善く生きること ――ソクラテス (3)

 ロック・サウンドとニコチンとアルコールは、どこか気持ちを落ち着けてくれる。日野にとってそれは、人間としての帳尻合わせのようなものだ。真人間を保ち続けるのは気力がいる。一糸の綻びもない人間なんて、なろうと思ってもそうなれるものじゃない。道徳化によって無視されつつある事実のひとつだ。

 ロックを覚えたのは高校生の時。煙草と酒はもう少し後になってからだった。前者はすでにご無沙汰になりつつあるが、煙草と酒はずるずると続いていた。

「……どう思います、狩岡先生」

 狩岡と呼ばれた初老の男は、紫煙と共に軽薄な笑いを吐いた。世の中から排斥されつつある喫煙者のよしみで、たまたま親しくなったひとりだった。

 全面禁煙を原則とする学校という空間の中、ほぼ唯一黙認されている喫煙スペースは、この男、狩岡久人かりおかひさとの牙城だけだった。雨は防げても風は防げない吹き晒しのピロティ―で、美術教師であるはずの狩岡は、いつも常識はずれなサイズの油彩画を描いている。

 壮年期をとうにすぎた指は、がさがさと筋張っていた。その手が今は、絵筆ではなく煙草を持っている。彼もまた筋金入りの、実に三十年もののヘビースモーカーだった。

「正しさを誰が決めるのか、ねえ。宗教が盛んな国なら、『神』の一言で片づけたんだろうが。自称無神論者の多い日本じゃそうはいかねえわな」

 狩岡によって、実に二本目の煙草が灰塵に帰そうとしている。

 一昔前の不良がそのまま年を食ってしまったような印象のこの男は、人は見かけによらないというのか、教師と二足の草鞋を履く兼業画家だという。ピロティ―には彼の作品があちこち散らばっていて、コンクリートの壁や床と鮮やかな対比をなしていた。

 どれもキャンバスは大きいサイズで、厚塗りがちの油彩だった。ダイナミックなのに書き込みが繊細で、全体で見ても華々しく、それでいて荒々しい嵐のようでもある。不思議な絵ばかりだった。見たことのある画風だと、日野は思う。

「美術も答えのない世界でしょう。どんなことを思って教えているんですか。何が正しいのか、なんて、確信をもって教えられるんですか」

「確信なんかねえさ。あるわけがない」

 狩岡はあっさりと言い切り、フィルターだけになった短い煙草をもみ消した。矢継ぎ早に三本目へと火をつける。

「俺は昔から、何もわかっちゃいないのに、何かをわかったような口ぶりで話す教師どもが嫌いだった。学校だって好きじゃなかった。今ほどじゃないが、正解を押し付けられる風潮はあった。だから人気のない教室に籠って絵ばかり描いてた。その結果が学校に出戻りなのは笑っちまうとこだが」

 そこで一息ぶんたっぷりと、狩岡は言葉を止める。吐き出された紫煙がピロティ―の天井に溜まり、薄まっていく。

「いざ教師になってみたら、そうするしかないんだよ。何が正しいのかなんてわかるわけがないのに、知っているふりを続けるしかない。ガキどもは時々とんでもなく聡いが、基本的にはアホだからな。先導ゼロでほったらかしてみろ、どんな場所にでも転がり落ちる」

「はあ……」

 日野が返事をする間にも、狩岡の煙草は瞬く間に灰になっていく。

 早いペースで吸い続ける狩岡を見ているうちに、日野はどこか食傷気味になっていた。その上、惰性で吸おうと思っても、ライターはから回るばかりで、なかなか火が点かない。諦めてポケットに煙草とライターをしまった。

「まあ、たまにそのでっちあげの正しさに自分で酔うヤツもいる。『わからない』ことに無自覚になるのは危険だろうが、そうでないうちは少なくとも健全だと思っていいさ。たぶん、な」

「そんなものですかね」日野は気のない返事をする。「あまり本気にするなよ。適当に言ってるだけだ」と、狩岡は表情を変えずに返す。

「『無知の知』ってやつさ。俺たちは、”自分が何も知らないことを知っている”。それでいいんじゃないか?」

「……なんだかずるい気がしませんか、それ。言い訳みたいで」

「今年の実習生はクソ真面目だな」

 一瞬、揶揄をするような口調に思えたが、狩岡の表情はほとんど真顔だった。馬鹿にされているわけではないのだと、日野は少しだけ安心する。真面目という言葉が誉め言葉で用いられることは、存外多くはない。

「その真面目さにやられすぎんなよ。完璧主義なヤツほど病みやすい。時代がらか職業がらか、辞めるやつなんざゴロゴロ見てきた。……辞めるだけならまだマシだな」

 とにかく気をつけろよ、と狩岡は念を押す。それもそのはずで、彼から見れば、この若造は愚直で傷つきやすい、実に教職志望者によくいるタイプだった。それも悪い意味で。

 どことなく潔癖で、完璧でいられない自分に嫌気が差しやすい。日野はそういう仄暗い危うさを持っている。

 教師は精神疾患の罹患率が非常に高い職業と言われる。この仕事そのものに誇りをもっているか、よほど無神経でいられるか、あるいは――狩岡自身のように――ほどほどに不真面目か。そうでない人間、日野のようなタイプは特に、膨大な仕事量と責任の重さに、潰されやすいのが常だった。

 なるほど狩岡の読みどおり、日野は教員採用試験に合格するものの、四年で教壇から降りることになる。


 彼は四年間迷い続けていた。何が善で、何が悪か。指導要領から逸脱しない範囲で、なるべく生徒たちに対し正直であろうと努め、迷いがあればそれを正直に告白した。日野のその態度は頼りないと映ることも多く、不安視こそされたが、特別反感を買うこともなかった。むしろ彼の堅実な仕事ぶりは、それなりの好感をもって受け止められていた。

 三年間、実習先と同じ学校に勤め、四年目に異動となった。最初の学校が大学進学を前提としていたのに対し、次の職場は実に多様性に富んでいた。進学率と就職率は半々程度、短大や専門学校に進路を決める生徒も多い。公立にしては生徒の数はそれなりで、放課後の過ごし方も、塾に部活動にアルバイトにと様々だった。

 異動先には山下教諭もいた。最初こそ日野はうんざりした気分だったが、完全にアウェイだった彼にとって、見知った顔がいるというのは心強い。何しろ、前の職場のようにはいかず、彼には未知数の現場だった。

 中学レベルの基礎がガタガタで、ローマ字で名前を書くのがやっとの生徒もいた。HeとSheの区別がついていない生徒もいた。そういった子たちが零れ落ちて、諦めないようにバックアップしながらも、授業の質は落とさないことが大前提だった。日野は歯を食いしばるように日々を過ごした。いくら懸命に教えても、生徒にやる気がないのでは元も子もない。熱意に対して空回りをするような毎日ばかりが続いた。

 その上、担任した学級には、ひとりの問題児がいた。天邪鬼で、落ち着きがなく、教師の話を聞かない男子生徒。授業中も集中するそぶりは一度もない。「オレって採点ミスで受かったんだよね」と本人がまわりに吹聴しているように、成績も――倫理は比較的できたが――芳しくなかった。進路希望用紙にはミミズが這うような悪筆でロックンローラーと書き、日野の頭を抱えさせた。夏休み、万引きで補導され、店まで謝りに行ったこともあった。保護者と話をしようにも、親も親で、「子供のことは学校に任せている」「仕事が忙しい」の一点張りで、「都合のいい時間で構いませんから」と何度催促しても、一度も面談にこぎつけなかった。

 日野はひたすら、手のかかる子供、という印象でしか彼を見ていなかった。だから、彼がクラスでいじめに遭っていると聞いた時、訝しく思った。彼はどちらかというと、いじめる側のほうの生徒に見えていたからだ。

 事態は想像以上に深刻だった。いじめといっても露骨なものではなく、それだけにたちが悪かった。ただ、よく見れば、もともと休みがちだったとはいえ、彼は目に見えて出席率が減っていた。服が汚れていることも、教材を忘れてくることも増えていた。

 いじめに気づくことができなかったのは、それがわかりづらいものであった以上に、授業内外の雑務や生徒指導、保護者の対応などに追われていたからだ。教師としてまだ若輩者の日野には、とても生徒一人一人を観察したり、クラス全体の様子を伺う余裕などなかった。

 しかし、ことは思わぬ方向まで進んだ。日野の監督不行き届きが告発されるばかりか、はっきりしない態度がいじめを助長したとか、挙句の果てにはいじめに加担していたとまで言われた。

 ことを荒立てまいとして、日野に味方する教師は少なかった。唯一声高に反論したのは山下教諭のみだったが、「そもそも、あの生徒が信頼を失うような真似ばかりしていたのだから、気づかれなかったのは自業自得です」という彼女の言い分は、日野もろともバッシングを加速するに終わった。「いじめられた側が悪いとでもいうのか」と、を持ち出されてはなすすべもない。

 件の生徒は結局、学校を中退した。精いっぱいの罪滅ぼしのつもりで、通信制の高校や他の高校への転校の打診をしたが、日野は見向きもされなかった。

 日野が堪えたのは、いわれのない中傷を受けたことばかりではなかった。生徒から一度として相談を受けなかった事実――自分が信頼されていなかった、という事実が、彼の心を苛んだ。

 それでも日野は、他の生徒たちの前では、平然と教えなければいけなかった。英語、だけではない。善とは何か。望まれるものは何か。文科省に従いながら、迷っていないようなふりをしながら。「無知の知」という言い訳は、彼の心を慰めるにはあまりに無力だった。

 彼は物心ついた時から、努めて善良であろうとしてきた。親や教師の言うことには素直に従い、人を傷つけることを避け、そのためには自分を殺すことも厭わなかった。いい人であろう、よく生きよう、としたつもりだった。

 それでも彼は迷う。重大なミスを犯しても、何が悪かったのか、どうすればよかったのか、なんてわからない。教えられるがまま善悪の価値判断を受け入れてきたのに、それらは追い詰められた彼を助けてはくれなかった。

 ――いや、この時ばかりは違った。答えは明白だ。ちゃんと周りを見て、当事者の話を聞いてやるべきだった。それが可能だったかどうかはともかく。

 翌年もまた異動の予定だったが、それを機に日野は教職を辞した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る