トラック2
私は自分の破滅を愛した。 ――アウグスティヌス (1)
*
繁華街、裏路地。あるかなしかの微かな重低音は、聞く者が聞けばすぐにわかる。腹に響くようなベースラインの名残を辿り、漏れ聞こえる音の根源を遡ると、落書きだらけの廃ビルにたどり着く。ライブとは名ばかりの乱痴気騒ぎの熱狂は、階下へと降りたすぐそこにある。
馬鹿ばかりだ、と彼は思う。酒とドラッグと脱法音楽はさぞ気持ちよかろう。人生を直視したくなければ、キマってしまうのが一番だ。いずれ何も考えられなくなるのだから。彼はそうやって廃人になってきた人間を何人も見てきた。友人さえ失った。
人間と同じように、音楽もまた、ひどく凋落させられている。
彼は怒りを覚える。こんなものはただの凌辱だ。『神』の作ったアンダーグラウンドに、自由と音楽を愛する者たちの
「立川さん、久しぶりですーっ! ご無沙汰ですねー!」
肩を大きく空けた女が、そう言って彼――立川のもとへと近寄ってくる。ステージ上の演奏は、ただ音がでかいだけの馬鹿騒ぎで、とても聞けたものではない。その上音楽は、誰の耳にも入っていない。本当の意味では。
身をよじらせ躍る若者。汗がきらきらと飛び散り、照明の光を返す。汗のにおいと混ざる、香のようなにおい。振り上げたこぶし。誰かの怒号。壁際で脚を撫で合う男女。
――ありふれた喧騒だ。クソがつくほどつまらない。
「飲みましょお、アガりましょうよお。シラフじゃつまんないでしょ?」
酒を手に、女が立川の腕に絡まりつこうとする。それをひらりとかわし、「俺、酒飲まないんだよねえ。ボーカルだから」と、おどけたように言ってみせる。誰だっけ、と心の片隅で思いながら。
「ええーっ、そんなのシラけちゃいますよお、シケてますよお」
焦点の合ってない目。「あの夜はサイコーでした。今夜も一緒にどうですか?」
薬に灼けた声で女は言う。その時初めて、立川は女との記憶を思い出す。一ヶ月はゆうに前だったか。自分のライブに来たついでに、一度抱いたことがある女だ。標準よりやや豊満な身体と、少しばかり初々しいところが、なかなか悪くない女だった。
あの頃はこんなに隈が濃くなかったし、こんなにやつれてもいなかった。声ももっと瑞々しくて、こんな悪い遊びにどっぷり浸かるようには見えなかったのに。
「俺ね、基本二度寝はしない主義だから」
「そんなあ。今度はもっとすごいですよ。おくすりがあったらもっと気持ちよくて楽しいって、どこまででもトべるって、教えてくれた人がいるんです。知らないなんてもったいないですよ。人生損してる」
「いーの、俺の人生は音楽だけだから。……つーかちょっと痩せたね」
「えへっ。立川さんに褒めてもらいたくてぇ、ダイエットしたんですっ」
ふらふらとした所作で、女はおどける。きれいだよ、とにこりと笑ってやる。前の方が、とは言わないのが、立川の優しさでもあり、残酷さでもある。
「今度俺のライブにも来てよ。最近来てなくない?」
「行きたいけどお、でもあそこ、なんもないしい」
「音楽があるじゃん」
「違いますって、こういうの、ですっ!」
女が彼の手に何かを握らせる。薄いオレンジ色の、ラムネのような錠剤のような粒。最近出回っている粗悪なドラッグだと、すぐに検討がつく。MDMAの類か。
「こんなもの、――……」
「柳沢さんからのプレゼント、ですよ」
背筋にぞくりと寒気が走った。
「あたしぃ、あの人から頼まれちゃってるんです。立川さんが
のたれかかる女の身体は、ひどく火照っている。胸と下着との間のすかすかした空間が、やけに痛々しい。
いつの間にか、あたりを人に囲まれている。好奇の目で立川を見るのは、女と同じ世代の若者たち――剃り込みを入れたり、刺青をしたりと、個性が豊かなようでステレオタイプなガキどもばかり。
ひゅう、と囃すような口笛。錠剤を放り捨てて立ち去れば、それはたちまちあいつの耳にも入るのだろう。――そうしたら俺は、
立川は錠剤を口へと放り込む。軽いざわめき。
鈍い苦みが口の中に広がる前に、立川は女の後頭部を掴み、顔を引き寄せた。唇を合わせる。女は一瞬硬直するが、身体はすぐに弛緩する。
悲鳴にも似た歓声と熱狂。波となったざわめきが、エレキギターのうねるような音に合わせ、寄せては返す。ディストーションをかければいいとでも思っているようなひどい音だ。
脳をかき乱すギターの音。唇の間に強引に舌を入れた。苦い唾液を飲ませるように、顎を傾ける。戸惑いがちに舌を絡ませてくる女の口の中に、錠剤をねじ込んだ。女の潤った口内は、それを簡単に受け入れた。
サービスだ。舌を甘く食み、歯の裏と、上あごの辺りをなぞってやる。女は脚をすり合わせながら、喉の奥の方で甘い声を漏らす。唇を離すと、銀色に糸が引いた。女の吐息がかかる。
気だるげに息を吐き、立川は口元をぬぐう。そのままにやりと笑った彼の唇には、女のつけていたグロスの艶めきが、仄かに移っていた。
「――悪くなかった、って言っとけよ。あいつに」
とろんとした顔の女と、ぽかんとした若者たちの顔を尻目に、立川は踵を返していく。向かう場所は決まっていた。さんざ足を運んだ場所だ。
夜露に濡れたアスファルト。街灯も当たらぬ路地。聞こえるのは男たちのささめく声と、立川の固い靴底の音だけ。風の冷たさが心地いい。
「よくもまあ懲りずになあ」
立川の声に、会話が止まる。張りつめるような静寂。紙幣を数える指を止め、男たちは彼を見据える。
あたりに漂う甘ったるいにおいに、彼は軽く顔をしかめた。闇に溶け込むような黒髪の下、鋭い双眸だけが微かに光る。
「メーワクなんだわ。こないだも言ったろ? 客にクスリ広めんのやめろって」
「あぁ? ふざけろ、ここはおれたちのテリトリーだ。テメエに口出しされる筋合いはねえ」
男の一人が不機嫌そうに言い、道端の一斗缶を蹴飛ばした。けたたましい音が響く中、立川は眉根を寄せ、嘲るように笑う。
「あのさあ、そもそも君らのオヤジも了承してるし、勝手なことやられちゃこっちもオヤジさんも困んの。日本語わかる?」
「うるせえんだよドブ猫野郎」
皺だらけの紙幣をポケットにねじこみ、男が一歩近づいた。
「おれたちはおれたちで、今まで通り楽しみたいだけだろうが。水差すんじゃねえ」
「だぁかぁらぁ、それが問題なわけ。つーかあの子、オヤジさんの女だろ? 手ぇ出しちゃっていいわけ? バレたら困るでしょ君たちもさ」
「いちいち鬱陶しいんだよ! さっさと失せろクソッたれッ!」
「あらあら、話になんねえな」
立川は肩をそびやかす。「俺のモットーは隣人愛なんだけどなぁ」と、曲がった鉄パイプをその背後に隠しながら。
路地に注ぐのは、高く昇った月の、弱く冷たい光のみ。
「まあでも、悪いネズミちゃんの退治は猫のお仕事ってね」
彼が歩を進める度に、金属の擦れる乾いた音が鳴る。
「はぁ? なんなんだよ、お前もキマってんのか?」
後ずさった男が仲間の一人とぶつかる。その拍子に、カラフルな粒がいくつもポケットから落ちた。
それらを踏み砕いた彼の、口角の隙間から覗くのは、鋭く光る乱杭歯。
冷たい金属が風を切る。
「にゃあ」
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