んだ。

 内申点のために運動部と生徒会に入って、推薦で高校受験をした。地元で高偏差値と言われる高校に入ってからも、やることはさして変わらない。勉強時間の確保のために部活は入らなかった。予習と復習をこなし、数ヶ月したらテストがある。そうやって目の前の毎日をただただやり過ごす。

 大人たちは彼を称賛したが、そうすることしかできないだけだった。「あなたのため」と言われたことをただ受動的にやることが、いつの間にか自分の人生になっていた。母親の言われるがままに舵を切った。特別疑問に思ったこともなかった。

 目立った反抗期が来たこともない。親はよく面倒を見てくれている。起きたら朝ご飯が用意されていて、毎日弁当を作って持たせてもらえる。塾から帰ってきたらお風呂も沸いていて、ラップのかかった晩御飯があり、部屋には畳んだ洗濯物が置かれている。それは世間的に見たら幸せなことなのだと彼は知っていた。周りの同級生には離婚した家庭も多かった。両親とうまくいっていない人も。そういう家と比べれば、うちは恵まれているのだと、子供心ながらに察していた。

 それでも、胸に綿を詰められたような息苦しさはあった。彼は何かに――テストや、受験や、就職や、人生のあらゆるものに、常に追い立てられていたから。

 何かがぷつんと切れそうで切れない。いっそ身体が苦痛に耐えられなくなれば楽だった。そんな中で、音楽だけが目の前の息苦しさから逃れる術だった。

 リスニングのCDを聞きたいからと、日野は音楽プレイヤーを親にねだった。ベッドシーツの中にひっそりとプレイヤーを持ち込み、丸くなって音楽を聞く瞬間だけは、心穏やかで、気が休まるものだった。耳の深くにイヤホンを押し込んで、自分がひとりでいられる時間が好きだった。いつしか音楽は、耳を塞ぐために不可欠なものになっていった。

 一番聞いたのはタカトだったと思う。彼の言葉は力強く、激しく、それでいてあたたかだった。親に内緒で買った中古のシングルを、耳に染みこむまでずっと聞いていた。そのうちの一曲が『タオ』だ。

 晩年のタカトのヒット・チューンであり、メジャーで出た最後の曲だ。悩んでいる様子などつゆと見せなかったカリスマでさえ、巨大な葛藤の渦の中にいたのだと思い知らされた曲。誰のために、何のために歩く道だと、タカトはこの曲の中で何度も自問している。晩年のタカトは、音楽の自由のための激しい闘争の最中にいた。頑とした態度を貫いていながら、それでも心の中に迷いを抱えていたこと、それを隠そうとしないタカトの在りようが、日野は好きだった。

 高校一年生の夏、学校主催の短期留学枠に受かったことが、日野の運命を少しだけ変えた。

 二週間程度の短いホームステイだが、日野にとっては親元を離れて暮らすほぼ初めての機会だ。行き先のイギリスは、彼の知らない色彩に溢れていた。景色も文化も、何もかもが違う世界。たった一人で降り立った異国の中、日野は世界の広さに押しつぶされそうになった。

 ホストファミリーは親切だった。三個下のホストブラザーはとても人懐っこく、初対面から弟のように接してきた。最初こそ気後れしていた日野も、すぐに彼とは仲良くなった。

 ひとりっ子だった日野にとっては、家の中に同世代の子供がいることが何とも言えず新鮮だった。

 ホストブラザーの部屋には古いギターが飾られていた。よく見るアコースティックギターとは違う。聞いたことのない音楽も(半ば押し付けるように)聞かせてくれた。澄んだようで鋭いエレキギターの音が、耳に残って離れなかった。

 留学中にギターを少し教えてもらった。ホストブラザーがいない時でも、やるべきことの息抜きに、何度も知っているフレーズを練習した。Fには苦戦させられたが、簡単なコードならある程度弾けるようになった。帰国までの二週間の間に、指先の皮が少しだけ厚く、硬くなった。


 立川陽介の存在は入学当初から知っていたが、関わることも話すこともほとんどなかった。日野はどちらかというと立川とは対極だった。立川は教師相手でも平気でタメ口をきき、課題の未提出者としてはブラックリスト入り。入学一ヶ月で一個上の美人の先輩と付き合いだした。裏でよろしくない連中とつるんでいるという噂もあった。そんな調子だったから、馬鹿真面目の判を押されて浮きがちな自分とは違った意味で、立川もクラスの中ではどことなく浮いていた。正直関わりたくないタイプの人間だった。立川もおそらく、日野のことなど眼中になかっただろう。

 だから、立川から突然話しかけられた時、日野はひどく驚いたのだ。

「よーお優等生くん。俺とトモダチになんない?」

 音楽の授業があった日の放課後だった。日野の机の上に身を乗り出し、立川は日野の顔を覗き込んだ。何かを企んでいるのを隠しもしない態度だった。日野は椅子に腰かけたまま、身を強張らせた。妙な緊張感があった。

「……俺?」

 誤魔化すように眼鏡を押し上げる。

「他に誰がいんのさ」

 握手しよ、と立川が手を差し出してくる。差し出された手は左手だった。少し困惑した日野に、「ジミヘンも言ってただろ? 握手をするのは左手だって」と、立川は見透かしたように言う。

 長い前髪の下で、彼の鋭い双眸が微かに笑った気がした。

「なんで」

「その方が心臓に近いからさ」

 ジミ・ヘンドリクスは知っていたが、そんな格言があることは知らなかった。日野はわけがわからないままに左手を差し出す。

 途端、手首を掴まれ、強く引っ張られた。

 不意のことで体制が崩れる。したたかに腹をぶつけ、机上で跪くような格好になった。とても握手と呼べるような行為ではない。

 立川は日野の左手の先をしげしげと見つめた。指先をなぞり、「へえ」と満足げに呟く。困惑していた刹那、手をさらに引かれ、耳元に顔が近づいた。

「ギターやってるんでしょ」

 囁くような声にもかかわらず、それ以外の音が一切途絶えたような気がした。

 音楽の授業でアコースティックギターを触ったことを思い出す。あの時はボロを出さないよう、目立たないよう気を付けたはずだったのに。

 硬直を解き、日野は手を振り払った。「今はやってない」と苦し紛れに言うのがやっとだった。

「昔はやってたってこと?」

 沈黙。 

「あはっ、いいねえ、人には言えない趣味? 優等生の心の闇ってヤツ?」

 周りからの視線がいつの間にか集まっている。普段一緒にいる友達に目で助けを求めたが、彼らは遠巻きに見るばかりでこちらに近寄ろうとしなかった。

「そうだよなあ。大人に逆らったことなんてありませーんって顔してるもんなあ。もしかして親にも内緒だったり? でもさあ、誤魔化すならもうちょい上手くやった方がいいぜ」

「……何が言いたいんだよ」

 日野は精いっぱい立川を睨んでみせた。

 ステイ先でギターを練習したことは、厳しい親には公言できないどころか、親しくしていた友達にも隠していた。

 嫌な汗が滲んだ。緊張のせいで拍動が早かった。

「俺とバンドやんない?」

 立川が身を乗り出す。強い眼差しに圧倒されて、日野は咄嗟に返事ができなかった。

「だから、まずはトモダチになろうって。君、名前なんだっけ」

「……日野」

「じゃあヒノちゃんだ。よろしく」

 日野の返事を待たず、立川はにっこりと笑った。おそらく彼はその時初めて、日野の名前を呼んだはずだった。

 後日、彼に連れられて、日野は初めてライブというものを見に行った。「金は俺が持つからさ」と肩に手を回してきたのが恐くて、とても断ることなんてできなかった。違法ライブが問題となっているこのご時世、立川に連れられた場所はとても正規なライブハウスには見えなかったが、そこに渦巻く熱気に日野は一瞬で魅了された。

 日野はコーラ、立川はジンジャーエールを片手に、狭苦しいライブハウスで演奏を見た。てっきり酒でも飲むのかと思っていから、彼が健全な飲み物を選んだのが意外だった。

 初めて見た生のバンド演奏は、少々刺激が強かった。耳が壊れそうなボリュームの音の中、鋭く激しい歌詞が胸にずかずかと刺さった。

 エレキギターをピック一つで捌くバンドの一人が、ボーカルの熱のこもった甲高い声が、とてもかっこいいと思った。薄暗い喧騒の中で、ここでのノリ方を知っている立川のことが、とてもかっこいいと思った。

 帰宅部同士だったから、立川は気軽に日野に絡んだ。塾のない日には家まで行ってCDを貸してもらったこともある。意外なことに、立川の自宅は古びた日本家屋風の木造だった。

 貸してもらったCDの中にはタカトのベストもあった。ネットに出回っていた音源のような、粗悪な劣化コピーではなかった。そのほかにも、英米の黎明期のロックやら廃盤になった全盛期の邦ロックやら、日野は立川から流されるがまま音楽をプレイヤーに入れた。

 自分が自分であるための場所が、少しずつ広がっていくのを感じていた。音楽は殻に籠るための道具でもあったけれど、音楽さえあればどこへだって行ける気がした。

 立川の自作の曲を聴かせてもらったこともある。歌が上手いらしいとは聞いていたが、弾き語りで簡単に演奏されたものは、想像以上の代物だった。何の機材も通さない生音なのに、ずるずると引き込むような魔力があった。

 コードの微妙な変化と時折混ぜられる変拍子が、なおさら意識を引きずり込んだ。

「どう?」

 どこか照れくさそうな様子なのが、彼に似つかわず初々しい。

「すごい」

 言葉は自然とこぼれ出ていた。歌だけでない。ギターについても、ストロークの仕方ひとつからコードの抑え方、リズムの安定感まで、立川の実力は想像以上だった。その背後にある濃い努力の影にも、日野は気が付いていた。立川のぼろぼろになった指先を見れば嫌でも察しはついた。

 彼は今までどれほどの練習を重ねてきたのだろう。身震いするような意地をそこに感じた。普段は軽薄な表情が、歌うときにはずっと真剣になるのにも気が付いていた。

 感想をねだられて、日野はそんな月並みな言葉を並べた。それを聞いた立川は、「ふうん、ならよかった」と平然を装ってはいたが、どこか嬉しげなのを隠しきれていなかった。


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