緑青の夢
常葉
第1話 湖の乙女
さて、どこからお話したら良いでしょう。いいえ、ちゃあんと一から喋るわよ。あなたもその為にここまで来てくださったんですもの。あら、楽に座ってくださいな。この雨の中、身体も冷えたでしょう。珈琲が来たわ、冷めないうちに召し上がって。
そう、お手紙でも少し書いたかしらね。
あら、私ったらつい恋しくなっちゃって・・・・・・まあ、ありがとう。でも私、ここも本当に美しい島国だと思うわ。この春初めて花見というものをしたのだけれど、爛漫の桜の下で少しお酒を呑んだら——本当に少しだし、私こう見えて強い方なのよ—— まるで夢の中にいるような気分になったの。あなたは何度も行ったことがあるのでしょう?アラ、そうでもないのね。でもとにかく、私は故郷と同じくらい此処が気に入っているの。そう、故郷と同じ様に。
また脱線してしまったみたい。私お喋りだってよく言われるけれど、きっとあなたが聞き上手な所為ってことにしてしまいましょうか、フフ。ああ、さっき日本はもう一つの故郷だと言ったけれどね。あれはお世辞なんかじゃなくて、もっと深い所で本当のことなのよ。何しろ、私は日本人の乳母に育てられたのだから。
珍しいことだと思うでしょう?今ならまだしも、このことはもう一昔も前の話なのだから。その頃、私の知っている限り東洋人でしかも独り身の女なんて彼女以外見たことがないもの・・・・・・あなたももう、うずうずしているって感じね。今も、お手紙でも、あまりお話せず焦らしたのだから。小説家ってものは変わった話を食べてかないと生きていけないのかしら。エエ!そうね、私もそう意地悪じゃないって証拠に、そろそろ本腰を入れてお話を始めなければ。
私がさっきお話した村に生まれたのは、二十二年前のこと。私の家は地主で、丘の上に屋敷を構えていたの。乳母のサエは私が生まれたときに屋敷に雇われた若い女。父は仕事で屋敷をよく空けていたし、母は生来身体が弱く、私が四つになった頃に死んだので、彼女は私の親代わりだった。お天気の良い日にはよく、サンドイッチを作って二人で湖畔に出かけたの。そのときはいつも、私はサエに湖の妖精の話をしてくれと頼んだものだわ。悲しいけれど美しいお話なの。――聞きたいの?いいわよ。
——むかしむかしある村に、貧しい娘が弟と二人きりで住んでいました。弟は病に臥せていて、薬がないと手足が痛くなってしまいます。だから、娘は弟の薬代のために身を粉にして働きました。弟はそんな姉をいつも心配していました。心優しい二人は貧しいけれど、仲良く暮らしていたのです。弟の調子が良いときはよく二人で湖畔に出かけました。そんなとき、娘に村の金持ちの男との縁談が舞い込んで来ました。どうやら、彼はその娘に一目惚れしたようなのです。娘は結婚などしたくはありませんでしたが、弟を良いお医者に診せることを約束され、とうとう引き受けることにしました。それを知った弟は、とても心を痛めました。結婚式の日、弟は姉が支度のために男の屋敷に向かった後、身体を引きずるように森へ向かい、湖に身を投げてしまったのです。支度を終えた姉が弟の様子を見にきたとき、家には誰もいませんでした。森を探し回っても弟は見つかりませんでした。湖に浮かぶ靴の片割れを見て全てを悟った娘は純白のドレスのまま、なんの躊躇いもなく湖に身を投げました。後に残ったのは水面に漂うヴェールのみ。今でも霧が濃い日の湖畔にはドレスを着た美しい娘と優しい顔をした少年が、仲良く佇んでいるのが見えるときがあるのだとか——
ねえ、とっても美しい物語でしょう。サエはもっと詳しく話してくれたのだけれど、私には上手く話せないから、これで勘弁して頂戴ね。ええそう、妖精というのはこの二人のことよ。彼らは湖の妖精になって永遠に二人で生きていられるの・・・・・・素敵だと思わないかしら?なぜ姉がすぐに後を追えたのかって?そうね・・・・・・私は、二人は姉弟の絆を超えて愛し合っていたのだと思っているわ。あら、素直に頷いてくれる人に初めて会ったわね。サエ以外では。流石小説家ってだけあるわね。けれどおとぎ話もこの辺にして、お話を戻しましょうか。
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