倫理観

澄田ゆきこ

トラック0

神は死んだ ――ニーチェ


 ――ハロー、迷える子羊たち。これから俺たちの話をしよう。


 俺たちの歴史は、まず間違いなく「彼」から始まる。

 シンガーソングライター、羽山タカト。四国の田舎から腕一本でのし上がり、瞬く間に一世を風靡した男。

 タカトが初めてメディアに顔を見せた時、彼はまだあどけなさの残る青年だった。軽快な語り口と悪戯っぽい笑みとは対照的に、タカト自身の歌は、「轟き」とでもいうような強く激しいものだった。

 彼の音楽は魔法みたいに鮮やかで、そのくせ嵐みたいに荒々しかった。

 その時使われた楽器は、広い舞台の上で、たった一人と一本。すなわち彼自身の声と、愛用のアコースティックギターだけだった。強い照明にもひるむことなく、彼は不敵に回ってみせた。少し長めの癖毛の下、その目がいかにも生意気そうだった。

 ギターを弾いていく。最初は弦を鳴らさずに、ストロークの音だけ。それからコードを刻む音。指での単音引き。スラップの、弦を弾く鋭い音。ギターたった一本で奏でられる、ひどく重厚な、観客を弄ぶような長めのイントロ。焦らすだけ焦らして、緊張と期待が頂点に達した瞬間、彼の歌声が火蓋を切った。

 それは電流に似ていた。あるいは雷鳴。すべてを巻き込んで、それでも余りある衝撃。あんなに余裕綽々とした表情だったのに、彼はすごく苦しそうに、吠えるように、歌う。それにずるずる引きずり込まれて、瞬きすらできなかった。

 彼は天才だった。

 ヤツはまぎれもなく音楽の神様に愛されていた。それだけじゃない。ヤツは神にまでなりあがった。人々の普遍的な痛みや嘆きを代弁し、魂を削るように歌い上げた彼は、いつしかファンの間から神と謳われるようになる。

 あの頃のタカトは光そのものだった。高貴で、気高く、清い。タカトは尊く遠い存在であると同時に、俺たちに寄り添うしるべでもあった。

 ――なんて言うとくすぐったいけどさ。でも俺たちにとって、タカトは間違いなく神様だった。


 彼は哲学だった、とよく言われる。哲学者の言葉を好んで引用し、曲の中にその概念を多く取り入れた。その結果、彼の曲が流行り出してからというもの、哲学のちょっとしたブームまで起こった始末だ。

 タカトを「音楽家であり哲学者」と評する人もいるが、少し大仰すぎるだろう。熱心なキリスト教徒ではあったけれど、彼は思想家と言うよりは、やはり「哲学かぶれ」なのだ。タカトは哲学と戯れていた。気の向くままに楽器を鳴らしながら、音楽を奏でるというただそれだけのことを、心の底から楽しむみたいに。

 タカトが偉大だったのは、最後まで、音楽家の――アーティストとしての使命を忘れなかったことだ。音楽監理局が結成されて、公的に音楽の表現規制と検閲が認められようとした時、先陣を切って抵抗したのは、他ならない彼だった。

 この辺の話は、もしかしたら、今の若い世代には馴染みがないかもしれない。公教育で「道徳化」が推されてから、長いこと経つ。あれが始まったのは、俺がちょうど高校生くらいの時だったか。随分と昔の話だ。

 あれ以来、非道徳で平和を乱す存在は「悪」とされるばかりか、健全であるべき青少年の視界からは、まるごと排除されようとした。「明るく、正しく、安全な音楽」というお題目に反対し、カウンター・カルチャーとしての音楽を大いに盛り上げようとしたタカトも、その例外じゃなかった。音楽監理局に下ったアーティストたちからは手厳しく批判され、やがて音楽界から干されるようになる。それでも当時は、タカトを応援する人だって多かった。

 正しいもの以外の認められない社会は、誰だって息苦しい。タカトはそういう苦しさや嘆きを代弁した張本人だった。「不良の音楽だ」「過激すぎる」と眉を顰める人に、「自分は彼の曲によって救われたのだ」と反駁する人も、かつては決して少なくなかった。

 彼は勇敢であり、偉大だった。音楽を守ることで、ひいては人間の尊厳や自由を守ろうとしたのだ。

 だからこそ、間もなく広がったタカトの訃報は、人々に大変な影響を与えることになる。


 誰もが知るミュージシャンであった羽山タカトの最期は、皮肉なことに、誰一人として知らない。

 確かなことは、ある三月の寒い朝、彼の水死体が東京湾から上がったことだけ。享年四十二歳。無残に膨れた水死体に立ち会い、彼の死を最初に認めたのは、当時十二歳になったばかりの彼の息子だったという。

 ――神は死んだ。

 その一報が、どれほど多くの人に打撃を与えたかは計り知れない。

 あまりに突然で、不自然とも言える死。音楽監理局との闘争さなかのことだった。自殺、他殺、事故と様々なうわさが流れた。警察の見識として発表されたのは「自殺」の二文字。メディアからは干されていたこともあり、あれほど熱狂されていた彼の死は、ほんの小さな記事にしかならなかった。

 一方で、水面下では、多くのファンや音楽関係者がタカトの死を悼んだ。筆頭を失った反監理派は徐々に勢いを失い、カウンター・カルチャーとしての音楽が下火になるまで、そう長くはかからなかった。

 ウェルテル効果というヤツだろうか。タカトの後を追って死んだ人も随分といたらしい。かつて神だの救世主だのと謳われていた歌手が、結果的に多くの人を死へ追いやったのだから皮肉な話だ。

 なぜ彼が自死に至ったのかはわからない。

 そのほかにも、彼は俺たちに多くの宿題を投げてよこした。愛とか自由とか正義とか、人間の生きる意味とか、そういう考えるべき膨大な問題たち。

 それ以外に彼が遺したのは、実に百曲近い楽曲と、ひとつの未完成のボーナス・トラック、それから、たった一人の息子だけだった。

 羽山タカトのベストアルバムが出されたのは、意外なことに、彼の死後だった。全十三曲のアルバムの中には、例の未完成のものもあった。アルバムは、タカト自身がある程度着手していたものを、タカトの親友でありビジネスパートナーだった画家が手掛け、完成させた。

 監理局に目をつけられていたおかげで、データによる配信は認められなかった。形として残っているのは、もはや骨董品になりつつあった手刷りのCDのみ。数が少なかったから、手に入れられた人間は相当に少ない。粗悪な焼き直しはそれなりに出回っているが、オリジナル盤となると、今じゃびっくりするほど高値で取引されているらしい。

 それでも、ボーナス・トラックの存在は当時広く話題になったようだ。インストのみ、長さは五分程度。ボーカルは入っていないし、それらしい歌詞もあてられていない。名前もない。タカトが初めて作った曲かもしれないとか、この曲のアレンジに違いないとか、いやあの曲のアンサーソングだとか、タカトを知る人の間では様々な憶測が飛び交うことになる。最も有力な説は、タカトはこの曲を息子に託したのだというもので――いや、やめておこう。この話はまた今度。


 夜も更けてきたことだし、眠い人は無理せず寝ろよ。一応、このラジオはあとからいくらでも聞けるんだからさ。

 まあ、まだ眠くないって人は、もう少しだけ付き合ってくれると嬉しい。眠れない夜は寝物語と音楽に限るってね。


 さて、本題に戻ろうか。今から話すのは、俺たちが俺たちとして生きて、死ぬための闘争。その軌跡。

 今夜の「金曜日のミサ」は、いつもよりも少しだけ長く続きます。


  

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