私は何を知るか? ――モンテーニュ (6)
幾日か経ったレッスン後。瑠璃は立川の案内で楽器屋に行くことになっていた。
こんな日に予定を詰め込んだ自分を恨めしく思う。今日の演奏は我ながら酷かった。当然いつもよりも激しく叱責され、全てが正論だったから何も言い返せなかった。
頭の芯が痺れるように痛い。今日くらいは練習も軽く済ませて、早くお風呂に入って寝てしまいたかった。それでも約束を反故にはできない。電車の揺れに合わせて、少しだけうとうとしそうになる。
叱られる理由はわかっていた。寝不足のせいでパフォーマンスが下がっている。集中力も続かないし、スタミナも減っている。練習量で周回遅れを巻き返そうとしたのが完全に裏目に出ていた。自分がガタガタな状態だということは、誰よりもよくわかっている。それでもじりじりと焼かれるような焦燥感は消えない。
改札を出て、待ち合わせ場所の辺りに着いた。次にやる曲を早めにさらっておこうとスマホを出すと、修二から二度も不在着信があるのに気づく。
まだ待ち合わせには時間がありそうだ。何の用かと怪訝に思いつつ、電話をかけなおした。
修二はすぐに応じた。
話は単純だった。また一緒にミサに出ないか。
正直乗り気じゃなかったから、瑠璃は断る口実に立川を使った。「立川さんから誘われたから、そっちで出るから」と、言い訳を並べる。まだ決めたわけでもなかったが。
修二は一瞬だけ言葉に詰まったが、「ああ」と言ったかと思うと、勝ち誇ったように鼻で笑った。
「女はいいよな」
声音にはあからさまにゲスな笑みが含まれていた。
瑠璃は二の句が継げなかった。どうしてそう突飛な言葉が出るのかと呆れていた。何を言っているの? と、口から出る前に修二は喋り出す。
「女だからってさあ、立川さんにちょっと媚び売っとけばよろしくしてもらえんだろ? あの人女癖悪いもんな」
違う、と瑠璃は反駁した。媚びなんか売ったつもりはなかったし、そんな理由で誘われたと思われることは心外だ。
「あんたが立川さんに相手にされないのは実力がないからでしょ。男とか女とかじゃない。性別を言い訳にして自分のセンスのなさから逃げて、恥ずかしくないの?」
強い口調で言い切った。見くびられたと思うのは腹立たしい。電話口から返ったのは、「ふうん、そうかよ」と、嘲笑するような溜息。彼はまだ余裕をなくしてはいない。それが何だか不穏だった。
「お前はどうせセンスいいとか言われて舞い上がったんだろ? あの人調子いいから、そんなこと誰にでも言ってるよ。真に受けちゃったわけ? お前って本当、」
馬鹿だなよなあ。
その言葉が、彼女の逆鱗に触れた。
「はあ?」
「世間知らずの“音大生ちゃん”なんて、いかにも好きそうじゃん。いいように使われてるだけだって気づけば?」
ぴしり、と身が凍った。
この物言いは、何が何でも失礼すぎやしないか。スマホを握る手が震えていた。怒り、悲しみ、不安。色んな感情がぐちゃぐちゃと混ざっていく。明瞭なのはたった一つ、悔しさだけだった。
「そんなんじゃない」
女とか、音大生とか、自分はそんなレッテルだけで選ばれたわけじゃない。
強く言い切るほどに、彼女のうちに黒いもやが渦巻いていく。
「そんなことを言うために私に電話したの? ならもう話したくないから一生かけてこないで。あんたとは金輪際組まないし出ない。最っ低。じゃあね」
瑠璃はそのまま電話を切った。スマホを地面に投げつけようと、力強くふりかぶったけれど、すんでのところで理性が勝った。代わりに花壇を蹴飛ばす。レンガ造りの花壇はびくともせず、つま先だけがじん、と痛んだ。
悔しかった。情けなかった。大嫌いだ。あんなことを平気で言えるなんてどうかしてる。自分のやるせなさを他人にぶつけるのも、ギターの手元を見ながら歌う拙さも、見せびらかすように彼女をつれてくるところも、彼女の「馬鹿なところが好き」なんて口にするようなところも、あんな甘ったるい声で「好き」と言えちゃうような神経も、死ぬほどダサいし、全てが大嫌いだ。
中学から一緒の吹奏楽部だった。瑠璃がまだ天然パーマで眼鏡だった頃から、互いによく見知った仲だった。修二はチューバで、コントラバスの瑠璃からはいつも見える位置にいた。一緒に合わせをしたことだって少なくなかった。
修二の隣にはいつも、自分より可愛くて馬鹿そうな女の子がいた。
瑠璃だって付き合った人がいないわけじゃない。告白されて一緒になった人は何人かいた。だけどだれに対しても、強い感情は抱かなかった。
薄っぺらい恋人ごっこなんかに、どうして夢中になれるのかわからなかった。馬鹿らしいと思っていたし、「好き」という言葉にも歯の浮くような心地しかしなかった。ただ一回を除いて。
修二なんかとはもうこれっきりだ。本当にこれっきり。
じゃないと自分は本当にダメになる気がした。
瑠璃は強く唇を噛んだ。死んでも泣きたくなどなかった。
「ルリ、もう来てたんだ」
ふと背後から声がした。聞き覚えのある嗄れ声に、なぜだかすごくほっとしてしまう。
「もう、遅いですよ。何分待たせるんですか」
八つ当たりのように言いながら、瑠璃は背後の立川を振り仰ぐ。
目は赤く潤んでいたが、ただの一滴も、彼女は涙を落とさなかった。
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