3章5話 15:41 俺と天音、2人きりの文芸部室にて読書タイム(3)



「気にしないでくれたまえ。あいつは常日頃から語尾に猫を連想する言葉を付け、猫耳を装着して学校に行くような、ボク以上にヤバいヤツなのさ……」

「あっ、はい。では、どうぞ続きを……」


 出会ってからまだ1週間も経っていないが、初めて天音が表情だけではなく、声音にまで疲労感を滲ませた気がした。

 その子、どんだけヤバい女の子なのだろう?


「でも、悲しいかな……。たまたまアニメとかでシュレディンガーの猫って言葉が登場するだけで、オタクの一般教養は非オタの一般教養じゃないんだよね……。世知辛い世の中だニャン……」

「は、はぁ……」


「そして我が同胞であるアニオタの民たちも、そもそもシュレディンガーの猫が量子力学に対する批判のための思考実験だったことを、あまり知らないニャン!」

「えっ、そうだったの?」



「もともと――コペンハーゲン解釈が正しかったとするよね? だったらその場合、1匹の猫、放射性同位体、ロリ系同人誌でお馴染みのガイガーカウンター、それに反応する毒ガスの発生装置を用意するじゃん? この4要素を箱に閉じ込め、放射性同位体が各々の壊変定数に基づき、確率的に放射性崩壊するという性質を踏まえて、思考実験をしたとするよ?

 んで、仮定だけど、1時間で放射性崩壊する確率が50%の放射性同位体を用意したら1時間後、猫は生きてもいるし死んでもいる、重ね合わせの状態として存在しちゃうけど?

 いやいやwww ちょっ、おまwww 常識的に考えて、そんなことあるわけねぇだろ、バ――――カッッ! って怒りを込めて、シュレディンガーのおじちゃんは幼気いたいけな猫ちゃんに生死の境を彷徨わせたのに……。ぐすん……」



「その子、頭大丈夫?」

「断言する、ダメだ。あいつはもう誰にも救えない。いや、最初から救えない。まだ子どもの頃、オカルトや都市伝説を科学的に調査したいニャン! とか言って、ボクを引っ張り夜中、女の子2人で家を抜け出すようなヤツだからね」


「怖い物知らず過ぎる……」

「しかも今ではAR技術を利用して、普通に服を着ている人をカメラに収めると、映像を補正して、完成した全裸の姿をレンズに映すメガネを作るような変態だからね」


 いや、内心でコッソリ前言撤回するけど、その子はやはり天才だと思う。

 深水ならその子を神様とさえ崇め奉るだろう。


「それはさておき、言っていることは面白い」


「どこか!?」

「なにかしらの分野で最先端の情報が存在しても、それが普及するまでにはかなりのタイムラグが発生する、という点がさ」


「? 当然じゃない? 俺でも知っているヤツだと……ほら、iPS 細胞だって、いつ一般家庭でもそれを手術とかで使えるようになるかわからないし」

「最先端の情報によって、多くの人に恩恵が与えられることが普及。少なくとも今の話に限り、別にボクはそのように言っているわけではない」


「えっ、そうなの?」

「ただ単純に、そういう単語に辿り着くまでにもタイムラグがある、と言いたいだけさ。さらに言うなら、認めたくない、許されない、なにかしらの要素が気持ち悪い。そういう感情的な理由で、知識なり技術の普及が遅れることもあるだろう」


「あぁ~、なるほど」

「それにエルヴィン・シュレーディンガーほどの人物でも、常識という枠に囚われて、死ぬまで量子力学を嫌い続けた。人には感情があるから文明と文化を前に進めることができるが、それが直進とは限らない、というわけだね」


「天音はなんでも知っているな」

「これはその従妹の好きなセリフの1つらしいが、なんでもは知らないよ。知っていることだけさ。ところで、キミは確か1960年代か70年代に、アメリカで50人前後の死傷者を出した銃乱射事件があったことを知っているかい?」


「なにも知らない。知ってることはない」

「面白い返しだが、それはともかく、その犯人は支離滅裂な遺書を書いたあとに犯行に及び、その現場で死亡。検視の結果、犯人の脳には感情の制御を司る扁桃体を圧迫する腫瘍が存在していたことが判明する」


「へ~、つまりその犯人は腫瘍のせいで犯行に及んだ、的な?」

「犯人は現場で死亡したから、究極的には推測になってしまうが、事実上はそのとおりさ。そこでとある有名なアメリカの神経科学者が考えたのは、どこからどこまでが犯人のせいなのか? 犯人を罪に問えるのか? 犯罪者には刑罰ではなく、脳神経科学に基づく再教育が必要なんじゃないか? という問題だ。悠真くんはこれを認められそうかい?」


「正直、全然認められそうにない」

「実を言うと、ボクも感情的に認められない。つまり、仮に彼の意見を尊重した法制度を設けることになった場合、絶対にどこかからかなりの批判を喰らうだろう。刑務所の維持費用や収容人数を度外視しても、法律の施行は出発からかなりあとになるか、そもそも施行に至らない、という未来は想像に難くない」


 ページをめくる俺。

 一方で、天音も俺とほぼ同時にページをめくった。


「それで、流石にそろそろ結論は?」

「ボクはキミの素直なところを魅力的だと思っている。だからそこだけは変わらないでいてほしい、ということさ」


 そう締め括ると、天音は俺に向けてウインクしてみせた。


「回りくどっ!? メチャクチャ回りくどっ!?」

「許しておくれ。性分しょうぶんなんだ。それに、その……、ん」


「天音?」

「従妹に言われたのさ。天姉あまねぇはアニメ少ししか見ないけど、オタク気質だよね、って」


 言うと、天音は俺から顔を背ける。

 表情は見えなくなってしまったが、まぁ、うん、メチャクチャ手寂しそうに、髪の毛を指先で弄っていた。


「ボクは自分の好きなことを、他人が知っているとは限らなくても、早口で喋るのが好きなのさ。俗に言うKYで、だから小学生の頃から今まで、ずっと友達が少なかった。でも、その……」


「あ、あぁ……」

「嬉しい……んだ、と、思う。悠真くんと出会えて。悠真くんがボクの知識自慢に、最後まで付き合ってくれて。かなり調子に乗っているのだろうが、それでも、ボクの話を聞いてくれる友達が、できたから」


「そ、そっか……。まぁ、ほら! 俺だってある意味勉強のつもりで入部したんだし、win-win だろ? それに、その……、俺だって女の子からそう素直に言われたら、嬉しいし……」

「クスッ、そうかい? ありがとう、悠真くん、そう言ってくれて」


 退廃的な耽美的で、やつれているのに美しく思える例の微笑みを天音は浮かべる。

 だけど少しだけ、なにかがカラフルになったように瞳に映った。


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