私は何を知るか? ――モンテーニュ (4)

「馬鹿にしやがって。テメエの無茶苦茶にはつきあってらんねんだよ」

 廊下に怒気のこもった声が響き、瑠璃はびくりと肩をすくめた。ドアを隔てた向こう側、控室の中で、続いて何かの崩れるような物音。――暴力沙汰か? 表情を曇らせた矢先、前の扉が乱暴に開き、人影が飛びだしてくる。

 大きな体躯。半ばぶつかるように躍り出てきた男は、瑠璃たちには目もくれず、まっすぐ出口へと歩いていく。背中の楽器ケースが、すれ違いざまにぶつかりそうになった。

 扉が音を立てて閉まる。

 ――なんだったんだ。

 それとわかるほど心臓がどきどきしている。足音が遠くなってから、李音と顔を見合わせた。冷え切ったような静寂の中で、微かなドラムの音が、遠くから聞こえた。

 蓮ちゃんを迎えに行きたい、という李音に引っ張られるようにして、瑠璃は控室に向かっていた。李音と渋木は一緒に帰るのだろうが、李音はなぜだか瑠璃をしきりに渋木に会わせたがった。

 ドアを少しだけ開けて、中を覗く。ほこりと汗のにおい。床にはよくわからないコードやスコア。長机の上にはお菓子の箱と、包装のゴミと一緒にピックも散らかっている。チューナー、小ぶりなスプレー缶。ストローの刺さったペットボトル。細身の注射器。……注射器?

 瑠璃が目を凝らした刹那、譜面台と一緒になって倒れていた立川が、「よいしょっ」と億劫そうに立ち上がった。

「ってえなあ」

 ジャケットとYシャツの襟元をただし、彼は誰ともなく吐き捨てた。服は見るからに上等な仕立てで、今日もまた、喪服か何かのように真っ黒な装いだ。

 髪の毛の色も服の色も、この人はいつも真っ黒だな、と思う。まるでモノクロ映画みたい。その中で、耳のピアスだけが妙に鮮やかだ。

 彼の目が入り口のふたりを捉えた。「お、来たんだ」

 あれだけの声と物音だったのに、立川に動じているそぶりはなかった。拍子抜けしたような気分で、瑠璃は小さく息をつく。

「……さっきのは何なんですか」

「あら、聞こえてた? まあ気にすんなよ、よくあることだから」

 立川は平然と言い、あくび混じりに軽く伸びをした。

 よくあるのか。眉を顰める瑠璃の傍ら、「立川さん大丈夫?」と李音が立川の顔を覗き込む。

「へーきへーき。……あ、そうだ、李音さ、悪いんだけどシブキ呼びに行ってくれない? たぶんまだドラム周りにいると思うから」

「えー」

「お菓子やるよ。そこのバームクーヘン、美味いよ」

「そう言われちゃしょうがないなあ」

 ふわりとした返事。二つほどバームクーヘンの小袋をポケットに入れると、言われるがまま、李音は踵を返した。軽やかな足音はどんどん遠くなり、遠い喧騒の中にぽつんと、気持ちの悪い沈黙だけが取り残される。

 立川はバームクーヘンの手に取り、ひょいと口にいれた。菓子折りの箱には、瑠璃も知っている製菓メーカーのロゴ。しっかりとした紙箱に付箋が貼られていて、『茜サンからの差し入れ』の丸っこい字に、ハートマークが添えられていた。

 瑠璃の目は菓子折りよりも、その横の注射器に引き寄せられる。訝しげに、それと立川とを交互に見た。

 バームクーヘンをもぐもぐと咀嚼する立川。

「いやあ、ちょうどよかった。ルリと話したかったんだよね」

「はあ……」

 いかにも何かを企んでいそうな様子だ。警戒心を露わにした瑠璃に、「そんな目で見るなって、傷ついちゃうだろ」と、彼は言う。まったくもってダメージなど負っていなさそうな口調で。

 瑠璃は居心地悪そうに腕をさすった。

「……ずっと、聞いてみたかったことがあるんですけど」

「ん?」

「この場所は、タカトを継承しているのでしょう」

 途端、空気に緊張が走った。

 立川の目がほんの少し険しくなる。

 教会。「金曜日のミサ」というネーミング。そもそもカウンター・カルチャーとしての「脱法音楽」そのものが、タカトの活動を下地としている。単に乱痴気騒ぎをしたいだけならともかく、反監理局を念頭に置く以上、羽山タカトは多かれ少なかれ意識せざるを得ない。

「だけど立川さんの音楽は、言ってしまえば、すごく攻撃的なんです。タカトと対極どころか、むしろ彼の音楽を破壊しようとしているみたいで。――あなたは一体、何をしようとしているんです?」

「ふうん、何。怒ってんの? 俺がお上品な“音楽”をしないから?」

 揶揄い混じりの口調は、何かを誤魔化すかのようだ。

「違います。そうじゃない」

 歯がゆい気持ちを噛みしめながら、瑠璃は首を振る。

「だって、立川さんの歌い方は、見るからにタカトの影響を受けているじゃないですか。なのになぜ彼の作った世界を壊そうとするんですか?」

 立川の眉毛がぴくりと動く。

 瑠璃は怒りを覚えているわけではない。ただ、わからないのだ。あれほど露骨にタカトを意識していながら、それにさえ反発するような立川の世界観は、ちぐはぐだ。こんなに過激で派手なやり方は、刺激的でこそあれ、それに対する反発もまた生むだろう。それがわからないほど、立川は馬鹿ではないはずだ。

「タカト、タカト、タカト、ねえ……」

 立川は重々しげに溜息をつく。芝居がかった所作で、口元だけにやりと笑っていながら、目は全く笑っていない。

「まったく、どいつもこいつも死人のケツばかり追いかけてさ。はっきり言うよ。俺はもうそういうのはなんだ」

 立川はペットボトルのストローに口をつける。もう片方の手で例の注射器をいじりながら、天井の光にかざしている。

「最近のインディーズはどこもそうだ。ヤクでハイになりに来てるジャンキーか、“神“の後追いをしようとしている信者か。こんなもんに追いすがって、“音楽”なんて、それこそ笑えるね」

 聞いたことのないほど真摯で、なのに冷たい声色だった。口を挟む隙すら与えず、彼はつらつらと言葉を並べる。もっとも、口を挟む隙があったところで、何も言えそうにない。

「死ねば安泰なんてよく言ったもんだよな。神格化されて、崇められて。――ああそうさ。あいつは偉大だったよ。でかいもんを背負ってたし、色んな人を救ったんだろう。だけどあいつはもう死んだ。生きている限り俺たちは進まなきゃいけない。止まってるだけのものに待ってるのは現状維持じゃない。堕落だけだ」

 でも、と――なんとか口を開こうとしたところで、彼の鋭い眼光に射竦められる。叱られる子供のような気分だった。

「誰かの猿真似をして、模倣して、自分じゃない何かに成り下がる。そんな人生に何の意味がある?」

 有無を言わさない口調で、はっきりと彼は告げた。

 瑠璃は静かに息を呑んだ。

 頑なだ。言われてみれば、「金曜日のミサ」と銘打っているあの催しは、一回たりともタカトの曲を演奏していない。それはきっと、彼なりのこだわりであり、プライドなのだろう。同じ轍を踏みたくない、という。

 だが忌避も行き過ぎれば執着だ。何が彼をそこまで縛るのだろう。

「金曜日のミサ」が発足したのは、およそ一年前。その直前まで、高校生の時からインディーズに関わっていた立川は、忽然と姿を消していた。かと思えば、数年の空白などないかのように突然戻ってきて、今度はメガチャーチの真似事。何があったのだろう。彼の意図はなんなのだろう。

 考え込む瑠璃を見ながら、立川は粗末なソファに腰かけた。身体は簡単に沈む。居丈高に足を組んだ彼の、口角がわずかに上がった。先程までの緊迫した空気を緩めるように。

「爆弾を仕掛けたいんだよ、俺は」

「はあ……爆弾?」

「そう」得意顔。「どかん、と。風穴を開けるんだ」

「よく分からないんですけど」

 なんだか回りくどい言い回しだ。瑠璃は顔をしかめる。「気づかない?」と、煽るような眼差し。

「今はどこもかしこも空気が淀んでる。誰もが傷ついているし、息苦しがってる。なぜか? 押し付けられる型が狭すぎるからだ」

 音楽で世の中を変えようというわけか。それこそタカトの後追いじゃないか。

 そう思った瑠璃を見透かしたように、立川は続けた。

「べつに世直しをしようってわけじゃない。俺はになれればいい。俺が好きなのは音楽であり、ロックなんだ。規範的で誰も傷つけない正しい言葉じゃなくて、自分の言葉で書いた自分の歌を歌いたい。誰かや社会のためじゃない。場所がほしい。他ならない俺自身のために。だから作ったのさ」

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