私は自分の破滅を愛した。 ――アウグスティヌス (3)
自分が自分でいられるために、瑠璃には音楽が必要だった。
アップライトピアノの蓋を開け、ウォーミングアップを始める。小学校二年生でピアノを習い始めてから十五年。音大に通う中では日が浅い方だ。自我も芽生える前から音楽漬けにされ、優秀な音楽家にコーチをつけられて経験を積んできた人間、年端もいかない頃から幾度とない海外留学を重ねてきた人間が、自分の周りにはゴロゴロいる。自分にはとても手の届かない文化圏の人間。親が医者だとか、大企業の重役だとか、教授だとか、あるいは両方がプロの音楽家だとか――音楽家の卵たる音大生にはサラブレッドが多い。どちらかといえば瑠璃は、彼らの持つ選民思想の外にいる。
八つ当たりのように激しい曲ばかりを弾くが、気持ちはなかなか収まらない。それなのに、余計な力が入ったからなのか、ほんの三曲弾いただけで腕がだるく重い。
ピアノの鍵盤の上に手のひらをたたきつけた。けたたましい不協和音。「ちょっと瑠璃なに八つ当たりしてんのよお」とたしなめる母親の声が、二階から降ってくる。反論する気力も起きず、自分の指先をじっと睨みつける。
世の中には天才が吐いて捨てるほどいる。例えば羽山タカト。例えばトーリ・ナカエ。例えば瑠璃の周りの器楽科の学生たち。天才としか言えない才能の持ち主たち。
彼らと比べれば、瑠璃は何も持っていないに等しい。トーリ・ナカエや一部の音大生のように、音楽界のサラブレッドとして生まれたわけではない。親はとりたてて特徴のない勤め人とパートの主婦だ。音楽への熱意や理解が特別あるわけでもない。
血なんてものに負けるのは癪だから、必死にくらいついて行こうとする。それでも時折、感じてしまう。生まれもって与えられた物の重要性。それは環境だったり、はたまたセンスとしか言えないものだったりする。
いくら一生懸命練習したつもりでも、音楽エリートたちの中では簡単に埋もれてしまう瑠璃など、音楽界にとっては取るに足らない存在だろう。それでも瑠璃にとって音楽は自分の全てだ。その覚悟だけは、誰にも負けないつもりでいた。
瑠璃には十個上の姉がいた。長女として生まれ、両親からの期待を一身に受けた姉は、小学生の頃から塾に通い詰めの生活だった。姉が私立中学への受験を目指し、習っていたピアノを辞めた丁度その折、瑠璃は生まれた。
姉の人生はとんとん拍子で成功していった。中学では生徒会長も務め、高校もトップクラスの進学校に入学した。日本で一、二を争う私大に推薦でさっさと合格し、今は外資系の会社でバリバリ稼いでいた。瑠璃の音大の学費には、姉の仕送りも多大に貢献している。
姉はとかく勉強がよくできる子だった。お姉ちゃんはすごい。偉い。優秀だ。そんな声を聴きながら瑠璃は育った。十歳の歳の差で勝てるものなど、子どもの瑠璃には何もなかった。瑠璃も勉強はできる方だったけれど、当時の姉には到底及ばなかった。
瑠璃がもっていた、姉に勝てる唯一の可能性は、姉があっさりと捨てた音楽しかなかった。家にあったアップライトピアノは姉のお下がりだ。小学生二年生の時、親に頼み込んで習わせてもらうことになったピアノを、瑠璃はひたすら練習し続けた。
――お姉ちゃんのほうがすごい、なんて聞きたくない。言わせたくない。
反骨精神の賜物というやつで、瑠璃のピアノはスロースタートのブランクを瞬く間に埋めた。音楽は純粋に楽しみでもあったから、中高では吹奏楽部にも入った。音楽を奏でること、自分が自分であることに誇りを持てる唯一の時間だ。勉強ができないから音楽に逃げてる、なんて言われるのも嫌だったから、勉強だって人一倍頑張ったつもりだ。
瑠璃が一番嫌いなのは誰かに負けることだ。この歳になればいい加減、自分よりずっと優れた人間の存在も認めるし、彼らと自分にはどれだけかかっても乗り越えられない壁があることも、わかる。それでも自分に負けることだけは――妥協することだけはしたくなかった。
塗りこめられた劣等感は、いくら拭ってもなくなることはない。だけど、それを受容して惨めになることだけは、惨めな自分を認めてしまうのは、嫌だ。
音楽を奏でるのは楽しいはずなのに、いつの間にか泣きたいような気持ちになっていることが、随分と増えている。瑠璃は涙を押し殺すために、ひとつ深呼吸をする。
贔屓目に見ても才色兼備という言葉が似合う姉には、ひとつ致命的な欠点がある。
男の趣味の悪さ、だ。
これに関しては瑠璃もとやかく言えた立場ではないのだが――殊に姉にはその傾向が酷かった。情緒や倫理観の欠落があっても、顔のよさだけでなんとかなってきましたというような、きれいで破滅的な人間ばかり選んでしまう。例えば浮気性だったり。例えば収入の安定しない夢追い人だったり。
立川陽介もまた、その両者を兼ね備えた、美しく最低な男だった。
しばらくぶりに姉と会う日だった。近況報告がてら、ご飯でも食べながらゆっくりしようと、瑠璃は姉の住む部屋に招かれていた。
姉は瑠璃のコンプレックスそのものに違いなかったが、この姉妹は不思議と仲が良かった。十歳の差がそうさせたのかもしれない。姉は瑠璃を可愛がっていたし、何かと世話を焼きたがった。瑠璃も瑠璃で、腹に一物を抱えてはいたものの、甘やかされることは嫌いじゃなかった。
女同士とは概してそういうものだ。本心がどうであれ、表面上うまくやることは造作もない。
瑠璃がまだ垢抜けなかった中学時代の写真を肴に、沙耶がひそかに陰口を言っていたのを、瑠璃は知っている。あるいは、久しぶりに彼女と会った飲み会の日、「雰囲気変わったねー、整形?」と微笑のまま訊かれたこともある。表があれば裏もあるのは、コインも人間も変わりない。
瑠璃は姉の住むマンションに着くと、まっすぐ姉の住む部屋へと向かった。オートロックのマンションだったが、エントランスを開ける番号は教えてもらっている。
手にはお土産のお菓子を持っていた。エレベーターで八階に向かい、姉の住む部屋のインターホンを、一応押したとき。
慌てたような足音のあと、姉ではない誰かが重たげな扉を開けた。
きれいな男だった。風呂あがりなのか、くるくるとした癖の強い黒髪から、雫が滴っている。目元に落ちた睫毛の影が、妙に淫靡で仄暗い。耳には濃いピンク色の、一粒のピアス。
背はそれほど高くないが、すらっとして見えるのは、体躯が細いせいか。釣り目がちな目と身体のシルエットが相まって、丁度猫みたいだ。魔女の使い魔の黒猫といったところか。
「……誰?」
瑠璃の問いに、男が目をぱちくりさせる。こっちの台詞だ、とでも言いたげに。
男はTシャツとパンツだけの姿だった。下着だけ急いで着てきたのかもしれない。
部屋番号をもう一度確認しなおし、瑠璃は尋ねる。手の紙袋が妙に重い。
「お姉ちゃんは?」
「……ああ、妹ね」
中性的にも聞こえるハスキーな声。男は警戒を解いた様子で破顔する。口元から覗く乱杭歯。顔はきれいなのに歯並びは滅茶苦茶だ。
「茜サンはもう少ししたら帰って来るよ。まあ入れば? どーぞ、散らかってるけど」
すっかり我が物顔だ。ムッとしたのを顔には出さず、おじゃまします、と言って、玄関の戸をくぐる。
男は立川と名乗った。「お姉ちゃんの彼氏?」と訊くと、「まあ、そんなとこ」と曖昧な返答。
「君は音大生の妹ちゃんでしょ。茜から聞いてる。名前なんだっけ」
「……瑠璃」
「オッケー。ルリちゃん、ね。――ふうん、名前も可愛いんだ」
女を褒めるのに慣れた様子が、いかにも胡散くさい。
外見はきれいでも中身はからっぽなお人形さんか、はたまた性欲に脳を支配された文明人以下のクズか。どうせそのどちらかだ。
その失礼な分析は、立川が腰に手をまわしてきたことで、確信に変わる。どうやら文明人以下のクズの方だったらしい。
「雰囲気はちょっと違うけど、よく見ると目元が似てるね」
つつ、と人差し指が腰の上を撫でる。悪寒が背筋を駆け抜けた。「触んなっ」と瑠璃はその手をはねのける。
顔が良いからって何もかも許されると思うな。
「ごめんって」
まるで深刻みのない声音。「謝る気あるんですか」と、瑠璃はますます凄む。
「あとルリ“ちゃん”っていうのもやめてもらえます?」
「悪かったってば。そう睨むなよ、とって食おうってわけじゃないんだからさ。……奥で待ってな、お茶でも出すから」
ちょっと着替えてくる、と立ち去った男の背中を、きっと睨みつける。とんだセクハラ野郎だ。姉もつくづく見る目がない。
姉の選ぶ男はいつもそうだった。ギャンブル漬けや借金苦の尻拭いまでしていたこともある。我が姉ながらさすがに馬鹿かと思った。学生時代に勉強漬けになりすぎて、まともな審美眼が育たなかったのか。
悶々としつつ、とりあえずリビングに足を踏み入れる。ソファにぼふんと腰かけると、見慣れないものが目に留まった。――エレキギターだ。
黒に近いシックな赤色だ。ピックガードとネックに桜模様が散らしてある。スタンドに立てかけてあるところをみると、頻繁に弾いているのか。
ギターは姉の趣味ではない、はずだ。少なくとも瑠璃の知る限りでは。ならば、これは立川の趣味だろうか。あの男も音楽をやるのか。
ますますきな臭い。女泣かせのミュージシャンと言ったところか。どこまでもステレオタイプな、絵に描いたようなクズだ。
瑠璃は紙袋をぎゅっと抱き寄せる。立川。軽薄そうな男だ。思い出すだけでイライラする気がするのは、あの世の中を舐めきったような眼差しが、淡い色合いの瞳が、誰かに似ているからでもある。
やがて立川がリビングルームに顔を出す。「そんな怖い顔すんなって。茜サンが帰ってきたら適当にどっか行くから」と、電子ポットでお湯を沸かすついでに、立川が言う。
「……ギター、弾くんですか」
瑠璃はソファの背に半分顔を隠しながら、立川の方を見た。お茶を淹れる所作が、どことなく手馴れている。家事が苦手な姉よりもずっと様になって見えた。
「うん。でも本業は作曲とボーカルかな。必要ならドラムもベースもやる」
「へえ」
器用なものだ。瑠璃は少し感心する。
砂糖とミルクの量を訊かれ、ストレートで、と返事をする。作業をする手の指が長い。あの手なら楽器を弾くのも楽だろう。
立川がこちらへ歩いてきた。立川が当然のように隣に座ったものだから、瑠璃は尻を浮かせて、心持ちソファの端に退いた。
「瑠璃って好きな音楽とかある? 音大生ならやっぱクラシック漬け?」
「音楽ならなんでも好きですよ」小さく頭を下げ、マグカップを受け取る。「そりゃクラシックも聞きますけど、クラブミュージックもポップスも聞きますし。トーリ・ナカエとかも」
饒舌になった瑠璃を面白がるように見ていた立川は、彼女の名前を出した瞬間、ぴくりと眉をあげた。
「いいじゃん。いい趣味だ」
顔には軽薄な笑みが浮かんだままだったから、どこまで本心かはわからない。
それから彼は、自分の主催しているライブの話を切り出した。『金曜日のミサ』と仰々しく題されたそのライブは、騒音として煙たがられ遠ざけられたロックを中心に、アマチュアたちが演奏をしたり、その演奏を聞いたりする集会らしい。
「なんのためにそんなことを?」
「音楽に理由なんて必要ある?」
どきり、とする。表情こそ笑みが浮かんでいたけれど、目は真剣だ。妙な覇気がある。
瑠璃が固まっている隙に、「よかったらライブ来てよ、あとLINEも交換しよ」と慌ただしく連絡先を押し付けられ、その上URLまで送られた。
その時。ただいまー、との声とともに、足音が近づいてきた。姉が帰って来たようだ。「瑠璃、もう来てたの。早かったね」と言うと同時に、姉――茜は、瑠璃の傍に腰かけた立川を目に留める。
「……人の妹を口説いてたんじゃないでしょうね?」
呆れたような溜息。何かを諦めたような眼差しは、それでも確かに立川を非難していたが、彼は悪びれもせずに返した。
「そーね。なかなか可愛いコだ。茜サンと似てるね」と。
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