私は何を知るか? ――モンテーニュ (5)

 李音が汗だくの渋木を連れ帰ってきた。まだ冬の気配の残るこの季節だが、Tシャツの袖を肩までまくっている。垂れ目がちな目をぱちくりさせながら、なぜ自分がここに呼ばれたのか、よくわかっていない様子。耳にあるピアスの数は、この間よりも増えている気がする。

「さて、本題だ」

 言って、立川は大仰に足を組みなおす。もはやこの場にいる立川以外の全員が、きょとんとした様子で彼を見ていた。

「新しい風を吹かせる。シブキとルリ――二人には、俺と一緒にあるバンドを組んでほしい」

「え」とまず口から漏れたのは、瑠璃だった。

 ぽかんと口を開けたままの渋木。李音が「おおー」と小さく手を叩く。

「よかったね蓮ちゃん、瑠璃ちゃんと一緒だって」

「バッカおまえ」

 無邪気にじゃれる二人。照れた様子の渋木を一瞥し、瑠璃は目を伏せた。

「お断りします。……時間、ないので」

 あら、と立川がひとつ瞬きをした。

 こうなるんじゃないかという予感は、薄々感じていた。やっぱりミサなんかに来るんじゃなかった。

 立川が鼻につくのはさておき、渋木の喜ぶ気持ちを無下にするのは、心が痛まないわけではない。苦々しい思いを呑み下す。「それに」と、張り上げようとした声が揺れた。

「私以外に、適役なんていくらでもいるでしょう。この間初めてライブに出たんですよ」

「だからだよ。『ミサ』の限界を、俺もそろそろ感じ始めてる。天井をぶち破るためには、フレッシュなエネルギーが必要だ。瑠璃の丁寧で堅実なベースの弾き方は、今まで『ミサ』にあまり出なかったタイプで、俺のやりたいこととも重なる」

 彼の口上は、まるで口説き文句でも述べるようだ。――いや、まさに口説いているのか。

 瑠璃は口を引き結んだ。沈黙を貫いたのは、拒否のつもりだった。そもそもこの話は、立川こそ旨味があるけれど、自分には何の見返りもない。無条件に他人に奉仕したいと思うほど、彼女はお人好しではなかった。

 そもそも、彼女に残された時間は少ない。音楽を食い扶持にすると決めた以上、大学にいる間に少しでも実績を残さなければならない。停滞している場合でも、ましてや脱法音楽ロックにうつつを抜かしている場合でもないのだ。

「殺しとくには勿体ないと思うけどね。まあ一回試してみるのはどうよ? 嫌だったらやめていいし」

 ベーシスト今足りてないんだよねー、と立川は天井を仰ぐ。あの騒ぎを聞いたばかりでは、そちらが本音だろうという気もした。

 一回だけ。前回もそう自分に言い聞かせ、ステージに立った。犯罪の片棒を担いだ。「音楽」と一生かけて関わっていくと誓っていながら、「音楽」に対する禁忌を犯した。そして今も。

 とらえどころのないもやもやが、胸の奥深くで消えずに燻ぶっている。

 規範的だ、退屈だと呼ばれようが、私は自分の関わった「音楽」を愛してきた。だからどんなに苦しくてもピアノを続けてきた。

 では私は脱法音楽ロックを憎んだことがあるか? うるさい、不快だと思った。乱暴で無秩序だと思った。それでも李音に誘われるがまま、足を運んだのは――

「三人、ってことはスリーピースっすか?」

 渋木の声が沈黙の中に割り込んだ。

「いや。リードギターをもう一人誘う。だから四人」

 とっておきの人がいるのだと、立川は言う。やはりいたずらを企むような顔をして、

「そいつも一筋縄じゃいきそうにないから、ちょっとしたサプライズを仕掛けたい。それに協力してほしい。ホントはもっといろんな野望があるけど、嫌だっていうなら無理強いはしない」

 要は体よく使われるというわけか。それもそれで癪だと瑠璃は思う。

「保留にさせてください。今日は帰ります」

 そう言って、つかつかと踵を返そうとした。やらなければならないことは、山ほどある。まだ彼女は課題だらけなのだ。本当なら、今日こうしている間にも、ピアノに向かって指を動かさなければならない。切迫感に動かされるがまま、瑠璃は歩く。

「あ、そうだ。一つだけ」

 立川の声が、彼女の背中を呼び止める。振り向かないまま、瑠璃は歩だけを止めた。

「約束するよ。――ライブに出てくれれば、最高の楽しさを提供する。何もかもを忘れて、音楽に没頭する、ひたすら楽しいだけの時間」

 甘い響きは、ベースアンプから放たれる重低音のように、身体の奥に直接轟いた。

 肩が強張る。悪魔の誘いとは、得てして魅惑的なものだ。逡巡を振り払い、瑠璃はドアノブに手を書ける。

「……一回だけ、考えてみてもいいです」

 そう、引き絞るように言った。

 

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