3:ベタな出逢いのプロローグ

 梅雨つゆが明けてからというもの、湿度しつどが下がった分、最近はとても寝心地ねごこちが良くなった。

 アカリの部屋は日が差して暑い様だが、雪彦ゆきひこの部屋は日が差さないので、湿度さえ下がれば夏でも他の部屋より涼しいのだ。

 睡眠環境すいみんかんきょう改善かいぜんされると人はどうなるかと言えば、不眠症ふみんしょうなどでもない限り、多くの場合はより惰眠だみんむさぼる事に余念よねんが無くなるだろう。

 …ましてや、普段ふだんから睡眠をこよなく愛する者なら、それはより顕著けんちょになる事は想像そうぞうかたくない。

 そんな者達の中で、をかけて睡眠を愛してやまない者がここに一人。


「…ぅ?…んん、あさ…朝かぁ…やべぇ眠いんすけど…でも、起きなきゃなぁ…。」


 この男、言葉とは裏腹うらはらわずかながらカーテンがらした光から顔を守る様に、シーツを頭まで引っ張りあげてかぶりだした。

 完全に二度寝にどねする気である…正確には三度寝さんどねである事は気付くわけもなく、心地の良い微睡まどろみに落ちていく。

 が…ここで違和感を感じた彼は、再びシーツから頭を出してまぶしさで細くなる目を天井に向けた。


「…ン、ウン?…なんか今…」


 彼の幼馴染みは、彼自身よりも彼の習性をよく把握している。

 その1つが、天井に貼り付けられた大きめのデジタル時計だ。

 効果こうかしてるべしと言うべきか、一瞬固まる様に事態じたい把握はあくつとめると…理解した現状げんじょう的確てきかくに叫んだ。


「8時半!?やべぇじゃん!寝坊した!!」


 跳ねる様に飛び起きて、たった30秒程で制服に着替えると、自室のドアを開け放って閉める事は放棄ほうき

 そのまま廊下を進み、僅か3歩半ほどで階段に到達し、階下に飛び降りる様にしてくだりきる。

 リビングに飛び込んだところで、幼馴染みのアカリがコーヒーを飲みながら驚いた顔をして見ている事に気付いた。


「アカリっ!ヤバイ、遅刻だ!もう出ないと!ともえちゃんに殺されるっ!!」


 「ぇ、巴先生?雪彦、何か言われたの?ズズ…」


 幼馴染みが何故にここまで狼狽えているのか担任との関係から何となく察しつつ、終業式の手伝いでも頼まれたのかしら?位の気持ちでコーヒーをすするアカリ。


「説明してる時間はない!お前、自転車だろ?先に走ってるぞ!」


 勢いのまま玄関に向かおうとした彼の口に何かがねじ込まれる。


「ふぁにほれ(何これ)?」


「買い置きのクロワッサン。せめてそれくらいわえて行きなさい。後でコーヒーもタンブラーに入れて持ってってあげるから。」


「ふぁんふぅー(サンキュー)!」


 そうして、クロワッサンを手は使う事なくムグムグ食わえながら玄関を飛び出した。

後ろでアカリが恐らく戸締まりなどしてくれている気配に感謝しつつ、学園までの最短距離をひた走る。

 雪彦にとって運動と言えば球技全般を指す。

 小さい頃から決して早いとまでは言えない彼の足だが、中々どうして球技における一番重要とも言えるフットワークや足捌あしさばきについては目を見張る物があり、誰にも負けないと自他共じたともに認めるところであった。

 スタミナも生来せいらいの負けず嫌いが味方する事になり、授業で長距離走なんかがあれば、順位は常にトップクラス。

 その他の、競技きょうぎは平均かややおとる位だが…。

 そんな訳で、学園まで走る程度ならば雪彦の場合、例え急いでいたとしても、体力的には正に朝飯前と言えた。

 …クロワッサンをムグつきながらであるこの場合、朝飯中と言うのだろうか。

 とにかく、そんな彼にとって今の状況は寝起きこそあわてていたものの、いざ家を出てしまえば言うほど差し迫った事態ではなくなっていた。

 そのせいか…学園までの道を3割ほど消化した辺りからは、このままなら遅刻しなくて済みそうだな、とか…案外アカリの飯食ってきても良かったか?いや流石に吐くな…等と考え事に没頭して苦笑を浮かべる程度には余裕があった。

 いや、もちろん間違いなく急ぐべき当然の状況ではあるのだが。

 そうして考え事を続けていると…何だかマンガみたいなシチュエーションだな、と思ってしまい…つい面白おかしくなってくる。

 ついには口元のクロワッサンが小さくなった事も相まって、とうとうこの一言フラグを放ってしまう。


「…ちこくするぅうううー!!(笑)」


 この男、本当に存外ぞんがい余裕である。

が…まさか次の瞬間にもフラグを回収する事になるとは微塵みじんも思っていなかった。

 まれに遅刻しそうな時には、当然だが大半の学生はとっくに登校し終えており、この辺りは駅から離れている為、人通りはほぼ皆無になっているはず…雪彦は曲がり角から一人の女生徒が歩いてくるとは予想だにしなかった。

 完全に衝突しなかったのは、運が良かったのか雪彦の反射神経の賜物たまものか…しかしながら、この時避けようとした事でこの女生徒との出逢いはお互いに強く脳裏に焼き付く結果となったのだから、ラブコメの神様とやらがいたなら、きっとソイツはワーカーホリック気味の仕事熱心な神様に違いない。

 …いや、それにしては現実じゃこんな事起きないのでやっぱり仕事しろラブコメ神。

 とにもかくにも、具体的に何が起きたかと言えば…ぇ、説明いる?大体分かるよね?ぁ、はい仕事します。

 とっさの事で雪彦は何とか身をひねって女生徒を避けようとしたが、彼女の肩口にかったカバンを自分の肩で引っかけてしまう。

 かなりの勢いがあった結果として、彼女の体は独楽こまの様に半回転すると、先に仰向けに倒れ込んでいた彼の上に勢いそのまま重なって倒れた。

 そんな馬鹿な…と、この時の光景を雪彦の悪友が見ていたなら、血涙なみだながらに叫んだ事だろう。


 「…っ!」


 女生徒が倒れ込んでくる事、恐らくは自分のせいである事を瞬時に把握した雪彦はせめて怪我けがをさせない様に自らをクッションにしようと覚悟を決め、受け止めるべく左右に腕を開いた。

 だが、結論から言えば受け止められたと言えば受け止められたのだが…あまりスマートではない受け止め方になってしまう。

 

 食わえていた残り僅かだったクロワッサンが、彼女の頭の後ろを飛んでいった事に気づき「あー、アカリが見てたら怒るだろうなぁ」と場違いな考えに気をとられたのも理由の1つだろう。

 だが何よりも、落ちてくる整った彼女の顔立ちに見惚れたのだ。

 そのせいで、格好良く胸の上で彼女の頭を受け止めるつもりが…目算もくさんを誤った事に気づいたのは、落ちてくる彼女の視線と自分の視線が完全に真っ直ぐ重なっていたからだった。

 別の意味での覚悟までは決める間も無く、その事に気づいた正にまたたきの間に彼女の可愛らしくも艶やかな唇が…。


 …雪彦のほほに落ちてきた。


 この時、雪彦は間違いなくもう1つファインプレーを見せていた。

 …しかし同時に、それが原因でこののちに、この時の…言わば「事故じこちゅー(アカリ命名)」がことあるごとにフラッシュバックする様になってしまうのだが、それはまたの話としよう。

 そう…この時、雪彦はせめてもの抵抗と言わんばかりに首を捻り、ギリギリ彼女の顔が落ちきる直前に左腕を彼女と自分の間に差し込んだ。

 不幸な事に、いやえて幸運な事にと言おう…完全には止めきれず…しかしながら、それによって彼女の唇が強打される事はなく、触れる程度で済んでいたのだった。


 …あたかも雪彦の頬に口付けたかの様に。


 もう僅かに雪彦の左腕に筋力があれば、違う結果となったろう。

 …あるいは、ほんの少しだけ万有引力が弱かったなら。

 …もしくは、いっそ雪彦の頭上を越える位置に彼女の顔があれば…いや、それは事案じあん発生していたのでやっぱり無しで。

 …いづれにしろ、僅かでも何かが1つでも違えばこうはならなかったのだ。

 正に奇跡、やっぱりラブコメ神は仕事し過ぎだろ。

 どうやらそんなラブコメ神は粋な事に、もう1つ仕事をしてくれたらしい。


 ーーーキキィッ!!


 Q,何の音でしょう?

 A,アカリの自転車がブレーキを掛ける音


 正解!もれなく正解者には修羅場しゅらばをプレゼント!やったね!!


「ぁ…あんた、何してんのよぉっ!!」


 こうして、雪彦の終業式当日は修羅場から始まったのだが…これが一人の少女の戀物語こいものがたり、その序章じょしょうであるとは気付けるわけもないのであった。

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