善く生きること ――ソクラテス (2)

 何が善で、何が悪か。教わるうちは気楽なものである。いつか過ぎ去る嵐のようなもので、言われたとおりに受け入れたふりをしていれば、やりすごせる。

 本当に心身を削がれるのはそれを人に教える時だと、日野は身をもって痛感したことがある。最初にそれを知らしめられたのは、彼が教育実習に行った時のことだ。

 放課後だったと思う。うっすらと西日が差して、ブラスバンドの練習だろう、金管楽器の音がしていた。実習日誌を書こうと廊下を歩いていた時、一人の女子生徒が彼を呼び止めた。

 配属されたクラスの生徒だった。好奇の目で自分を見る生徒が多い中で、日野のことなど全く意に介していないような、大人びた娘だった。

 白石瑠璃しらいしるり。宝石みたいなきれいな名前だ、と思ったから、よく覚

えていた。

「質問があるんです」

 単刀直入に良い、瑠璃はプリントを差し出す。几帳面そうな右上がりの文字が並んでいる。和文英訳の問題だった。ちょうど今日、授業で解説をしていた部分だ。

 ほとんどの問題に丸がつけられている中、一ヶ所だけ無造作にバツがつけられていた。瑠璃は指でそこを示し、「ここ、この訳し方でも間違いではないと思うんです」と、日野をまっすぐに仰ぎ見た。

 示された場所を読んでみると、なるほど、確かに間違いではない。スペルミスもなし、一般的な言い方でこそないが、解釈次第ではこうも書けようという解答だった。捉え方によっては、洒落ていてユニークだと言えなくもない。

 聡明そうな目が、じっと日野を見る。この子は賢く、誤魔化しのきかない厄介なタイプだ。そう日野は直感した。その場しのぎの適当なことを言ったところで、すぐに見抜かれる。

 採点したのはおそらく、日野の世話人の英語教師だろう。自分の教えた通りに書かないと、あまり丸にしたがらないタイプだ。

 日野は一瞬板挟みになり、周囲を目だけで伺った。誰もいない。それを確認して、生徒の高さまで腰を落としてやる。

「確かに、間違ってはいない。『彼が死んでから十年になる』を『彼は十年間死んでいる』と組み替えたんだよな。なかなか面白い着眼点だし、俺だったらバツにはしないかもしれない」

 瑠璃は真顔のまま頷く。熱心に話を聞いているが、その目の奥にははっきりとした自信が伺える。

「ただ、流れを見る限り、この問題はitを使った完了形を使わせたかったんだと思う。作問者の意図としてはそうなんじゃないか。解説でも似たようなことを言っていたし」

「でも、『itを使いなさい』なんて一言も書いてないですよね?」

「まあ……」

 日野は見事に口ごもる。手が無意識に眼鏡のフレームを調節し直した。彼女の言い分はもっともで、だからこそ彼は困っていた。分が悪い。これ以上の弁護は単なる詭弁だ。

「……一応聞いておくけど、なんで俺に質問したんだ? 山下先生じゃなく」

 世話人の教師の名前を挙げ、日野は話を逸らそうとする。「あの人じゃ話にならないと思ったから」と、瑠璃の回答はにべもない。日野は小さく苦笑する。

「あのオバサン、『とにかく私の言う通りにしなさいッ!』って感じで融通効かないタイプだし。矛盾してること、指摘すると逆ギレするし。マジ更年期」

「……ひどい言いようだな」

「本当のことだから仕方ないじゃないですか。あの人の下で実習とか、日野先生も大変ですね」

 同情するというよりは、試すような声音。日野は曖昧に頷いて、話を濁す。山下教諭は、ヒステリックな面は確かにあるが、相手を立てさえすれば楽なタイプだ。我を通したがる人間のために自分を殺すのは、日野はそれほど苦手ではない。

 放課後特有のぬるびた沈黙。やわらかな西日の中で、少女の冷やかな目の色が少しだけ変わる。

「ねえ、先生」

 まっすぐに切りそろえられた前髪の下。二つの瞳が彼を見据える。

「世の中の、正しいとか正しくないとかって、誰が決めるんですか?」

 その双眸を見れば嫌でも察しはついた。――ああ、この子が本当に聞きたかったのは、和文英訳なんかじゃなくこっちの方だ。

 日野はすぐに答えられなかった。正真正銘のだ。だって、このひどく大人びた少女の前では、彼は答えを与える側なのだ。受け取る側ではなく。

 正しさは誰が決めるのか――なんて、簡単に答えられようはずもない。学習指導要領だなんて言えるわけもない。その上、それらしい建前を教えたところで、自分の中にある迷いは、少なからず表に出てしまう。俺は果たして、正しさを説けるような人間なのだろうか。わからないものはわからないのに、わかっているふりをして講釈垂れるのは不誠実じゃないのか、という。

 だから日野は、正直に吐露することにした。

「さあな。俺にもわからない」

「……大人なのに?」

 この子から、俺は大人に見えているのか。日野は少しだけ意外に思う。大人になりきれない自分をどこか自覚しているのに、「大人だから、だよ」と、大人特有のずるい言い回しが口をつく。

 自分の中の信条や正義なんて、広い世界を知るほど揺らいでいくものだ。人と関わるほどに、自分の狭さはどうしても思い知らされる。

 日野はそんな経験を多くしてきた。友人との交わりで、留学先で、映画で、音楽で、彼の価値観はいくらでも打ち壊された。

「正しさの尺度なんて無数にあるし、結局、誰もが自分を正義だと思ってる。善人も悪人も。そういうものだろ」

 曰く、“誰しも好んで悪人になる者はいない”。高校時代に物知り顔で教えてくれたヤツがいた。

「……私もね、先生。絶対的な正義みたいなものはなくて、それぞれが互いに自分の正義を主張し合ってるだけなのかなって、そう思ってたんです。けど、山下先生は、それはダメな考え方だって。テロリストの正義も犯罪者の正義も肯定することになるって」

「なるほど……」

 歯切れの悪い返事をするが、どう続けていいのかわからなかった。

 本当なら、山下教諭のその在り方が正しいのだろう――きっぱりと断言できるその思い切りのよさが、日野には羨ましかった。教師として似つかわしいのはやはり、迷いなど初めからないかのように振舞える人間のほうだ。教師は生徒を正しい光の中に導く存在であり、自らの示すものに自信がない教師など、必要とされない。

 正しいこと。間違っていること。望ましいこと。そうではないこと。善悪の基準は始めから用意されている。彼らはそれに沿って道を示せばいいだけだ。疑問や迷いを抱くのは非効率だし、それは道徳に対する不信に他ならない。教わる側の生徒はまだしも、教える側の教師にとって、不信を抱くことは罪深いことだ。権威のお墨付きの道徳を、――ひいては権威を疑うことだから。

 息苦しい、と思う。それでも、教職課程を採った以上、これが自分の選んだ道なのだ、とも思う。

 ドツボにはまりかけた思考を、「日野先生ッ!」という金切り声が打ち消した。噂をすれば、とはこのことで、大股でのしのしと近づいてくるその姿は、例の山下教諭に他ならない。

「何をなさっているんです? 日誌は書き終えたんですか? 若いからって生徒と打ち解けるのは勝手ですけど、こちらだってやることはやってもらわないと困ります」

「私が質問をしていたんです。

 瑠璃の割り込みに、山下教諭は不愉快を顕わにする。

 教諭はちらりとプリントを見やり、芝居がかった溜息をついた。いかにも生意気な小娘に説教をしてやろうという面持ちで、

「あのね。その例文については散々解説したでしょう。授業を聞いていればわかるはずです」

「……山下先生、彼女は――」

「あなたは黙ってて」

 日野は助け舟を出そうとしたが、教諭は取り付く島もない。

「――あと、正しさは一体だれが決めるのかも聞きました」

 瑠璃は臆さない。煽るのでも、馬鹿にするのでもない、はっきりとした声音。

 こちらが怯みそうになっているというのに、肝が据わっている。悪く言えば強情だ。その上自信家ときている。

 教諭はふんと鼻を鳴らし、「あのね」ともう一度前置きをした。

「そんなことを考えている暇があったら、イディオムの一つでも覚えたらどうなの」

 教諭の目の奥に、かすかに勝ち誇ったような色が浮かんだ。教諭はすたすたと立ち去っていく。その瞬間、瑠璃が「ほらね」とでも言いたげに目配せをしてきたのを、日野は見逃さなかった。

 

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