第3話 夏季休暇

 なにかおかしい、と思い始めたのはそれから暫く経った頃。すぐに気付けなかったのは私が鈍感だったからかしらね。よく似ていたのよ。ほんの些細なことだけれど、振る舞いに喋り方に、ふとした仕草なんかも・・・・・・マライア、あの人はサエをそっくりそのまま映したような人だった。初めて見た時、私が彼女のことを思い出したのも無理はないってくらいにね。ああ、その頃サエとはどうしていたかですって?夏季休暇とクリスマスには里帰りが出来たのだけれど、最後に会えたのは始めの年だけだったわ。私が帰ってきたときに、お勤め先から休暇を貰って、私の屋敷の門の前まで来て出迎えてくれたの。とっても嬉しかった。でも、次の年にはもっと遠い町にお勤めを変えてしまって、もう直にお会いすることがなかなか出来なくなってしまったの。それにね・・・・・・実を言うと、入学したての頃こそ、月に何回もお手紙を書いていたのだけれど、時が経つに連れてだんだんと文通することも減っていったの。里帰りをしても会えないでしょう。十三の頃にはクリスマスカードを送るだけになってしまっていた・・・・・・私、薄情なのだわ、きっと。学校生活に夢中になって、大事な家族のことも忘れていただなんてね。こんなことになるのなら、もっと彼女とのことを大事にしたら良かった。人間って、とってもちっぽけなのね。一度にたくさん大事なものを持ってたら、知らないうちに何個か落っことしちゃうんだわ。——貴方はどうかしら?落し物は早いうちに気づかないと、いつのまにか二度と見つけられなくなるの。


 私はマライアに違和感を覚えていた。けれど、それ以上に彼女からの愛情に溺れていったのよ。そんなこと、どうでも良くなっていったわ。フフ、その時の私にとってはサエのこともどうでも良かったんでしょうね・・・・・・もう少し愚かな小娘だった頃のお話に付き合ってくださいね。


 次の年の夏季休暇に、マライアを私のお屋敷へ招待したの。私の大切なお客様として、父と兄と義姉もマライアを歓待してくれたわ――兄は二年前に結婚して、一歳になる息子がいたの――その頃にはサエのことはほとんど忘れていて、気にもしていなかったわ。だから誰かに彼女の居所を尋ねることも無かった。最も、誰も知らなかったでしょうけど。前の年のクリスマスカードは、彼女の元に届かずに私に戻って来たと言うのに。


 マライアとはとても素晴らしい休暇を過ごせたの。お天気の良い日にはよく、サンドイッチを作って二人で湖畔に出かけた。そのときはいつも、彼女は私に湖の妖精の話をしてくれと頼んだものだわ。悲しいけれど美しいお話なの・・・・・・


 あら?同じ様なことをもうお話したのね、私。ゴメンなさいね、うっかりしていたみたいだわ。ええ・・・・・・けれどそうね。同じ様なことなの。お話をするのが私になっただけで、サエと過ごした頃と全然変わらなかった。ただ、兄の奥さんに刺繍を教えて貰ったり、可愛い甥のアントニオと遊んだりしたこと以外はだけれど・・・・・・


――ごめんなさい。色々思い出して仕舞って。私とても楽しかったのよ。幸せだった。父も身体が弱って大分丸くなっていたし、兄は父に似て仕事ばかりだったけれど、義姉さんは優しくて綺麗ですぐに大好きになった。何より、あの夏はマライアがずっと一緒にいたもの。彼女のことホントウに愛していたのに、私は失くしてしまった。私が馬鹿だった所為で、無くなってしまった・・・・・・


 ごめんなさいね、ありがとう。けれど誰かに何もかも吐き出したかったの。そして貴方に決めたのだから、最後までキチンと話さないといけないわ。


――マライアは夏の終わり頃、一人でよく出かけるようになったの。人目を憚るように、日が落ちてから・・・・・・彼女、私の部屋で眠ることが多かったのだけれど、その頃ははじめに割り当てられた客室で寝起きするようになっていたの。私、その事はあまり気にしていなかったのよ。でもね、それから何日か後に、私、夜遅く彼女の部屋を尋ねたの。課題で分からない所を教えて貰おうとして・・・・・・なんてものは口実ね、寂しかったから。――彼女は居なかった。お部屋の開いた窓から、彼女が森に向かっているのが見えたわ。夜の森はあまり散歩には向いていない。マライアは都会育ちだから、そういうこと分からないのね・・・・・・そう思って、私は寝巻きのまま階段を駆け下りて、彼女の後を追いかけたの。普段の私なら、夜の森に一人で入るなんて出来ないのだけれど・・・・・・その夜は雲一つなくて、大きな満月が浮かんでいたから、暗くて怖いなんてことはなかったの。森の小道も、際の草花までハッキリ見えたし。何よりマライアがその先にいるのだものね。私は曲がりくねった小道を駆け足で進んでいって・・・・・・


――彼女は湖の畔に居たわ。白いネグリジェにベージュのショールを纏った姿で、跪いて水面を覗きこんでいた。私、直ぐに駆け寄ろうとしたのよ。でも意気地無しの私は立ち止まっちゃって・・・・・・彼女泣いていたの。いいえ、涙を見たわけじゃないわ。長い黒髪が俯いた顔を覆っていたから。だってね、とても、とても悲しそうな咽び声が聞こえるのだもの。私がつまらないことで泣いて、彼女が宥めることは良くあったわ。けれど、いつも凛としているマライアがあんな声で泣くのよ。私、情けないけれど、茂みに隠れたままどうしたらいいのか分からなくなったの。でも、このままじゃいけないと思って・・・・・・大好きな人が苦しそうに泣いているのだもの。私が助けないといけないわ。そうと決まったら私、マライアの後ろに勢い良く飛び出して――マライアはとっても驚いていたわ。それもそうよね。けれどね、私の方は身体が固まってしまったのかって位驚いてしまったのよ。


 マライアの顔は泣き腫らして真っ赤で、その見開いた目の中に私がいた。けれど私は澄んで青み掛かった黒い水面を見ていた。私が飛び出したとき、彼女は水面を覗いていたのだけれど・・・・・・その時鏡のような湖に映っていたのは、マライアではなかったの。そう、サエだった――


 私が動揺して動けないのを見て、彼女は一瞬顔を顰めて、それから抱きしめてくれた。私がもう一度顔を上げたとき、マライアはもうサエになっていた。久々に見たけれど、私には直ぐにわかった。サエは私の記憶より若くて、小さかった。きっと私が幼いときに見た彼女は、実物以上に大人に見えていたのでしょうね。私は何故だかずっと子供に戻ったみたいに、彼女の腕の中で泣きじゃくってしまった。長いこと泣いていた気がいたけれど、泣き止んでもサエはサエだった。マライアの寝巻きを着たサエは、私の肩に顔を埋めたまま、ゆっくり話し始めたの。



――私はずっと前から貴女の事が好きだったのです、お嬢様。それは親子や、兄弟や友達のとは違います。ホントウはいけないのに私は段々と大きくなる貴女に恋をしてしまった・・・・・・私はよくこっそりとこの湖に来ては、叶わぬ恋を思って泣いておりました。なんて勝手で邪な人間なんでしょうね。だから、貴女が学校に入るのを良い機会として、ひっそり姿を消して仕舞おうと思いました。けれど私は貴女を忘れられなかったのです。純真な貴女に恋をする汚らわしい自分が嫌で嫌で、もうこの際命を絶って仕舞おうという考えに至りました。だから二年前、ナイフで手首に傷を付け、そのままこの湖に身を投げたのです。責めて貴女の大好きだった湖で死にたかった・・・・・・その後のことは記憶に靄が掛かったようになっていて、よく思い出せません。気づいたら、私は知らない誰かになっていました。それがマライアです。何故こうなったのかは全くわからないけれど、自分の立場が分かった時、真っ先に貴女に会いに行こうと思いました。それが事の次第なのです。しかし最近、知らない誰かが自分の中でもがいているような気がしてならないのです。まるで自分の身体を盗まれたホントウのマライアが、私を責めているように・・・・・・そして、彼女はこの身体の中でどんどん大きくなっています。だから、私がマライアでいられる時間ももうあまりないのでしょう。ここに来てハッキリと自覚しました。私はこの場所で死んだのだと。このことはきっと、湖の精が哀れでみっともない私に最後の慈悲を下さったのでしょう。けれど、私はこの身体を手放したくない・・・・・・本物のマライアさんが可哀想だと分かっているのに、私はこんなにも我儘なのです。



 彼女はそう言って、埋めた顔を私に向けたわ。そしてマライアの顔で寂しく笑ったの。私はその時、彼女の言ったことを完全に理解したわけでは無かったのだけれど、そのサエでマライアの彼女がいなくなることは到底受け入れられることではなかった。私は言ったの。ならここで二人で死ねばいいわ、そうすればずっと一緒に居られると・・・・・・彼女は何も言わずに私から身体を離して、懐から錠剤の小瓶を取り出したわ。そして自分と私の手に五、六粒ずつ落とすと湖の水と共におもむろに飲み込んでしまった。そして私も彼女に習ってそれを喉に滑らせた。

――それを飲んだら優しい眠りに着けるわ。

 膝まづいて水を掬う私の肩に凭れながら、彼女は優しく呟いたの。次第に怠くなる身体を引きずりながら、私はサエに抱えられながら湖に身を投げた・・・・・・


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