第2話 あの人
彼女は私にとって親かそれ以上の存在だった。私が日本語の読み書きが堪能なのも、彼女から教わったから。いいえ、もちろん彼女はいつもは英語でお話していたわ。けれど、私がサエのことをもっとよく知りたくて、日本語を教えてくれるように頼んだの。私は他のお勉強はあんまり褒められたものじゃなかったけれど、語学の才能は少しはあったようで、だんだんとサエとは日本語で話すようになっていったの。きっとサエのことが大好きだったからでしょう。父はというと、私にあまり興味がないようだったわ。私には、ロンドンの寄宿学校に歳の離れた兄がいたの。兄は出来が良いほうだったので、父は兄ばかりを可愛がっていた。まあ私にはサエがいたから、父のことはあまり気にしていなかったけれどね。
そんな私も十一になると、ロンドンの寄宿学校へ入学するよう、父に申し付けられたわ。生まれ育った場所から遠く離れて仕舞うのが嫌で嫌で、私は意固地に反抗したのだけれど、入学の後押しをしてくれたのもサエだった。学校で勉強をして、立派な人間になるようにと、私を諭したの。だから私は彼女に、一人前のレディになった姿を見せると約束し、涙ながら屋敷を後にしたわ。
そういえば先程、兄もロンドンの寄宿学校の出だと言ったわね。けれど兄はもうその頃、大学を出て父の仕事を手伝っていたの——なんせ私と兄は十二も歳が離れているのよ!——だから兄とは入れ違いで学校へ行ったり来たり。兄妹らしいことはなにもないまま・・・・・・あちらも父と同じく私にあまり興味がおありじゃなかったようで。サエはと言えば、私は父の屋敷でこのまま働くのとばかり思っていたけれど、別の屋敷に女中として雇われることになったの。私は在学中に彼女からのお手紙でそれを知って、それはそれは父に憤慨したのだけれど、聞いてみれば、サエから言い出した事なのだと父は言うの。サエ自身、私が居なければ退屈をするのでお勤め先を変えるなどとお手紙には書いていたけれど、私にははっきりと父が追い出したのだと分かったわ。彼はもともと、異国人であるサエをあまりよく思っていなかったのを知っていたから。ではなぜ彼女が私の乳母として雇われたかというと、私の母の強い後押しがあったからなの。母は私を産んだとき、何処からともなく現れたサエを一目で雇い入れた。父は嫌がったのだけれど、サエの身なりがきちんとしていて、イギリスの学校を出ていることがわかったので渋々承諾したらしいわ。母が亡き後も、私とサエの仲がとても良かったので、さすがの父もそれまで彼女を追い出すようなことはしなかったのだけれど・・・・・・
フフ、長々と父の悪口を言っても仕方がないわよね。コーヒーのお代わりは?いえ、私は大丈夫よ。ありがとう。大分雨足も弱まってきたわね。此処から、私の寄宿生時代のことをお話しましょうか。そう、学校に入ってから、私の今までの暮らしは一変したわ。私の人生の大きな節目とでも言えるかしらね。私が入ったのはある女学院。豪奢な尖塔が高々と聳え立つゴシック様式の建物で、田舎娘の私はただただ圧倒されるばかりだったわ。寄宿舎は二人で一部屋。私のルームメイトはオリビアという、同い歳のおっとりとした女の子。最初の日、気疲れでヨレヨレの私が寄宿舎のドアを開けた途端――今思えばノックするべきだったわよね、ごめんなさいオリビア!――彼女の大あくびを見てしまって、二人で赤くなってしまったのは、今となっては楽しい思い出ね・・・・・・私の居た村は穏やかで退屈な空気が流れる所だったけれど、年頃の少女たちの、色とりどりの香水を混ぜたような、蕾が朝露を待ち望むような、私が初めて出会った華やかな空気がそこにはあったの。私にも女中の娘と遊んだ経験こそあったけれど、こんなに沢山の歳の近い着飾った娘たちと出会ったのは生まれて初めてだった。
成り行きで、私はオリビアと行動を共にするようになっていったのだけれど――いえ、彼女は素晴らしいお友達だったわ。ほんの少しのろまだったけれどね――私はだんだんとそこでの生活に慣れていったわ。その間に私は、華やかなお茶会で飲む紅茶の味の素晴らしさ、教会の煌びやかなステンドグラスから流れる光の厳かさを知ったの。次第に増えていった友人たちは、私のブロンドの巻き毛を見事だと褒めてくれたわ。だから私はいつも泥を付けていたような髪をリボンで結い、手入れを欠かさなくなったの。そうやって、お互いに原石を磨くように私たちはレディに近づいていこうとしてたんだわ、きっと。
とても楽しそうに聞こえるでしょう?ホントウに夢のような時だったのよ。そう、楽しすぎて大切なサエのことも忘れかけていた・・・・・・けれど、ここでサエのことを強く思い出す出来事が起こったの。
それは私が十四になったころ、放課後に外の回廊を歩いていたときのことだったわ。まわりには私の友人やらほかにも人がいたのだけれど、一際人目を惹く生徒が向かいから歩いて来たのよ。スラッと伸びた骨ばった細い身体に、足を進める度にフワッと揺れる真っ直ぐの長い黒髪。切り揃えた前髪から覗く、切れ長の真っ黒の瞳。なんであんなに目立っていたのかしら。彼女が学校では珍しい異国人だから?それとも、とても綺麗だったから?彼女の目が一瞬私を掬いとった気がして、その綺麗な顔が不敵な笑みを浮かべたような気がして、私は立ち止まったまま足が竦んでしまった・・・・・・オリビアにどうしたのか聞かれた気がしたけれど、それからベッドで横になるまでのことがよく思い出せない。
目を瞑りながら考えたのは、サエの事だったの。なぜ彼女のことなのか、よく分からなかったけれど、彼女との思い出ばかり頭の中に溢れて来たのよ。「あの人」が同じ黒髪の東洋人だからかしら。でもお顔はあまり似ていないし――サエも美人だったけれど、もっと優しそうな顔だったの――何より歳が違うわ。そんなことをグルグルと考えながら私は眠ってしまった。
朝オリビアに起こされたときは――いつもこうだったの。笑わないで早起きは苦手なのよ――いくらか頭もすっきりしていて、「あの人」が何者かを探ろうと決心したわ。けれど、正体は案外あっさりと分かってしまったのよ。ガッカリした?そうよ、まだまだこのお話は続くのよ。それで、「あの人」の正体というのが、私の友人たちによると、数日前にやってきた転入生だと言うの。私より二級上と言うことは、歳は十六あたりね。上級生ともなると、授業は違うし、広い校舎の中でなかなか会える機会が無いでしょう?毎日毎日目を皿のようにして歩いていたのだけれど、見つけられなかったの。私を変に思ったオリビアが、事情を知って一緒に探していてくれたにも関わらずよ。だから私、何日か後には強硬手段に出ることにしたの。学校で会えないなら、寄宿舎に直接会いに行こうと。知り合いの上級生に「あの人」のお部屋の場所を教えて貰って――上級生になると一人部屋が貰えるのよ――授業がお休みの日に早速一人で行くことにしたの。けれどね、その日はお部屋に居なかったの。次の日も、その次の日も会いに行ったけれど会えなかった。なぜなのか、さっぱり分からなくて。ホントウはお部屋に居るんだけれど、どこの誰とも知れない私を避けているのかしら。それとも、お出かけが多い人なのかしら。でも校外に出るには許可が必要だし、校内にだって、そんなに用事があるのかしら・・・・・・なんて思い煩って、オリビアにはとても心配をかけてしまったわ。けれどね、とうとう「あの人」に会えるときが来たの。
私が歴史のレポートで再提出を食らって——小難しいことは嫌いなのよ!——図書館で一人で調べ物をしていたときのことよ。狭い書庫で本を沢山抱え込んで歩いていたら、本棚の隅で見事に躓いてしまったの。そのとき手を差し出してくれたのが「あの人」だった・・・・・・そう、彼女はよく図書館に通っていたのね。だから自室に居なかった。突然のことでしょう、私とても驚いてしまって。息が止まるかと思ったわよ。何も言えなかったけれど、本を拾い集めてくれた彼女は私の手を優しく引いて、中庭のベンチまで連れて行ってくれたの。彼女、私のことなんだかとても知ってるみたいだったのよ!自分に会いたい下級生がいるみたいってお友達から聞いてたみたいで。けれどね、私自分の力でお会いしたかったから、彼女のお友達には引き合わせてくれるよう頼まなかったの。だから彼女も私に会えるのを待っててくださったんですって。
私たち、すぐに仲良くなったわ。そう、彼女、マライアっていう名前なの。外国から来たのではなくて、お母様が日本人だったのよ。私、とことん日本って国と縁があるわねって感心したくらい。彼女も私が日本語なんて少し話せるから驚いたみたいで。そのベンチでホントウにいろんなお話をしたわ。生まれ育ったところに、サエのこと、母のこと、それから父と兄のことでしょ、それにオリビアのことも。彼女も小さなときにお母様が亡くなったというから、私、もう驚いてしまって。私たちよく似てるわねって言われたとき、なぜだかとても嬉しかった。
それからマライアと私はよく一緒にいるようになったの。私が一人で歩いていると、ヴァイオラ、ヴァイオラと彼女が優しい声で呼んでくれて。友人たちにはまるで姉妹みたいとよく言われたけれどね・・・・・・フフ、ええその通りよ。一月と経たないうちに私たちは恋仲になったわ。まわりに女の子しかいなかったからかしら?なんてことも少し考えたけれど――なんせ私にとっては初恋でしたからね――ええ、でもこれが正解だったと、今なら私は心からそう言えるわ。
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