第15話 とまどう。

 赤い命の色が広がって、畳に染みこんでいく。

 子鹿のように震える幼い静真は、一歩二歩と近づけば、血の染みた畳を踏み足下でじゅくりと音を立てた。

 うつろに虚空を見る母は、もう静真を映すことはない。柔らかく目を細めることも呼ばれることも無い。撫でてくれることも、ない。そこにあるのはただの物だった。

 血が染みた手のひらを冬の風が冷たく滑ってゆく。耐えがたいほどの孤独が襲いかかってくる。

 もう、静真は一人なのだ。どうして連れて行ってくれなかったのだろう。

 今なら、間に合うだろうか。

 ぼんやりと静真が母の側に転がっていた刀を拾い上げたとき、強い力で頭を固定された。

 痛い、と感じた瞬間、手の主……治道ちどうに母の顔をのぞき込まされた。


『静真、この女は天狗の里を存続の危機に陥れた。その命を持ってしても償うことはできない。ゆえに罪の証である貴様はそれを生涯を持って償わなければならない。貴様は天狗であらねばならない』


 重苦しい言葉がどろりと全身に絡みついていく。

 呼吸が浅くなる。自分にはなにもない。母が連れて行ってくれなかったのなら、ここに居るしかない。


『それが、貴様の存在意義だ。わかったな』

『……はい』


 血に濡れた手足は、ひどく冷たかった。




 *


 

 静真がくあ、とあくびをかみ殺したのを見とがめられた。


「おや、あにさん、お疲れですかい」

「……べつに」


 めずらしい、と顔に書いてある渋郎に静真は内心の決まりの悪さを押し殺した。

 今回の命令は完遂しているとはいえ、気が抜けて良いことなどなにもない。

 騒がしい背後を振り返れば、多くの人だかりができていた。

 おおかた、今回の標的だった術者の遺体を見つけたのだろう。

 静真がやったことはいつもと変わらない。里に送られてきていた呪詛を返しに行っただけだ。

 憎悪と絶望の丈をぶつけられ、事切れるまでを見届けた。下手に未練を残して怨霊と化されるのを防ぐためで、いままでも何十回と繰り返したことだ。


 天狗はその強さによって恨みを買いやすい。だから静真のような天狗であって天狗でない存在が重宝される。人界におりて直接標的を始末できるからだ。天狗はその矜持の高さゆえにあまり人界に降りたがらなかった。

 もう何かを感じる神経などとうに無くした。必要とされるからこそ、静真は里にいられるのだから。

 ただいつもより体が重く感じられた。とくに呪詛をもらった訳ではない。穢れも濯いでいる。

 おそらく声が耳にこびりついたからだろう。


『貴様には、人の血が流れているにも関わらず、人の心は無いのだな。愛す者を奪われた苦しみすら理解できないのか。哀れだな。血も涙もない天狗め』


 最後まで激昂するわけでもなく、憐憫すら含んだ眼差しで血反吐を吐いて事切れた。

 静真は天狗だ。そうあれと言われ、そう生きてきた。だから今も生きているのだ。だから心を揺らす必要は無い。

 むしろなぜ、そこまで他人に心を傾けることができるのかがわからなかった。

 静真がこんな風に考えるのもすべて冬のせいだ。

 ただ無性に、娘の顔が見たい気がした。

 黒い翼を広げる静真に、渋郎が理解の色を浮かべた。


「お嬢さんのところですかい?」

「……ああ」

「めっきり寒くなりやしたからね。ああ、今度餅を持って行きやすとお伝えくだせえ」


 そう渋郎に頼まれた静真は頷いて、そういえば、と思い出して聞いた。


「お前はあの娘の元を訪れて、何か変わったことは無いか」

「陽毬お嬢さんに? 変わったと言うとなんでしょう?」


 ぎょろりとした目を丸くする渋郎に、静真どう答えたものかと考えた。己でも漠然としているのだ。ただ、とぼんやりと胸を押さえた。


「胸が苦しくなる」

「……は」

「いらいらするのははじめから変わらんが、娘が笑んでいると特にそうだ。時々無性に視線を遮りたくなる上、あの娘がのんきに転んだ話をしていると怒鳴りつけたくなる。あの娘も娘だ。重い荷物くらい俺に言えば良いものを。一人で何とかしようとするのだぞ。また怪我でもしたらどうするんだ。それに――」

「あ、あにさん、ちょっと待ってくださいやし」

「なんだ」


 思い出してまた腹が立ってきた静真が更に言葉を重ねようとすれば、戸惑う様子の渋郎に止められておそるおそると言った具合で妙なことを訊ねられた。


「あにさん、おいくつになりやしたっけ」

「25になったはずだが。年など聞いてどうする」

「ああ、本当にお若いんですなあ……あの環境でよくぞ……」


 顔をゆがめて何かをこらえるような顔をする渋郎を、静真は少し不愉快に思った。


「なんだ、はっきりしろ」

「いいえ、あっしには家内がおりやすので、そういったことをお嬢さんに感じたことはありやせん」

「なぜそこでお前の身内が出てくる」

「どうぞその違和を大事にしてくだせえ。昔からあっしはあんさんはいろんなことを感じて欲しいと思っておりやした。不愉快でもお嬢さんを気にかけてやってくだせえ」


 渋郎は静真の話を聞いているのか居ないのかわからない返事をした。


「あっしにできることはそう多くはありやせんが、それでもあんさんのためなら何でもいたしやす」 


 なんとなく渋郎の真意は別の所にありそうだったが何かはわからず、静真はもやりとしたものを胸に覚えながらも、翼を広げて虚空に舞った。

 あの術者は静真が天狗であることを哀れむようだった。だが天狗でなければこうして翼を使えなかったのだ。なにが悪いのか。

 ただ、あの小鬼に妻が居ることが妙に衝撃だった。



 静真は冬が嫌いだ。空を切って飛べば翼がかじかむし、肌を突き刺すような寒風はより多くの体力を奪う。

 なにより、母が死んだこの季節になると例年のごとく眠りがひどく浅くなるのだ。

 静真は己の弱さを突きつけられているようで、この時期になると心がささくれ立っていた。 ただ、睡魔を飛ばすにはちょうど良いとは思う。


 娘の部屋には今でもベランダから降り立つことが多い。

 翼を駆って降りるにはちょうど良いのだ。もう何度、こうして訪れたかわからなくなった。 いつの間にか、季節が二度変わろうとしている。

 はじめに静真がここに降り立ったのはまだ夏の暑い時期だった。今では刺すような冷たさを感じるのだ。

 天狗である自分が、なぜ今もあの娘に関わっているのかわからない。己の時間とは交わるはずがないにも関わらず。気がつけば足を向けてしまう。

 ただ、今日はベランダの手すりに布団がかかっていて面食らった。

 静真は汚さぬよう、空いた手すりに手をついてふわりと降り立つ。

 そうすれば、室内にいた娘がすぐに気がついて朗らかに出迎えた。


「あ、静真さんこんにちわ! 買い物から帰ってきた所だったので良かったです。今日はおいしそうなお魚を見つけたので焼こうと思っていたんですよ。あと大根が安かったのでがっつり煮ます。好きですよね静真さん」


 にこにこ笑って言う娘に静真は少し体の奥が緩んだような心地を覚えつつ、しゅるりと面をはずす。


「……ああ」


 温かいものが食べられるのは悪くない。そう思っただけのつもりだったが、声に漏れていたらしい。娘の顔が驚きに染まっていて、静真は少々決まり悪い思いをする。だが不意に娘がなにか気づいたように顔をのぞきこんできた。


「静真さん、ちょっと顔色悪くないですか」


 気づかれるとは思っていなかった静真が虚を突かれていれば、娘の手が伸びてきた。

 する、と髪をかき分けて手のひらが額を覆う。

 その柔らかい感触とぬくもりに硬直した静真は娘の目がこちらを覗きこんでいる間、身動きがとれなかった。

 静真の動揺など気づかず、娘は眉を寄せて考え込んでいる。


「んー熱はないみたいですけど、目の下にくまがありますねえ。ちゃんと眠れてますか? 眠れてないと疲れが溜まりますからね。お仕事忙しかったりしますか?」

「仕事」。その単語で耳にこびりついた怨嗟を思い出した静真は目をそらし固い声音で言った。


「お前には関係ないだろう」

「静真さん無茶をしそうで心配なんですよう。よし! 今日は疲労回復メニューを追加しましょう」


 すぐに離れていった娘にわずかに息をつき、胸に覚えた動悸に困惑する。

 娘に言われずとも、己のおかしさは感じていた。

 もう、わかってはいるのだ。ここに来ると安らぎ、娘を視界に入れていると無性に安堵する。にもかかわらずこうして不意に近づかれるといたたまれないような、うずくような胸の違和を覚えていた。だが、渋郎はそれを感じて居ないという。

 身体的な不調ではないのなら、一体何なのか。わからなかった。


「渋郎が、今度餅を持ってくると言っていたぞ」

「わあ! 嬉しいですね! 渋郎さんの所のお餅とってもおいしいんですよ。お正月には欠かせない一品になりました。あっうちは関東風の濃いお醤油のお雑煮なんですよ。久次は1度に5個は固いです。私もついおいしくて食べ過ぎてお腹がぷよぷよに」


 そのときを思い出したのか娘が悲しそうに、自らの腹をさするのに静真は娘を上から下まで眺めてみた。


「お前の体は柔らかそうだな」


 娘は小柄な方だ。食事を楽しむことからして、ゆったりとした衣服を好む彼女の体は緩やかな曲線を描いている。ふにゃふにゃでうかつに触ったらつぶれてしまいそうだ。

 事実を言ったまでだったが、しかし娘は涙目でうらめしそうにした。 


「静真さん、ひどいです。いまはまだ太ってませんもん。ぷよぷよになってもご飯減らしてちゃんと体型戻しますもん」

「お前の食欲でこらえられるのか」

「うっ。鋭い」


 ぐうの音も出ない様子の娘に静真は少し気が晴れた。

 久次の名が出たとき、少しだけいらだちを覚えた。娘は良く弟の話題を持ち出すにもかかわらずだ。

 久次は週に1,2度現れ静真と顔を合わせるたびに絡んでくる。当初のような敵意はみじんもなく、ただ世間話というものをするのだ。

 娘の部屋に張っていた結界術について二三質問されていくうちに、口数が増えていっていた。が、久次が静真への身構えをほどいて居るのとは逆に、静真は代わりに娘と久次が対話している姿に不愉快さを覚えるようになっていた。


 この変化もわからない。久次単体ではそれほど脅威を覚えていないのだ。あくまで二人がそろった時のみ覚えるそれは不可解だ。だが娘が静真を見れば不快感はいつの間にか消えている。だから優先度は低い。

 だがその元凶に、最近遭遇していないことを思い出した。


「あいつはどうしている」

「久次ですか? んー拝み屋のお仕事が大変らしくて、しばらくは長居できないって言ってました。何でも私くらいの女の子が誘拐されることが増えているらしくて」

「……なに?」


 ぐらりと、静真の腹の底が不安定に揺れた。それはつまり、娘ほどの人間が被害に遭うということではないのか。なぜそのように他人事で話すのか。


「といっても、その、性的被害とかはなくて。気がついたら居なくなっていて半日すると無傷で戻ってくる。って感じらしいです。何かを探している妖怪の仕業かも知れないってことで、お師匠様と久次が調査しているらしいです。私も気をつけろーって言われちゃいました」

「しばらく外を出歩かんほうが良いのではないか」

「なんで久次と同じこと言うんですか!」


 やはり弟も似たようなことを考えたか、と静真は妙な安心感を覚えた。

 妖に対して娘は良くも悪くも魅力的に映るのだ。良質の霊力を持ち、力なき妖も術も見破ることができる目を持つ彼女を手に入れたいと渇望し、あるいは排除したいと恨みをたぎらせるものは後を絶たない。

 何度も犯行を冒していながら、姿をつかませていないのであればそれなりに力を持った存在だろう。娘の無防備さでは目を付けられればあっという間に連れ去られる。


「お前はすぐにさらわれそうだ。自分の弱さを忘れて居る訳ではないだろう?」

「ええ! 私これでも妖怪相手には場数を踏んでるんですよ?」

「妖者を甘く見るな。俺ほどになれば視線だけでお前を拘束できるのだから。お前が気づく前にさらわれるぞ」

「もー静真さん心配性なんですから」

「お前があまりにも危機管理能力が低いから、代わりに忠告してやっているだけだろう」


 良く人界に出ている静真ではあるが、世情に詳しいとは言いがたい。そのようなことが娘の周りで起きていることも今初めて知ったことに少し悔しさを覚えた。次に会った時にでも渋郎に訊ねてみるか。いや、その前にこの娘に何かしらの守りを追加すべきだろう。妖が見えて、ある程度術が効かずとも娘が普通の人間よりも脆弱なことは嫌というほど知っている。

 そう決意した静真は己が妙に固執していることに気がついて固まる。

 なにを熱心に考えているのだ。只の娘に。

 静真が硬直していれば、そんな静真の困惑など知らぬげに娘がゆるゆると言った。


「とはいえ。お正月、静真さんもお雑煮とおせち食べに来てくださいね。あ、でもその前にはクリスマスです。今年は頑張ってケーキ作りますから。生クリームとイチゴとブルーベリーと、あ、黄桃のシロップ漬けもはさみましょう。私好きなんです。きっと静真さんも好きな味ですよ」

「そうか」


 まだ、年の瀬までは一月以上ある。にもかかわらず娘はどんな料理をつくるか、どんなことをするかと楽しげに話している。

 静真が来ないとことなど想定していないようだった。

 だがしかし、そのような言葉にも慣れてしまっているのだ。

 おそらく気がつけばここに来ているのだろう。というのが静真には容易に想像できてしまっていた。

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