私は自分の破滅を愛した。 ――アウグスティヌス (2)

 白石瑠璃しらいしるりにとって音楽は、彩りそのものだった。

 音楽は楽しい。身近な音すら音楽に昇華すれば芸術になる。退屈な日々もBGMがつくだけでドラマに変わる。

 刺激の強いものしか楽しいと思えないのは、その人の感受性が貧しいからだ。音楽監理局が台頭してからも、心躍る楽曲を提供する音楽家は、たくさんいる。たとえば、テクノポップの新星、トーリ・ナカエ。少年じみた中性的な美貌と、キーボード一本で多彩な音を操る女性シンガー。

 音楽監理局によって表現の幅が狭くなったと嘆く人もいるけれど、そんなのただの言い訳だ、と瑠璃は思う。本当にセンスのある人間なら、彼女のように、制約の中でも優れたものを生み出せるはずではないか。瑠璃は規制後の音楽しか知らないけれど、それでも音楽を退屈だと思ったことはほとんどない。

 少なくとも、付き合いだけで参加した飲み会のつまらなさよりマシだ。そんなものと音楽を比べたくもない。

「まあ大学なんて就活のために入ったようなもんだし」

 土砂降りの雨みたいな喧騒の中。正面に座っていた男の声が、ふと耳に入る。

 学生くらいしか利用客のいない、狭くて安い居酒屋。料理も酒も味はまずまずの域を出ない。薄めのカルーアミルクに口をつけて、あほらし、瑠璃はと思う。

 女子の比率少ないから、と沙耶に強引に連れてこられた飲み会は、男子と女子が二人ずつ。メンバーは全員、高校時代の吹奏楽部の同期だ。進学先はそれぞれ違う。音大に入ったのはその中で瑠璃だけだったから、少しだけ疎外感がある。

 瑠璃はテーブルの下でそっとスマホを確認する。

 通知の一つを見て、おや、と思う。トーリ・ナカエの新曲を知らせるポップ。それを指で押そうとして、「まあ音大生のお嬢さんにはわかんないかもねー」という棘のある声に、手が止まる。

 どうやらこれは自分に言っているようだ、と気づく。

「小さい頃からピアノとかヴァイオリンとか習わせてもらってさ、俺らがシコシコ勉強してる間もお気楽に楽器弾いてたわけでしょ? いいよなあ羨ましいよ、人生イージーモードって感じ?」

「ちょっと直樹、飲みすぎ」

 沙耶はたしなめるふりをしながら、わざと直樹の肩に触る。赤ら顔の直樹は、わかりやすく華やかになった沙耶を狙っている様子だったのに、今は説教欲が勝っているらしい。あるいは、つまらなそうな様子を隠しもしない瑠璃が、少し気に障ったのかもしれない。どちらにしろ不快なのには変わりない。酒を飲む前のエセ紳士ぶりとの対比は、いっそ清々しいものがある。

「音楽業界はもう斜陽なんだし、いい加減現実見たほうがいいよ。いつまでも好きなものばっかり追いかけてりゃパパママが面倒見てくれるわけじゃないんだからさ。――あーでも女の子はオトコに食わせてもらえんのか、いざとなりゃ寿退職ですか、いいよなあ」

「……うっざ」

「はいはい瑠璃ちゃんキレなーい」

 顔をしかめた瑠璃の間に、沙耶がやんわりと割って入る。気持ちはわかるけど、というような表情。「ちゃんと色々考えてるんだ、直樹はやっぱすごいねー」とフォローをする沙耶は大人だ。

「そーね、口だけでかくてろくにリズムキープもできなかったパーカスさんは言うことが違うわ」

 ひとこと、そう言えずにはいられな自分は子供なのかもしれない。だけどムカつきっぱなしなのは負けた気がして嫌だった。

 直樹はパーカッションだった。中学から吹奏楽を始めた口で、音楽経験が人より乏しいことがコンプレックスだったらしい。小学校からピアノを習っていた瑠璃とは確かに対照的だ。彼の演奏の稚拙さには何度もイライラさせられた。

「むしろ音楽なんかにムキになってんのがガキじゃね? 何歳だよ」

「……はあ?」

「まあまあ。別に好きなことやればいいんじゃないの」

 割って入った修二に、出た神学部、と直樹が囃す。彼らは同じ大学だ。神学部と、経済学部。

「おめーもだよ、神学部ってなんだよ神父にでもなんの? 神父ってなにすんの? 結婚式で愛とか誓わせんの?」

「いや、ああいうのはたいがい牧師だから」

「いや聞いてねーし」

 直樹は笑い、ジョッキに半分残っていたハイボールを一気に飲んだ。「すいませーん、もう一杯」と、近くにいた店員を呼び止める。

「でも神学部って確かに謎だよねー、何してるの?」と尋ねるのは沙耶。彼女は潤滑油だ。高校時代は副部長として、何かとギスギスしがちな吹奏楽部の軋轢もうまくまとめていたと思い出す。

「ん? いろいろ」

 神学部の修二は沙耶の言葉をさらっと片付ける。「でもそれ将来性あんの?」と直樹が絡んでくるのも、慣れた様子で「さあ。俺院いくし」とかわそうとする。「院いくの? 神学部で? マジかよどうすんのそれ」「どうすっかねえ」

 ヴ、と短い振動。手元のスマホを見ると、「この後二人で抜けない?」と修二から。

 いいよ。ほとんど手元を見ないで返信する。

 下心を隠しもしない清々しさ。ちゃっかりした奴だ。マイペースの権化みたいな顔をしておいて。

「神学部ってタカトとおんなじとこだよね」

 素知らぬふりをしながら瑠璃は尋ねる。「そーなの?」沙耶の素っ頓狂な声。

「まあね。一番有名なOBだろうね、間違いなく」

 顔色ひとつ変えず答えるこいつもこいつだ、と思う。


 終電あるから、と一次会を抜けた後、少し離れた場所で修二と合流しなおした。雰囲気のいい店を知っていると言って、二人で飲みなおすという名目で。そのままホテルに足を向けたのは自然の流れだった。シャワーも浴びないうちから壁際に押し付けられ、ボタンに手をかけられた。余裕があるヤツだと思っていたのに、無理に服を脱がそうとする仕草は余裕がなかった。その余裕のなさを俯瞰するのは、そんなに悪い気分じゃなかった。

 さっきまで着ていた服に袖を通す。部屋に戻ると、修二は誰かに電話をしているところだった。

「ごめん、友達と飲んでたんだ。……直樹だよ、わかるだろ? うん、――大丈夫だって。じゃあな。おやすみ」

 好きだよ、と言って修二は電話を切った。自分に何度も囁いた時と同じ声色で。

 有線の音楽に耳を傾けながら、瑠璃はその様子をぼんやりと眺めている。聞き覚えのある電子音――トーリ・ナカエか。これが例の新曲だろうか。

「クズ」

 スマホをしまった修二に、瑠璃は躊躇いなく言う。

「何が?」

「さっき好きだって言ったくせに。彼女いるんじゃん」

 修二は確かにそう言った。一回目は二軒目に言う道すがら、「俺高校の時白石のこと好きだったんだよね」と、早口で。その時は「へえ」と聞き流した。

 その後の余裕のない「好き」は、まだ耳の中に残っている感じがしていた。

 好きだよ、と修二は何度も言った。すがりつくようにしながら、何度も、何度も。

「いいのこーゆーの? 主はお許しになんの?」

「茶化さないでよ。本当に好きだって」

「そういうの、いいよ、もう」

 声が揺れたのはきっと酔いのせいだ。こんな奴に少しでもなびきそうになったなんて、思わない。思いたくない。

 イライラした気分のまま、ベッドのわきの小さな冷蔵庫を開けた。中に入っていたウーロン茶を一気に飲むと、身体の温度と一緒に酔いまで覚めていく気がした。

「瑠璃さ、バンドとか興味ない?」

「――何、急に」

 瑠璃、と呼び方が変わっていることには気づかないふりをして、瑠璃は修二の方を見る。

 ロックというだけで煙たい目で見られるこのご時世に、あわや無法者の音楽に成り下がった時代に、今時バンドか。怪訝に思った瑠璃を見透かしたように、修二が続ける。

「俺と直樹とで組んでんの、バンド。ベースの女の子がさ、直樹の彼女だったんだけど、こないだ別れて気まずくなったっぽくて、やめたいって。でももう、出演決まってるライブがあってさ。今さらキャンセルとか迷惑かかるし。瑠璃、ベースやったことあるじゃん」

 吹奏楽部時代、瑠璃はコントラバスだった。ごくたまに、ポップスの曲をやる時には、エレキベースも弾いた。

「代打でやってほしいって? 随分都合がいいんだねえ」

 わざと子どもをあやすように言った。修二はきまり悪そうに頭を掻く。

 飲み会に誘われたのも、好きと言われたのも、ひょっとしてそのためか。面白くない。瑠璃はウーロン茶の缶を空にして、ゴミ箱の中に放る。がこん、と音を立てて缶が落ちる。

「まあ、できないっていうなら無理強いはしない。残念だけど」

 俺は、瑠璃と一緒にやりたかったけど。眉を寄せて、彼は少しだけ悲しげに笑う。

 ぴし、と背筋が固まった。空調は効きすぎて暑いくらいなのに、指先だけがやけに冷たかった。

「……できないなんていつ言った?」

「いやでも、色々忙しいでしょ音大も。やっぱいいよ」

「いかにも私は苦労知らずの音大生だけど。生憎そこらのお嬢さんたちとは育ちが違うから、売られた喧嘩は買うのよ」

 瑠璃は修二を睨みつける。

「根に持つなよ。直樹、内定出なくてイライラしてただけなんだって」

「そんなの私には関係ない」

 そう、関係ないのだ。一年休学をしてドイツに留学していたから、瑠璃の就活はもう一年先。一般企業に焦点を当てる同級生も多い中で、音楽で食べていきたい、という信念は譲れなかった。

 どこに向かって歩いているのかはわからない。だけど、何より過酷だとわかっている道を前に、これきしのことが「できない」などと弱音を吐けるものか。

 相手の思うつぼだとわかってはいたけれど、辞退は彼女のプライドが許さなかった。できない、なんて思われたくない。この程度のことが。

「これっきり。一回だけだからね。……そのライブはいつ?」

「再来週の金曜。その前に何回か合わせもしたい」

「余裕。馬鹿にしないで」

 鋭い眼光のまま、瑠璃はそっぽを向く。

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