番外編 いたわる。
久次との仕事が早くに終わった静真は、久々に日の高いうちに家に帰った。
鍵が閉まっていたため、合い鍵を使って中に入ると、室内はひんやりとした冷気に沈んでいた。
案の定、陽毬よりも早く帰っていたらしい。
いつもよりも静かな廊下をひたひたと歩くと、居間にたどり着く。
そこもやはりひんやりとした静謐に沈んでいた。陽毬がいないだけで、やはり広く感じる。
外套を脱いだ静真は、ひとまず座る。
今は冬の一番寒い時期である。雪の降る中滝行をすることもあった静真は、この程度の寒さは特になんとも思わない。
しかしこの時期、陽毬が朝起きて一番にすることは、ストーブをつけることだ。
普通の人間は、それほど寒さに弱いものなのである。
静真はちら、とストーブを見た。
操作の方法は陽毬のそれを見ているため理解はしている。
時計を見ると、陽毬が帰ってくるまでもう少しだ。
少し悩んだ後、静真は触ったことのないそれに、神妙に向き直った。
*
がちゃり、と戸が開けられる音が響いたのは、想定よりも遅い時間だった。
本をめくる手を一瞬止めた静真は、耳を澄ませる。
靴を脱ぎ、軽い足音を響かせながら、真っ先に居間へと入ってくる。その音がいつもよりもゆっくりとしていることに静真は眉をひそめた。
「静真さん、ただいまぁ。ふぁぁ……あったかい……」
気の抜けた声と共に現れたのは陽毬だった。オフィスカジュアルだと説明してくれた、ジャケットとスカート姿だ。
コートを脱ぎつつ、陽毬はストーブの前に陣取って座り込む。
「静真さんも、部屋があったかい幸せを覚えてくださったんですね。よかったです」
「いや……」
陽毬のためにつけておいたのだが、そこまで言わなくてもよいだろう。陽毬は嬉しそうにストーブに当たっている。それだけでやったかいはあるものだ。
息をつく陽毬は安堵に緩んでいたが、どことなく表情に覇気がない。
静真は眉をひそめた。
「なにかあったのか」
問いかけると、ストーブの上にのせておいた薬缶の湯量を確認していた陽毬は、ぱちぱちと目を瞬くとへにゃりと表情を緩ませた。
「大丈夫ですよ。ちょっと仕事でちょっと失敗して落ち込んだだけなので」
「そうか、なら」
「静真さんもお仕事お疲れ様でした。それよりご飯作りますね」
「いやだが」
「こういうときこそおいしいの食べる必要があるんです! よーし! たっぷり作りますよー」
むんと、力こぶを作った陽毬は、静真が止めるまもなくぱたぱたと台所へと向かっていった。
取り残された静真は困惑していた。まだ自分が感情の機微に疎いという自覚はあるが、それでも今日の陽毬が明らかに無理をしていることがわかったからだ。
いままでの静真にいたわるための他者がいたことはない。だからこのような状況に経験はなく端的に言うと途方に暮れていた。
ただ、彼女はいつもと変わらず振る舞おうとしている。ならば気づかなかったふりをするべきなのだろうか。
「みゃっ!?」
結論づけた静真がようやく読書に戻ろうとしたとき、台所から甲高い音と共に、陽毬の悲鳴が響いた。
即座に本を放り出した静真が、一足飛びで向かうと、割れて転がる食器と、尻餅をついて座り込む陽毬がいた。
「あいたた……あ、静真さん、食器落としちゃったので入って、ふえ!?」
駆け寄った静真は、問答無用で陽毬をすくい上げた。
「怪我はないか」
「
な、ないですけど静真さん。破片の上を歩いて大丈夫ですか!?」
あわあわと頬を赤らめて動揺する陽毬の指先から足下まで観察したが、確かに汁物の汚れはあるが、傷はないようだ。
ほっと息をついてから、静真は陽毬に答えた。
「歩いていないし、この程度で傷つくような鍛え方はしておらん」
「えっ、あ、ほんとだ」
陽毬が静真の足下を覗いて得心している。
指先一つ置く場所があれば歩くことなど造作もなかった。踏みつけても問題ないが、痛い思いをしたいわけでもない。
しかし、食器と共に転がっているのは、今日のおかずだろう和え物だった。
陽毬はそわそわと落ち着かなさげに身をよじろうとする。
「静真さん下ろしてもらっていいですか。片付けをしなくちゃ」
「俺がやる、向こうで待っていろ」
「でも」
ためらう陽毬を静真が問答無用で居間に送ろうとしたとき、焦げ臭いにおいが鼻孔をつく。腕の中の陽毬がざっと青ざめた。
「煮物を忘れてました!」
その声に静真は即座にコンロの前へと降り立ち火を消すが、腕から降りた陽毬は鍋のふたを取ると悄然とした。
「うう、焦げてる……タイマーかけ忘れちゃうなんて……」
静真は静真で衝撃を受けていた。
出会ってからずっと、陽毬が料理を失敗することなどなかった。多少ぎょっとする料理を出されることはあってもそれはその地域ではおいしいとされる物ばかりだ。
これは相当である。
しかし、陽毬は悄然としながらも、静真に気まずそうながら微笑んで見せるのだ。
「すみません、静真さん。ご飯もうちょっとまってくださいね」
「それでかまわない」
静真が反射的に言うと、陽毬はきょとんとした顔をする。
その隙に静真は立石に水のごとき勢いで続けた。
陽毬は食事に関しては頑固だ。だからこちらが上回る威勢で言わねばならない。
「汁物と白飯はあるのだろう。十分すぎるし、その煮物も食べられそうだ。だから問題ない」
「え、でも」
「では俺は片付ける、お前は食事の支度を続けてくれ」
静真が強引に会話を切って、床に転がった破片を集め始めれば、陽毬は勢いに押されてくれて配膳の支度を始めたのでほっとした。
しかし、これは本格的に何かしなければならないと、静真は猛然と考え始めていたのだった。
少し焦げた煮物は、それでも陽毬の優しい味がした。
静真としては全く問題なかったのだが、陽毬は始終申し訳なさそうな顔で箸を使っている。
いつもよりもずっと口数が少なく静かに終わった夕食の後、静真はいつも通り食器を洗う。
陽毬が作る係を引き受けるなら、片付けくらいはやれ、と久次に言われたからだ。
上げ膳据え膳であった静真には片付けるという概念がなかったが、全くその通りだと納得したため、それ以来洗い物は静真の役割になっていた。
いつもより手早く終えた静真は、居間にいる陽毬の元に戻った。
風呂はすでにわいているが、全く気づいていないのだろう。ぼんやりとテレビを見ていても心ここにあらずのようだった。
ひとつ息をついて、こわばる体をなだめた静真は、陽毬の隣に座った。
さすがにそれには気づいたようで、ゆるりとこちらを向いた。
「静真さん、お皿洗いありがとうございました」
「いや……陽毬」
不思議そうな顔をする陽毬の頭に、静真はそっと手を伸ばした。
ぽん、ぽんと軽くなでた後、髪を梳くように手を滑らせる。陽毬の髪はふわふわと柔らかかった。
「ふえっ静真さん!?」
びっくりしたように体を揺らす陽毬に、静真は反射的に手を止める。
「ずっと考えていたのだが、今のお前に何をすればいいのか俺には皆目見当がつかん。だから、以前に俺の気が紛れたことをしてみたのだが」
そう、結局静真が知っている方法といえば、陽毬にしてもらったことばかりだった。
その中ですぐに行動が起こせる物を選択したのだが。陽毬の目はこぼれんばかりに見開かれている。
それは予想外、思ってもみないことをされたというべき反応で、静真は不安を覚えて眉を寄せた。
「これは、間違いだったか」
「あわわっ、待ってくださいやめないで」
離しかけた手を、陽毬に両手で捕まえられたため、静真は力を抜いて彼女の頭に戻した。
ほっと、息をついた陽毬は気恥ずかしげな表情をしながらも静真を見上げてくる。
「あの、もしかしてすごく気遣ってくれました?」
「……気遣い方がわからなかった。さすがに俺とてこういうことは聞いてやるものではないことくらいわかる」
あまり認めるのも不本意だったが静真が素直に言うと、陽毬がようやくいつものような気の抜けたほほえみを浮かべた。
「ありがとうございます、静真さん。えへへ。もうそれだけで私の気力ゲージが回復するんですけど、せっかくなのでお願いしてもいいですか」
「何でも言え。殺したい相手がいるか」
「そんな物騒なことじゃありませんから。……じゃあ、静真さんこう、手を前に出してちょっと広げてください」
「こうか」
珍しく明確な陽毬からの願いに静真が姿勢を正して従うと、広げた腕の間に陽毬が飛び込んでくる。
反射的に抱き留めると、小さな陽毬の体から力が抜けていくのを感じた。
「これで、頭、なでてくれますか」
「……ああ」
突然の陽毬の行動に、心臓がばくばくと鳴っていた静真だったが、ぎこちないながらもなで始める。腕の中の彼女がほうと、安堵のため息をついた。その表情はふんにゃりと緩んでいる。正解らしい。
「今日、食堂の配膳の手際が悪くて、お客様をお待たせしてしまったんです。料理自体はちゃんと出せたんですけど、お待たせしてしまったお客様が怒ってしまわれて。その方が食堂内で大暴れ出して騒ぎになってしまいまして、その謝罪と後片付けで遅れたんです」
「そうだったか」
ぽつ、ぽつ。と語り出した陽毬に、なんと言えばいいかわからなかっため静真はただ相づちを打つ。
「配膳の手際が悪かったのは反省したんですけど。食堂の主任がお客さんを怒らせてしまったのは私のせいだって、言ってきたんです。ほかのスタッフさんもお客さんも、あれはお客の言いがかりだったって証言してくれて、その通りに報告してたのに、ずうっとおなじ話を繰り返すんです」
また陽毬の表情がぐっとこわばって来たため、静真は彼女の背中に手を滑らせる。その手つきはぎこちなかったが、再び和らいだ。
「まあ、最後のほうはストレスのはけ口にされてるんだなあって気づいたんで、右から左に流してたんですけど。やっぱり堪えましたぁ……」
くたり、とまた体重をかけてきたが、堪えるような重みではない。やはり少し心配になる頼りなさだったが、その言葉は聞き捨てならなかった。
「……主任を呪うか?」
「呪わないでくださいね? ほんとですよ?」
陽毬は自覚していないようだが、たとえ修行していなくとも、負の感情をぶつけられ言葉を繰り返されればそれは呪詛たり得る。
その主任は陽毬を呪ったのだから呪いを返されることも覚悟して当然だと思ったのだが。
陽毬の声は本気でだめだと主張していたため、静真はひとまず案を引っ込めて、陽毬を閉じ込める腕に少しだけ力を込めた。
ストーブの近くにいたおかげか、陽毬の体は温かく戻っている。後頭部に背中に手を滑らせるたびに、彼女が生きている気配が伝わっていた。
こらえきれなくなった静真は深く息をつくと、陽毬の肩口に額を乗せた。
「困ったな……」
響くささやき声に陽毬はほんの少し体を揺らしたが、静真の顔をのぞき込む。
「どうかしましたか」
「お前への労いであるにもかかわらず、これでは俺の褒美だ」
なにせ静真の心が満たされてしまっているのだ。
ほかの方法を考えねばと神妙な顔で考え始めた静真を、ぽかんと見つめていた陽毬は、かあと顔を赤らめた。
つまりは自分を抱きしめているのが幸せなことだと言っているのだ。自分から言い出したこととはいえ、そこまで無自覚にあけすけに言われて気恥ずかしいが、嬉しくない訳がない。
「あーもう。静真さんは、ちょっとずるいです……」
「そうだな。別の行為を考えよう」
微妙にかみ合ってない会話にくすりと笑った陽毬は静真を見上げた。
「二人で癒やされたんならいいじゃないですか。私も疲れが吹っ飛んで、静真さんも嬉しい。ウィンウィンと言うやつです」
「む、お前も癒やされたか」
「そりゃあもう、癒やされました」
陽毬がほんわりと笑う顔をじっくりと見つめた静真は、そこに先ほどまであった無理の色が見えないことに、ほっと安堵の息をつく。
何がよかったのかは分からないが、こうして彼女のためにできることがある。
「お前がいいなら、いい」
ふ、と表情を緩めた静真は、再び陽毬の髪に手を滑らせたのだった。
*
数日後、静真が帰宅すると、陽毬は台所に立っていた。
しかし、静真が顔を出すと彼女にうろんげにじい、と見られる。
「静真さん。きょう、食堂の主任が体調を崩して休んでいたんですけど。なんか悪夢にうなされてるらしいんですけど、もしかしたら呪われてるかも知れないって妖怪のお医者さんに診断されたらしいんです。まさか……?」
「何もしていないぞ」
静真は先んじていった。何もしていないのだ。彼女に向けた呪詛にもならない悪意をただまとめて持ち主に返しただけである。それを呼び水に今まではき出してきた悪意が戻ってきている可能性もあるが、自業自得の以外の何物でもない。
しばらくじっと探るように見つめていた陽毬だったが、ふう、と息をついた。
「まあ、いいです。お仕事はふえましたけど、ちょっとだけ、すっとしちゃいましたし」
そういった影響は考えていなかったと、静真が密かに反省する。
今日は陽毬が少々疲れ気味なのはそのせいかと得心がいった静真は、陽毬に向けてそっと腕を広げた。
「……いるか」
「静真さん、もしかして気に入りました?」
「……」
「あ、引っ込めないでください、いりますいります!」
陽毬は、静真の神妙な顔にくすりと笑うと、手を伸ばしたのだった。
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