トラック1

善く生きること ――ソクラテス (1) 

 とっくに辞めたはずのギターの音を、無意識に耳が追っている。

 エレキギターの、輪郭のはっきりした甘い音色。しっかりと粒が揃っているのが小気味よい。耳が勝手に旋律を拾って、その度にかすかに胸が痛む。日野は少し苦笑しながら、濃いだけの安酒に口をつける。酔いたい気分なのにちっとも酔えやしない。

 ジミ・ヘンドリクスやブライアン・ジョーンズや、あの世代の良いギタリストは揃いも揃って二十七で死んだ。二十七クラブの伝統に則れば、彼はちょうど先月二十八を迎えたばかり、立派な死に遅れといったところだ。

 日野響哉ひのきょうや。死に損なった元・ギタリスト。

 うっすら死にたい気分な気もするが、生憎死ぬ度胸はない。その代わりにアルコールで気分を宥めながら、手慰みに指が旋律をなぞる。

 隠れ家的と言えば聞こえはいい、寂れたバー。聞こえるのは有線の洋楽と、氷の打ち合わさる音、あとは店主と常連客のお喋り。巡る思考の傍らで耳を傾けながら、日野は薄まってきたウイスキーを呑み下す。

 二年間付き合った恋人から電話がかかってきたのは、今日の午後八時のことだ。日野はまだオフィスを出ていなかった。ほぼ反射的に通話に応じた瞬間、

「別れましょう」

 迷いのない口調で彼女は告げた。

 余りにも急な申し出に、日野は一瞬、焦りで言葉が出なかった。それから色々なことを考えた。最近まともに連絡がとれていなかったこと。明日は半月ぶりに連続した休みが取れて、彼女に顔を見せようと思っていたこと。付き合った当初から「やめてほしい」と言われていた煙草を、ずっとやめられずにいたこと。

 この早急な結論は、彼女なりに熟考を重ねた末のことなのだろう。本音を言えば別れるのは苦しかったが、ここは彼女の意志を尊重しようと考えた。

 だから彼はこう答えた。精いっぱい彼女を思いやるつもりで、

「わかった」

 と。

 たっぷりの沈黙と、彼女の溜息。

「……そういうところよ」

 返事を待たずして、電話は切れた。

 それから先は、いくら電話をかけても繋がらなかった。着信拒否だろうか。「ごめん」と送ったメッセージも、既読がつかないままだ。

 どうすればよかったのだろう。どうするのが正解だったのだろう。グラスを傾けながら、日野は考える。彼はいつもそうだ。取り返しがつかなくなってから、ミスに気が付く。けれど答えはいつまでも浮かばない。

「いい曲だなァ、マスター。あんたの好みか?」

 不意に、カウンターに座っていた男が口を開く。見覚えのある制服姿。日野はとっさに顔を伏せる。

「クイーンにローリング・ストーンズか。いいねえ。イカしてる。だが払うモンは払わねえとな」

 年老いた店主は、それを聞いて露骨に顔をしかめた。寂しげな白髪に反して立派な口髭が、ぴくりと動く。

「利用料なら他をあたってくれ。監理局サマにくれてやる金なんかない。客じゃねえなら出て行きな」

 店主は手で払うような仕草をする。それを見た男が、にやりと唇をひきつらせた。

のためだ。監視には金が要る。音楽の正当な利用にも金が要る。――あんたは大家に家賃を払わねえのか? 飯を食ったら代金を払わねえのか? 何が違う? 金を払わねえのは泥棒と同じだろうがよ」

 ほら、と少年は手のひらを差し出す。「馬鹿言え」と吐き捨てるように言い、店主は眉間の皺をさらに深めた。

「音楽の監理とは結構だがな、正々堂々、結局のところ中抜きだろうが。”音楽文化の保全”が聞いて呆れる。まるでヤクザのみかじめだな」

「時代の潮流ってヤツさぁ」

 おちょくるような調子で少年は言い、テーブルに強く手を付いた。調味料や酒の瓶がかすかに揺れる。

「ついて行けねえヤツから落ちぶれる。ちょうどこの店みたいなァ」

 また来るぜ、と言い残し少年は店を後にする。乱暴に閉められた扉の反動で、ちりん、と涼しげなベルが鳴った。

「クソッたれ」

 店主は忌々しげに吐き捨て、店の奥へと引っ込んだ。

 手の中のグラスはすでにほとんどが水へ変わっていた。日野は中身をぐいと飲み干し、それでも一曲分たっぷりと待って、勘定をして店を出た。賑わいとは無縁の店だが、そういうところが気に入っていた。ひょっとしたら、もう来ることはないかもしれない。


 今日び、音楽監理局は社会のどこにでも目を光らせている。錦の御旗は文化の保全と健全化。著作権料の徴収から法的・倫理的侵害の監視から、不適切な音楽の排除まで、彼らの事業は手広く、一つ一つが丁寧で抜け目ない。


 店の外に出ると、夜風が頬に冷たかった。古めかしいネオンの残る街はずれは、場末という言葉が似つかわしい。電柱に張られたポスターは日に焼け、めくれかけている。

 日野はマフラーを口元までたくし上げ、雑踏の中を歩く。こもった呼気で眼鏡がふわりと曇った。

 酔いは思った以上にあとから追ってきて、ほんのわずかではあるが、足元が霞むようだ。だがまだ酔い足りない気がした。明日は日野にとって半月ぶりの連休だ。コンビニに寄り、安くて強い缶チューハイを二本買った。つまみを買おうかと迷ったけれど、少しだけ考えて、やめた。躊躇した時点で買わない方がいい、というのが彼の持論だ。無駄遣いはしないに越したことはない。

 コンビニのレジの前にも、「めざします 明るい社会と正しい音楽」という標語が貼られている。いつから世界はこんなに清潔で潔癖になったのだろう。不満、というほどではなかった。ただ少し、喉の奥がつまりかけたような、些細な閉塞感を感じるだけで。


 音楽監理局は、もとはただの著作権団体だった。それが急激に力を増し始めたのは、今から二十年ほど前の話だ。そもそも著作権料の多額の徴収や利益の大幅な中抜きなど、音楽の搾取化が進んでいた日本で、公的機関と内通した著作権団体は絶大な権力を持った。この組織は「音楽監理局」と命名された。世間では単に「監理局」だとか、あるいは略して「音監」だとか呼ばれている。

「健全で正しい音楽」なんてスローガンを銘打ってはいるものの、実態は各省庁や警察OBの天下り先として悪名高い。

 公的な権力を得た当局は、圧政をさらにエスカレートさせた。まず、「青少年への不適切な影響を与える可能性がある」として、歌詞に対する規制が極端に厳しくなった。ロックをはじめとする激しい旋律は、大音量による身体的影響や、幼い子供への情操教育への影響を口実に、公的な場から排除されるようになる。

 それから、音楽管理局を介さない音楽についても、さらに厳しく取り締まられるようになる。申請・登録にもそれなりの額が必要だったが、逆に言えば、金さえ積めば――もちろん、監理局の掲げる表現上の条件内で――いくらでも申請が通るということでもある。音楽監理局は、音楽の文化的な統制を強める一方、搾取に特化させた組織でもあった。法外で強硬なやり口が横行すると同時に、世の中には道徳的で穏やかな、毒にも薬にもならない音楽が溢れた。

 そんな状況下で反抗勢力が生まれたのは言うまでもない。彼らは監理局を介さずに楽曲を作成し、非正規・非認可のライブハウスでそれを提供した。彼らを煽動したのは言わずと知れた羽山タカトだ。動きは一般人の間にも広まっていった。音楽管理局の支配から脱した音楽に、人々はたちまち熱狂するようになる。音楽管理局へ申請のなされていない音楽は「音楽倫理法」によって規制されていたため、これらの音楽は俗に「脱法音楽」などという呼称がついた。

 世間に蔓延る非合法音楽はネズミ算式に増加し、それに関係する犯罪も急増した。違法ライブでの未成年飲酒、組織的な売春、ドラッグの蔓延など、それら犯罪は決して軽いものではなかった。違法音楽は、社会的側面とその依存性の高さから、日本の社会問題として論われるようになる。

 皮肉なもので、カウンター・カルチャーが盛んに叫ばれるほどに、「青少年への悪影響」が懸念され、世間からはますます廃絶された。

 その頃から「弱年齢層の非道徳化が嘆かわしい」として、「特設科目 道徳」が文科省で成立、善良な精神と調和を重んじる厳格な道徳教育が施行される。小学校から大学まで広く施行された「道徳」は、厳密に点数化されたものであり、入試の特別指定科目にまでなった。

 教育により道徳化された世代は、俗に「道徳世代」と呼ばれる。「言われたことをこなす真面目さはあるが、柔軟さに欠ける」というのが、この世代特有の世代論である。

 日野響哉も例に漏れず、そんな「道徳世代」の体現者だった。大人の誰にも逆らうことなく、善を愛し、平和を愛し、謙虚で従順であれと言われるがまま生きてきた一人だ。

「善く生きること、ってよく似た言葉があるんだけど、実際は全然違うんだよね」

 高校生での授業の合間、親しい友人であった立川が、面白がるように言ったのを日野は覚えている。タカトを通った人間にはよくあることで、立川もまた「哲学かぶれ」の気があった。全体的な成績は日野の方がよかったけれど、倫理だけは一回も勝てなかった。

 立川によればこうだ。

 ソクラテスの『善く生きること』というのは、アレテーを体現して己の魂を磨き続けることであり、つまりは「善とは何か、自分なりに追い求め続けること」である。しかし、道徳世代が口酸っぱく言い聞かせられた「善い生き方」は、自ら得るものではなく他者から与えられる概念である。

 今日び、善とは「考えるもの」ではなく「教わるもの」となった。何が正しく、何が間違っているのか。何が安全で、何が危険なのか。

 教えられる尺度を受け入れない、自らの美学を探求する生き方は、――例えばタカトのような人間は――懲罰の対象となる。ソクラテスが「国家の神々を認めず、青少年を惑わせた」と毒杯を注がれたように、音楽監理局に歯向かった粛正だとでもいうように、タカトは東京湾に浮かんだ。それがその証明だと。

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