第23話 「  」する。

 娘の家のベランダに降り立った静真は、さすがに力が抜けた。

 なんとか娘を無事に下ろし、部屋の中に入ったが、その場に座り込む。

 痛みは鈍くしてあるが血を失いすぎているせいで体がだるい。このままでは床が汚れるな、と静真がぼんやりと思っていれば、娘が慌てて救急箱を持ってきた。


「静真さんっ傷、傷の手当てしなきゃ! その前に、久次! あとあと妖怪のお医者さんっ」

「大丈夫だ、たいしたことじゃない」

「翼がもげてるんですよ! たいしたことでしょう!?」


 静真は今にも泣きそうな顔をする娘を落ち着かせようと言ったのだが、娘に食い気味に言われた。

 確かに大事ではあるのだが、これくらいの傷は何度も受けているし、もう血は自分で止めている、神通力は意外と便利なのだ。


「神通力で痛覚は鈍らせているし、血も止めている」

「神通力、便利ですけど痛そうですよおお……私の、せいで静真さんのきれいな翼がっ」


 しゃくり上げながら自分を責め続ける娘に、静真の胸がうずいた。


「なあ、話がある」

「その前に傷の手当ですっ。遺言とか嫌ですよ! 終わったらいくらでも聞きますから。服を着替えて傷口の洗浄しましょうっ」

「……俺の懐に薬がある。使ってくれ」


 涙をこぼしていてもなお娘の据わったまなざしに静真はあきらめて娘の手を受け入れた。それに調子の戻ってきたらしい娘にほっとしていたのもあったのだ。



 血みどろになった服を脱ぎ、天狗に伝わる秘薬を塗った後は、完全に痛みが引いていた。

 当然だ、天狗の秘薬はちぎれた腕すらつなげたくらいだ。あとは安静にすれば問題なかった。


「すごい……天狗の薬……」


 娘の感嘆の声を上げるのを声音を背後で聞いていた静真だったが、いつまでたっても娘がこちらに来ないことにじれた。


「もう、いいか」

「えっとその、あのお守りありがとうございました! すごくすごく助かりました」

「それは、持っていてお前がそれを持っていなかったら駆けつけられなかったが……なあ」

「そうだ。久次が遅いですね、私外を見てきま……」

「話をする約束だろう」


 娘が明らかに話をそらそうとしているのがわかったために静真が振り返れば、娘がまた泣きそうな顔をしていた。もう既に目尻は痛々しく腫れ始めている。


「だって、だって怖いんです。何言われるか」

「おかしなことを言う。俺のことを好いているのではないのか」


 静真が問えば、かっと娘の顔が赤に染まった。

 しばらくはくはくと口を開けるだけだったが、娘はなんとか我に返って叫んでいた。


「っ好きですけど!」

「俺にはお前が俺を好ましく思う理由も、その感情がどう言うものかもわからん」

「……はい」


 娘は静かに息を呑んだ。

 静真はいくら考えてもやはりわからなかった。娘のことが酔狂だと本気で思っていた。

 それを注がれた記憶はもうおぼろげで、うまく消化することができない。

 なにより静真が抱えているこの想いに、娘のそのまっすぐ向けられている想いと同じ名をつけるのは、ためらわれた。

 忌避感はまだある。だが静真はもう気づいてしまっていた。


「だが、お前の髪に指を通してみたかった」

「え、」


 気落ちしたように暗い顔をしていた娘がきょとんとした。

 静真は初めて己の心の内を明かした。

 この熱情を、この胸の内にあふれるどろりとした想いを、言葉にした。


「お前の頬に触れてみたかった。流した涙を拭ってやりたかった。笑顔を見つめていたかった。お前を俺の腕に閉じ込めたかった。お前の唇に口づけたかった」

 

 娘が向けてくる好意に比べればなんと利己的なものだろう。それでもこれが静真が抱いた感情だった。

 静真は痛いくらいに高鳴る鼓動を感じながら、最後の一つを震えかける声で告げた。


「お前の、名を呼んでみたかった」


 ずっとかたくなに、娘の名を呼ばなかった。それは呼んだ瞬間、静真の中で娘の存在が変わってしまうようで恐ろしかったからだ。名を呼んで情が湧けば離れられなくなると浅はかな考えで。もうどうしようもないほどに、彼女の存在が己の中で大きくなっていたにもかかわらず。


 緊張でかすれた静真の言葉が届いたらしい。

 ぶわと、娘の顔がバラ色に染まった。さらに湯気でも出るのではと思うくらい真っ赤になった娘からまた涙があふれ出す。

 まさか泣くとは思わず静真はうろたえたが、顔を覆った娘は、耐え切れぬとばかりにつぶやいた。


「それ、わた、私を好きって言っているようなものじゃないですかぁ」

「やらせてはくれないか」

「べ、別に、誰も禁止してませんよ! わ、私もうれしいですし!」


 だめなのか、と少し落胆した静真だったが、はっと手のひらから顔を上げた娘が、叫ぶように言うのに、思わず破顔した。


「はは、そうだな。禁じていたのは俺のほうだ」


 静真はぽかんとする娘の、その髪に初めて手を伸ばした。


「……っ」


 娘がいやがるそぶりを見せたらすぐにやめるつもりだった。だが息をのむ娘は静真にされるがままで、わずかに安堵する。

 初めて触れた娘の髪は想像したよりずっと柔らかかった。くすぐったそうに娘ははにかむ。

 己の心臓のうるささを感じながら、静真は髪に滑らせた手で、吸い付くように柔らかい頬をなぜて、目尻にたまっていた涙を指先で落とした。


 一つ一つ確かめてゆくたびに、静真の胸が満たされていった。だが、うずくような渇望が生まれる。その思いのまま、娘の腕をとろうとすれば初めて抵抗を示した。


「や、やっぱまってください。静真さん服、着てませんしっ。さ、さすがに刺激が強い」


 そういえば、傷の治療のために脱いだままだった。娘が惜しまず暖房を効かせてくれているため寒さは感じないし、血は既に拭き清めて落としている。


「静真さんの気持ちは、わかりましたから。ちょっと待ちま――」

「いやだ」

「ひゃっ」


 静真は初めて娘の言葉を遮って腕を引き、倒れ込んできた娘を己の胡座に乗せる。

 想像通り、娘はすっぽりと静真の腕の中に収まる。コートを脱いだ娘は柔らかく小さく温かかった。

 硬直する娘を見下ろして、静真は願った。


「俺に自惚れさせてくれ」


 お前の特別であると。

 ひゅっと息をのんだ娘のちいさなあごに指を添え、唇に己のそれを重ねた。

 柔らかく暖かな感触に、心が満たされる。

 惜しみながらも離した静真は、ずっと、ためらっていたその言葉を唇に乗せた。


陽毬ひまり

「……ひゃい」


 娘の瞳に映る静真は、驚くほど甘やかで柔らかな表情をしていた。

 蚊の鳴くような声ではあったが、確かな返事を聞いた静真は、体の芯から溢れてくるような歓喜をかみしめた。


 初めて名を呼ばれた陽毬は、喜びと衝撃にどうにかなりそうだった。

 なぜなら静真はわからないと言うくせに、その言葉で、仕草で、視線で訴えてくるのだ。

 その手つきの優しさに、まなざしににじむ甘やかさは勘違いなんてする余地がないほど明確に、愛しいと愛しているとささやいてくるのだ。

 まさか、同じ思いを抱いてくれるとは思っていなかった。陽毬の胸は甘やかな歓喜で満たされてまた涙がこぼれそうだった。


 だがそれでも極めつけはこのほほえみだ。今まで固く引き結ばれたような表情ばかりだったにも関わらず、そんな恋情のにじませたほほえみを浮かべられてみろ。意識の一つも飛ばしたくなる。

 もはやもはやもはや真っ赤になって硬直するしかない陽毬だったが、体に回る腕に力が込められたことで我に返った。


「お前の側を、俺の居場所にさせてくれ」


 昔ならば無様だと嘲ったろう懇願の言葉だったが、今の静真には必要だった。

 彼女の細く柔らかい肢体を壊さぬように、だが離れぬように。相反する想いを抱えてじっと待っていると、陽毬が穏やかな表情で見上げていた。


「また、一緒にご飯食べてくれますか」

「ああ」

「クリスマスは過ぎちゃいましたけど。年越しそばも、お正月のおせちも、お雑煮も一緒に過ごしてくれますか」

「ああ」

「……ごはん、食べないときでも、そばにいてくださいますか」

「もちろんだ」

「静真さん、私のところに帰ってきてくださいますか」

「……かえって、いいのか」


 瞬く静真に、陽毬はふんわりと柔らかく笑った。


「居場所、というのはそういうことでしょう?」


 このこみ上げてくる想いがなんなのかわからなかった。泣き出してしまいそうだと、静真は陽毬の肩口に顔を埋めれば、小さな手が背に回り滑っていく。そのささやかな感触の暖かさが全身に染みていく。


「今日は、何食べたいですか」


 そう問われた瞬間、静真はくつくつと笑い出してしまった。こういう娘だった。

 無性におかしくて、笑いが納まらない静真の背を、陽毬が抗議するように背中を軽くたたいてきた。


「私、変なこと言ってませんよ?  あ、でも大けがしましたし、あんまり食べる気、起きませんよね。というか静真さんそろそろ安静に!」

「……きつねうどん」


 少し不満そうにする陽毬の耳元で、静真はつぶやいた。


「だしを引いた、甘いおあげさんいりだ」


 以前は、おいしいという感覚がよくわからなかった。だが、あの甘辛い油揚げを今食べたらきっとなにかが違う気がした。

 くすりと、娘がうれしげに笑う。


「わかりました。とびっきりのおあげさんを煮ますね。……ところでそろそろ離して欲しいんですが。お片付けとか、ご飯の準備とか、あっお布団も準備しましょ、お!?」


 静真は陽毬を抱えたままその場に横になった。座布団が敷いてあるし問題ない。驚きと動揺の声は聞こえていたが、もう少しだけこのままでいたかった。


 静真は胸にともる温かな想いを、幸福だと知ったのだから。






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