第16話 拒む。
「ごちそうさま」
「はい、お粗末様でした」
決まり事だったこの言葉が自然と口を突くようになったのはいつだったか。
娘も慣れたもので、食器を流しへ持ってゆく。
改めて自覚すればどうにも決まり悪さを覚えて、空の食器を重ねて流しへ持って行った。
静真は本棚に近づいて適当な本を抜き出した。
そうやって食後の時間を過ごすようになったのはいつのころだったか。
腹が満ちた後はすぐには動かない方が良いと娘に忠告されたのがはじめだったような気がするが、何か特別な用がなければ少しの間滞在していた。
まだ食事の時に早いときにも居間で空間を共有することもある。
そんな時の娘は意外とうるさくはない。たいていは教本を開いて勉強をしているか、パソコンに向かって何かを書いている。だがそういうときの娘はくるくると表情が変わる。頭を抱えてうなったり、疑問が解ければぱっと表情を輝かせたり、少しうんざりしたように目から光をけしていたりと忙しい。その隣で静真は本を広げながら眺めるのは密かに面白かった。
が、こうして娘が台所で作業をするのを見るのもまた嫌いではない。
いつものように頁をめくろうとした静真だったが、その前に術の点検をした方が良いかと考える。いやそれでは部屋に居ない限り意味が無い。娘が身につけられるようなものほうが無難だろう。どうせ言って聞かせても娘はちょこまかと動くのだから。
と、ベランダにかけられている布団が目に入り、来たときの疑問を思い出した。
「おい、あの布団はなんだ」
「陽毬ですよー。今日は良く晴れててぽかぽかだったので干してました。お日様の熱がこもって、夜あったかいんですよね。ほかほかお布団は至福なんですよ。でも日差しが陰ったとたん熱が冷めちゃうので、そろそろしまいます」
うきうきと告げる娘はなにが楽しいのかわからない。が、娘の中でそれは楽しいことなのだろうということくらいはこのつきあいで知れている。
手は止めないまま言う娘の言葉に、静真は立ち上がった。静真が動くのがわかったのだろう、戸惑いがちにこちらを見る娘に静真は視線をむけた。
「……しまえば良いんだな」
「ありがとうございます! 部屋の中に積み上げといてください」
さらりと礼を言われた静真は、窓ガラスを開けてベランダに出る。
冬だからか、静真がつぶしてしまったトマトとキュウリの苗はすでに片付けられている。
少し神通力を分けただけだったが、常よりも長く収穫できたらしい。いまはなにかの葉物が小さな芽を出していた。
娘が洋菓子によく飾る香草の一種は青々としている。これはとても強いから特に手をかけなくて良くて助かると娘が言っていたのをなんとなく思い出しながら、布団に手をかけた。
布団はそれなりの重量があるが、静真にとってはものの数に入らない。
ただ、抱えるとふわと服越しでもわかるぬくもりを感じた。
なるほど、日差しを含んでいるような温かさだった。これが多少手間でもやる理由なのだろう。香ばしさに似たそれは陽だまりの匂いだろうか。おぼろげながら遠い記憶に同じ匂いを嗅いだことがあるような気がした。
いや、里でこのようなことはされたことは無い。どこだろうかと探りながら部屋の隅に三つ折りに積み上げる。
ふわと甘い香りがした。娘が近くに居るときにするものだ。
台所からは、娘が水を使う音がする。
静真はゆるり、と体の奥が緩むのを感じた。
急に重くなったように感じて、座っていた体を支えきれずに布団へと倒れ込む。自然、敷き布団の柔らかさと温かさに包まれることになった。
日向の匂いがする、と無意識に居心地の良いように身じろぎする。まぶたがひどく重く感じた。
ふう、と吐いた息が安堵のためということに気づく前に、静真の意識は落ちていた。
*
風がほほを撫でるのを感じた。
ぼんやりとした視界に映るのは、見慣れぬ部屋だった。けれど静真の遠い記憶にあるものだった。
紙の壁紙に、板張りの床。視界に映る静真の手は小さく、腹にはタオルケットがかけられている。
そこは両親が生きていたころに住んでいた家だった。
静真は眼だけを動かして傍らを見上げる。
そこにいた母は、最後の記憶とはうって変わり、穏やかな表情を浮かべていた。ゆるりと編み込んだ髪を背に流し、眼差しを和ませて静真を見下ろしている。そのまなざしに静真は安堵し、ゆるりと全身に温かさが広がっていく。
とん、とんと一定のリズムで静真を寝かしつけようと手が撫でていくのが心地よい。
うと、とまぶたが落ちかけるが、声が聞こえた。
『静真は寝たか』
『ええ、人間の友達に翼を見せてしまったみたいで。怖がられたみたいなの。その子の記憶は私が消したけれど、同じように遊ぶのは無理ね……』
『そうか……』
父親はこんな声をしていたのか、と静真はぼんやりと思った。これは記憶だ。静真が過去に置いてきたはずの。己でも覚えていると気づかなかったそれが流れていく。
ズボンに包まれた足が見えた。ゆるりと大きな手が頭を撫でていく。
『この子の力は強いようだな。かわいそうだが今のうちから使い方を学ばせるしかない』
『ええ、私がなんとか教え込むわ。あの里からこの子を隠すのにも限度があるもの。この子を見つけたら、目の色を変えるに決まっているんだから』
そう言いのけた母はだがまぶたを伏せて憂いを帯びる。
『でも、私達のせいであなたに負担をかけるわ。私が天狗じゃなければ……この子にもあなたも苦労させずにすんだのに』
『なにを言っているんだ。私は君が良かったんだよ。だから君をあそこから連れ出した』
低く柔らかな声が言葉がくぐもって聞こえた。
会話の内容をうまく聞き取ることはできない。だが、それよりも雄弁なものがあった。
骨張った男の手が母の頬にのばされる。
母はその手を受け入れるようにすり寄ると、はにかむように顔をほころばせる。
横顔と眼差しにのる色は、見上げる者に対する感情を雄弁に物語っていた。
やわく優しく、あふれるようなそれは幼い静真の心に刻まれた。
*
暖かい何かを頭に感じた。
静真はゆっくりとまぶたを開いた。
夕焼けの橙が部屋を染めている。柔らかく、髪を撫でる手があってその心地よさに静真はすり寄った。
だが驚いたようにその手が止まり、胸に空虚を覚える。
どうしたのかと静真が無意識に顔を上げれば、傍らに座っていた娘がはにかむように微笑んでいる。
注がれる眼差しに静真は息をのんだ。
「静真さん、起きられましたか?」
触れたい。
身の内から湧き上がる衝動のまま手を伸ばしかけ、静真は硬直する。
ようやく意識がはっきりとした静真は、己が寝ていたことに今更気づく。
他人がいれば絶対に眠り込むなどあり得なかったにもかかわらず、娘に触られられていても起きなかった。そのことに動揺する。そして何より、今自分はなにを考えていた?
即座に上半身を起こした静真だったが、娘から小さな驚きの声が上がり、はっとそちらを向く。
「静真さん?」
案じるようにこちらを見つめる娘のまなざしが静真を見るなり見開かれる。
ざ、と血の気が引いた。
損の瞳に映っているであろう己の顔を見たくなかった。
胸の奥で荒れ狂う感情を押さえ込み静真は立ちあがった。
「……帰る」
「え、あ、はい」
戸惑いがありありとわかる声音に振り返りたい衝動を押さえつけ、静真は窓を開けて飛び立った。
奇しくも熟睡できたせいか、数日前から感じていたけだるさがないのがますます感情を煽られた。冷えた空気すら、役に立たなかった。
配分など考えず息が切れるほど翼を駆り、人の居ない山間にたどり着いたところで、落ちるように根元に降り立つ。
むちゃくちゃに飛んだせいで上がりきった息を整えてもなお、心臓がうるさいくらいに鳴り響いていた。
「うそ、だ」
かきむしるように頭を抱えても、胸の内からこみ上げてくる熱情に呆然とする。
それでも今まで娘に感じていた違和がつながりかけるのを、静真は拒んだ。
だがあの時のぞき込んでいた娘の眼差しは、静真の母が父へと向けるものと同じだと気づいてしまった。
それだけならまだ良い。静真はそのまなざしを見てなにを思っていたか。
「違う、違うのだ……俺は天狗だ。あり得ない。必要ない」
何度も何度も否定する。だが甘やかな熱を感じるほどに同時に深い絶望が押し寄せてくる。
人間は恋や愛で誰かとつながることを、静真は知らないわけではない。
だがしかし、誰かを愛すると言うことは逆に言えば人間である証となる。天狗には必要なく、あり得ないものだ。
静真は生きるために天狗としてふさわしくあろうと努力をしてきた。今まで積み上げてきたそれを台無しにするのか。
母がおぼれ、死すこととなった原因であるそれを。
自分に人間の部分など必要ないのだ。
黄昏が過ぎた頃。動揺と惑乱を抱えながらも静真は里に戻り、いつものごとく完了の報告をしに本殿を訪れた。
暴力的な静謐が支配する執務室に通された静真は、文机に向う男の傍らに座す。
この里の長である治道だった。
「報告を」
いかめしい顔に表情の色はなく、静真を見ないことも変わらない。
この男が執着のようなものを見せることがあるのかと考える。最も実力者であることは間違いない。
自分には関係のないが、と静真は淡々と今日の任務の経過を告げた。
失敗したことなどごく初期の数回のみであるため、話終えればそうか。と一言だけ聞いて辞するのが常だった。
だが、一部の隙も無く長着に身を包み、硬質な表情で書をしたためていた治道は珍しくこちらを向いた。
「静真、近頃任務終了後の帰還が遅れているようだが。特出すべき理由があるのであれば報告しなさい」
すうと、何かが引いていくのを静真は感じた。
そこまで己の行動に注意が払われていたとは思っていなかったが、娘のところに通っていたのは半年近くになる。不審に気づくには十分過ぎる時間だろう。そこに思い至らないほど自分の意識が鈍っていたことにも愕然としたが、顔には出さない。
天狗たちにあの娘のもとであると知られたら、どうなるか。
「速やかに帰還せよ、と改めて告げねばならぬほど気が抜けているか」
「……いいえ」
鋭く目をすがめる治道に、静真はすべての情動をそぎ落としてそう、返事をした。
ちょうどいいではないか。
あの柔らかい感触も、ほほえみも、安らぎも。すべてすべて、天狗である自分に不要なものだ。
だからこれに名を付ける必要はない。断じて、認めることも思い出すこともしない。
「お前がその生を許されているのは、天狗として里に貢献をしているからだ。忘れるな」
「わかっております」
「任せたい案件がある。ゆけ」
そう、静真は今まで感じていた思いをすべて意識の底へと押し殺し、顔から表情をそぎ落とす。
天狗であるためには必要ない。脳裏に浮かんだ柔らかなほほえみを黒く塗りつぶしていく。
胸の奥に空いた虚ろを、静真はなかったことにした。
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