第2話 バス車内

 アーチェリーとは違い、弓道が的を射抜けることを前提に話が出来ないのは、ようやく江戸時代に確立された武道に手を加えることなく今日に至るからだ、と副部長の純礼すみれは入部当初の新入生に言った。縄文時代から存在する『弓矢』という武器はシンプルかつ単純であるが故に難しいのだ、と。

 まだ桜花が満開を迎えていた3週間ほど前の事だ。次期副部長として純礼とともに新入生指導にあたっていた2年生のはるは、その話を彼女の隣で聞きながら、背がしびれるような感覚に陥った。

「アーチェリーには計測器が弓に取り付けてあるおかげで、より的の中心にあたった人が勝者になれます。でも、弓道にそんな便利なものは無くて、頼れるのは自分に染み込ませた感覚しかない。曖昧で不確かな基準で28メートル先にある36センチの標的を射抜かなければならない、というこの武道を甘く見ているのなら、その先入観はすぐに壊されることを覚悟する必要があります」

 高く結い上げた黒髪を春風に揺らしながら、彼女はそこで1度静かに口を噤んだ。10名の1年生を前に最初に言い放ったこの文句は、陽の心に突き刺さった。3年生の引退までは筋トレしかさせてもらえない初心者の1年生たちも、初夏に初めて射場に立って的と向かい合った時に理解することが出来るだろう。こんなにも難しい武道に自分は足を突っ込んでしまったのかと、どうしようもなく途方に暮れてしまうあの感覚の答えを、純礼はさらりと明かしたように思えた。

 その出来事を陽が思い出したのは、会場へ向かうバスの中、朝会と称した各部員の決意表明のなかで、件の現副部長が今日の個人戦の抱負を述べているからだった。

「正直、最近の的中率は低くて、きっと自分一人の力では県大会に進めないと思うので、武道という名に相応しい美しい射をおさめてこよう、という心持ちで射場に立ちたいです。えー、1年生は初めての大会見学で、弓道の素晴らしさも難しさもまだ分からないとは思いますが、全身でその奥深さを体感して欲しいです。記録、よろしくお願いします」

 車内付属のマイクの電源がプツリ、と切れる音を待たずに3年生たちが「よ、弓道部の大御所作家!言う事が違う!」と囃したてていた。

「やっぱ副部長って格が違うよねぇ」

 陽の隣で朝食のおにぎりを頬張りながら言ったのは2年生の茉歩まほだ。焦げ茶混じりの地毛を束ねて、背に『薫ヶ丘高校弓道部』と印字の入った水色のプーマのジャージを着ている。

「だって純礼先輩じゃん。あー、私、あの人のあとを継がなきゃいけないのかー」

「陽はそのままで十分だから、そんなに悩むなって」

「中らないのに?」

「中りが全てじゃない。薫ヶ丘高校弓道部において、成績イコール尊敬じゃないでしょ」

「……そーね」

 決意表明は、11名の3年生が終わり2年生に移っていた。


 次期部長を悠太郎ゆうたろうから継ぐ優人ゆうとの口はからからに乾ききっていた。眼は車窓を流れていく乗用車を見ている様で、意識は部員たちの決意表明を向いている様で、しかし、心は此処にあらずという体だった。その原因を上げだしたらキリがないほどに、緊張とプレッシャーに弱い次期部長。

「優人、次、お前」

 マイクが回ってきた。我に返って、ひどい手汗を羽織ったジャージの裾で拭う。あまり意味は無い。

「ええと、今日、は、自分の精一杯の行射ぎょうしゃを、出来たらいいかな、と、思ってます……。んーっと、あー、えー、緊張のせいで力んでしまわないように、リラックスして、肩の力が抜ける様に、したい、です」

「頑張れよ、次期部長」

「俺らが引退したらお前が引っ張るんだぞー」

 野次を飛ばすのはやはり3年生だ。どうも賑やかにするのがお得意であるらしい。それが優人の緊張をほぐしてやろうという親切心であることに、当の本人は気が付いていない様子ではあったのだが。

「あ、はい、えっと、頑張ります」

 早々にマイクを次の人に渡して、息を吐いた。

「何で俺が次期部長なんだよ……」

 そうぼやいた小さな声は誰にも拾われなかった。


 バスは学校を出て1時間と少しで県立弓道場を備える運動公園に到着した。

 電車が1時間に1本しか来ないような田舎の、近くのコンビニまで徒歩15分かかる様な郊外の、緑あふれる広大な運動公園。その隅に広く構えられた弓道場には既に多くの選手が居た。参加高校の数は18校、出場選手は男女合わせて200人近い。

「今日は暑くなるってラジオのウェザーニュースで言ってた。水分補給と塩分補給を忘れない様にね」

「朝からラジオ聞いてんのじゅん先輩くらいじゃないっすか」

「そう突っかかってくる後輩も剣悟けんごくらいだよ」

 高い山々の隙間から薄い雲を透かして朝日が差していた。空は絵の具で塗ったようにムラの無い水色で、薫ヶ丘高校のスクールカラーと同じ色だった。風が吹けば少々肌寒く感じるのも、日中には恋しくなりそうだ。

「じゃ、行きますか」

 総勢38人の部員の先頭に悠太郎が立つ。

 泣いて終わるのか笑って終わるのか、先の事は誰にも分からない。しかし、確かに戦いは始まろうとしていた。長くて短い2日間が始まろうとしていた。

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