第24話 帰る。



 静真は建物の壁に身を預け、ぼんやりと空を見上げていた。

 真昼の空は晴れ渡り、初夏の風が心地よい。心地よいと思えるようになったのだなと自分の変化にも驚くものだ。

 その傍らでは久次が小難しい顔で双眼鏡をのぞき込んでいる。


「目撃情報からすると、ここを通るはずなんだが……。おい静真、ちゃんと見てるか」

「空が青いな」

「見てねえじゃねえか!」


 ばっと静真を見た久次は怒り顔だ。この青年と行動を共にするようになって半年近くになるが、あまり友好的ではない。が、それがこの青年の通常なのだと理解するくらいには時を過ごしていた。


「お前が網羅できん上を見ている」

「くっそ、子供みたいな理屈を捏ねやがって……」


  苦々しげにする久次だったが、静真は聞かれたから答えただけだったため首をかしげる。彼に頼まれた任務は遂行しているためになおさらだ。

 ふ、と静真は風が変わるのを感じた。

 羽音をさせて舞い降りてくるのは、一羽のカラスだった。頼み事をしていた一羽だ。

 腕にとまらせた静真は報告を聞いた。


「久次。輪入道わにゅうどうはこの先の公園に向かっているようだ」

「はあなんで!?」

「標的を変えたのではないか。俺たちが何度か妨害しているからな。公園にも子連れの母は多くいる」

「くっそあの人妻好きめえええ! 行くぞ静真! 犠牲者なんざ出しちゃいけねえんだ!」


 絶叫しながら立ち上がった久次を、静真は無造作に担いだ。


「うわっ!? はっなにす」

「お前では遅い」


 俵担ぎをした久次が暴れ出さぬうちに、静真は片翼を広げる。

 多少重いが、問題ない。


「おま、俺が良いって言ってないのに飛ぶなああああ!」

「うるさい」


 久次の抗議を無視して、静真は一気に飛び立った。





 静真が里と決別してから約1年経っていた。

 陽毬は何事もなく大学を卒業し、地元に戻り無事に就職した。

 静真は、彼女が選んだのが人も妖怪も共に働く企業の食堂だというのに驚いた。

 そんなものがあるということもそうであるし、知らなかっただけで人と妖怪が近しく共存していることにもだ。

 いかに己の世界が小さかったかを知って、はじめの頃は頻繁に自己嫌悪に陥っていた。


 静真が出た、久遠の里の話は数ヶ月たったころに聞いた。

 呪詛が殺到した結果、自分たちが作った結界内に閉じこもらざるを得なかったらしい。

 呪詛がすり切れるまで百年単位で出てくることはない。


 だがそうする前に別の贄を準備することは可能だったと静真は思うのだが、それを阻止したのは渋郎だった。

 渋郎はとある妖怪一派の出身で、以前から久遠の里を探っていたらしく里に恨みを持った妖に報告した結果、久遠の里は報いを受けたのだ。

 それを包み隠さず話した当時の渋郎は、まるで断罪を待つような顔をしていた。利用されていたことは静真にとって大したことではなかったのだが、少しだけ胸がちくちくと痛んだ。

 なぜだと思ったが、それを教えてくれたのも陽毬だった。


『渋郎さんは静真さんを助けたかったから、今まであの里について黙ってらっしゃったんですよね。だから静真さん、渋郎さんは今も昔もずっと味方だったんですよ』


 この痛みは、渋郎に裏切られたと思ったからか。そこまで自分が渋郎に心を傾けていたとは気づかず呆然とした。しかし渋郎がそれほどの危険を冒してまで静真をすくい上げようとしてくれていたことが、胸に響いた。


『静真さんは渋郎さんとどうしたいです?』


 そわそわと落ち着かない様子でいる渋郎を見下ろして静真は考える。どうしたいかといえば。


『依然と同じように』

『なら、こう言わなきゃですよ』


 陽毬にこそりとささやかれた言葉は、あまり口なじみがないものだったが。静真は渋郎に向けて言った。


『感謝、する』


 陽毬よりも先に、静真のそばにいた妖は、静真の知らないうちに何度も救ってくれていたのだろう。でなければ、こうして静真が里から任されるお役目を切り抜けて生きていることはなかったのだから。

 前は誰かに感謝をするというのは施されたことを認める屈辱的なことだと考えていたが、相手に気持ちを伝えることは大事なことなのだと既に静真は学んでいる。

 ただ、そう伝えた渋郎が大号泣したのをなだめるのは、とてつもなく大変だった。


 そうして離れてみて、静真は己の足で立つことがいかに困難で、誰かに支えられて生きているのかを実感した。


 何をすべきかわからなかった静真に、仕事を紹介してくれたのは久次だ。

 彼は師匠だという人の指示で、人と妖怪の間で起きるトラブルを解決していた。それの手伝いを静真に願ったのだ。


『悔しいけど、あんたの術の腕はものすごく役に立つ』


 そんな心底悔しげに言いながらも誠実に頼んで来られて以降、静真は久次と行動を共にしていた。

 術者にやたらと絡まれていたのも、静真がもつ技術を借りたいという思惑があったらしい。天狗の技の貴重さを知り、それよりも様々な妖と人の関係を知った。

 うまくいかない物もあった。だがつながる縁もあった。

 陽毬が住む土地を牛耳る、妖怪一派の長にも用心棒として雇われることになったのも一つの縁だろう。


 様々な物を知るにつれて。静真は少しずつ、頭にかかっている霧が晴れてゆくような気分を味わった。

 まだ里の記憶に囚われることはある。服にこびりついた泥のように、静真が手を汚した分だけ、ついて離れないモノなのだろうとつきあってゆく覚悟は決めている。





 片翼をなくしたことで静真は長距離を飛ぶことは難しくなり、速度も出せなくなったがだいぶ慣れた。

 静真は無事に公園へたどり着き、今にも幼子を害そうとしていた輪入道を捕獲して事件を解決することができた。

 しかし無事に間に合ったというのに、久次はぐちぐちと文句をこぼしていた。


「だから飛ぶときは覚悟を決めさせろって言ってんだろう……」

「お前の覚悟が決まるまで待っていたらいつまでも飛べないだろう」

「飛ぶ以外の移動法覚えろ!」


 陽毬に聞いたところ久次は「高所恐怖症」というもので、高い場所に恐怖を覚えるのだという。だが万全に飛べなくなった今でも、空は良い移動手段で、輪入道のように緊急を要する時には重宝している。

 翼を半分失ってから飛ぶことを楽しいと思うようになったのは皮肉だった。

 が、今は久次に関してだ。確かに昔は飛ぶことの方が多かったが。


「今はこうして歩いているだろうが」


 静真が言えば、久次はうぐ、と言葉を詰まらせたがすぐに半眼になる。


「俺は知ってんぞ。姉貴が理由だろう」


 今度は静真が言葉に詰まる番だった。

 静真が率先して地を歩くようになったのは、陽毬が静真と並んで歩くことを好むからだった。

 しかしそれを肯定することにものすごく抵抗があった。羞恥と呼ばれる感情だとわかっているが、この青年に弱みになるような物を見せるのはしゃくに障る。

 結局静真が黙り込んでいれば、久次は声のトーンを落として続けた。

 

「……俺は、姉貴が納得してんなら良いなんて言わねえからな。泣かせたらグーパンだからな」

「お前の拳は、効くからな」


 里と決別した日も、陽毬を抱き込んだまま眠りかけていた静真をたたき起こした上で殴られたのは今でも鮮明だ。

 あれはさすがに効いて、その後3日寝込んだのは良い思い出である。

 久次が連れてきた医者によるとそれでも驚異的だったらしいが、あまり怪我をしないようにしようと密かに誓ったものだ。

 静真はいろいろなことを気にするようになった。久次はもちろんだが、渋郎の子供に誕生祝いを送ったし、仕事先で世話になっている妖に怒られてもむやみに反発しなかった。それはたとえば感謝を示すためであったり、怒られるのも己を気遣うためであるとわかるからだ。

 静真の周りは騒がしい。


「今日の飯なにかなぁ」

「お前が食べに来るからぐりーんぴーすで炊き込みご飯をすると言っていた」

「そりゃあいい! 姉貴の炊き込みご飯楽しみだな」


 久次と連れだって歩き、静真は娘の待つ一軒家へと戻る。その道中、久次がからかうように笑った。


「そういや、もう窓から入らなくて良いのか?」

「……」


 静真は無言を貫いた。あれはたまたま家に来ているという体をとりたかっただけの己の維持だったのだから、今となっては決まり悪いだけだ。それをうすうす察している久次はことあるごとにからかってくる。


「今の家なら縁側も広いし下り放題だろうになぁ」


 しかし久次のにやにやした顔にかちんときた静真は、軽く指をはじく。

 あっという間に久次を包み込み、強固な結界となる。 


「今日の講義分だ。そこから抜け出してみろ」

「おい、てめえ! これいつもより固くねえか!? というか道ばたでやるな!」


 久次がわめく声を背中において、静真は足を速めた。

 瓦葺きの平屋である彼女たちの実家の縁側は、確かに降り立ちやすいが、今では歩いて帰ることの方が多い。なぜなら、陽毬と共に暮らすための約束の一つだからだ。


 たどり着いた玄関扉を静真は開く。

 一歩中に入ると、ふわりと煮炊きの匂いが漂ってきた。

 陽毬はすでに帰って食事を作っているらしい。自然と心が緩んでゆくのを感じながら、静真はまっすぐ台所へと歩いて行く。

 すると、彼女も気づいたらしく、いつものエプロンを身につけた陽毬が、ひょこりと顔を出すなり、柔らかくほほえんだ。


「おかえりなさい、静真さん」


 ふわ、と陽毬がほほえむのに、静真はちいさく口角を上げることで応じた。


「ただいま」


 彼女との新たな約束。それは帰りの挨拶をすること。

 これが当たり前になってもうずいぶん経つにも関わらず、静真はまだ心が震えるような気がする。


「ふふふ、やっぱり静真さんはタイミングが良いですねえ。あともうちょっとでできあがるんで、久次と手を洗って待っててくださいね。……って久次は?」

「遅いから置いてきた。おそらくそろそろ……」

「ったく図星刺されたからって術使うんじゃねえ! あと鍵かけるな!」


 玄関の方から騒がしい声が聞こえてきて、陽毬が吹き出した。


「ますます仲が良くなりましたね。楽しそうで何よりです」

「……仲良くないぞ」

「喧嘩するほどなんとやらっていうやつにしか見えませんよ。静真さん、なんだかんだ言っても久次とつきあうの、嫌じゃないでしょう?」


 そこまで言われてしまえば口を閉ざすしかない。まだ自分のことはよくわからないが、陽毬の言うことも己の心にしっくりきた。


「だがお前以上に共にいたいとは思わない」


 そう、告げたとたん、陽毬の頬は朱に染まる。これが怒っている訳ではなく照れているだけだと静真はもう知っている。


「そう、不意打ちしないでください」

「お前が言わなければ伝わらないのだと教えたのだ」

「そうですけど! あ、最後の仕上げありますし!」


 慌てて身を翻そうとする陽毬の手首を静真は捕まえた。


「はぐがまだだぞ。約束しただろう」

「っ!」

「おい! 俺の存在を忘れていちゃつくんじゃねえ!」


 陽毬が顔を赤く染めて何かを言う前に、ぎゅっと眉を寄せた久次が来てしまった。

 はぐの約束は、その習慣を知った静真が提案し、彼女と話し合って決めたことだ。

 だがしかし、久次の前で静真が触れるのを陽毬は非常にいやがる。しないことにしているとはいえ残念だと思いつつ、彼女の手の甲に唇を落とした。これくらいなら問題ないだろう。

 今世話になっている妖怪組織の親分が、これは親しい人にする人間式の挨拶だと言っていた。


「食卓の準備をしてくる」


 そう、言い残して静真は洗面所に向かう。後ろで姉弟が話し込んでいたが、静真は気にしなかった。既に静真もその一員なのだから。


「……姉貴、あいつ妙な方向に進化してないか」

「なんか、妖怪の親分さんところでいろんなことを吹き込まれてるらしくて……静真さんのことは好きだけどお姉ちゃんそろそろ心臓もたないかもしれない」

「強く生きてくれ姉貴」


 片翼の天狗は温もりを知らなかった。

 だが静真は、陽だまりに帰ることができる。

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