愛される人
眩暈がするほど、青い空に包み込まれていた。
寒くもないし、暑くもない。ただただ空が青い。
私は重い体を起こし、辺りを見回す。うっすらと記憶の中にある景色。古びたフェンスとボロボロのコンクリート、屋上だと気づくのにそう時間はかからなかった。
立ち入り禁止のこの学校の屋上に、私は一度だけ来たことがあった。あのときはこんなにも溺れそうな青空ではなく、物悲し気な夕暮れだった。
私の手には、A4版のコピー用紙が一枚あった。不思議に思ってそれをまじまじと見つめると、いくつかの数字が書かれていて、タイトルには「成績通知」……思わずその紙を破り捨てそうになった。
普通科、一年一組、芹沢。
点数は全て九十点以上、順位は一位。
過去の栄光。
今ではそれさえも、私の首を絞めるものだった。こんなもので私の人生が上手くいくのだったらよかった、この紙切れ一枚で私の全てが救われるのであればよかった。
あぁ、とため息が口の端から零れる。吐息の欠片が風に呑み込まれて青空に溶ける。溺れる、と思った。
立ち上がってフェンスの近くまで寄ると、その青が一層鮮明に私を包み込むように思えた。押しつぶされそうなくらいだ。
手元の紙切れを見つめる。そこに印刷されたどんな数字も無意味だ。こんなもので人生は保障されない。
手に力を込める。くしゃりと歪んだ紙切れをそのまま力づくで破り捨てる。ビリっ、と壊れる。脆い。私の評価は、価値は、こんなにも脆い。
びりびり、びりびり、と破り捨てて細かくする。紙切れは紙くずになる。数字は読めなくなる。
手のひらにできた紙くずの山を、そっと手放した。重力に正しく足下に舞い落ちていって、風が淡く吹いて、攫っていく。
舞い上がる過去の栄光の残骸が、雪のようだった。
青空に呑み込まれていく白い欠片を眺めながら、私は記憶を辿っていた。
何か具体的で大きなキッカケはなかった。私はいつの間にか少しずつ心を削ってそのまま落ちるとこまで落ちていった。それだけのことだ。特筆すべき点もない。今日もこの国の何処かで誰かが死んでいくように、こうして「大半の人が歩む道」から外れていく誰かがいる。私もそのうちの一人に差し掛かっていて、数字としてカウントされ資料に組み込まれていく「多数の人間」に成り下がるのを待つだけなのだ。
誰かが主人公になるためには、誰かが悪役にならなければならない。彼らが「成功者」にカテゴライズされるためには「敗北者」になる人物がいなくてはならない。私はその悪役、敗北者。最初から悪として生まれたわけでは決してなかった。私も最初は悪に立ち向かう主人公の一人だった。夢と希望と目標を抱えて必死に何かと戦って勝とうとする主人公だった。いつからか、地に足をつけて歩くために夢も希望も目標も、果ては愛も、過去に投げ捨ててきてしまった。失ったのではない。自ら捨てたのだ。手放したのだ。不要なものだったわけではない。ただ、脆弱な私が自分の力で立って歩くには、重すぎる荷物だったのだ。生きるために生きる理由を捨てたのだ。そうして私は誰かにとっての悪役になる。数字に組み込まれて消える。
フェンスに手を伸ばす。ざらついた緑色。少し前の記憶が蘇る。一年生の学年末、春休み直前の放課後、物悲し気な夕暮れ。まだ爪が短かった私の手。立ち入り禁止の屋上に忍び込んで飛び降りてやろうと思ったのだ。学年一位が死んだら面白いゴシップ記事にでもなりそうじゃないかと一人で笑っていた。あの時私を止めたのは誰だったか。私の肩を掴んだ華奢な白い手。
「芹沢さん」
振り向いた。逆光で彼の姿は見えなかったが私にはわかっていた。そう、あの、華奢な手は。
彼の名前を呼ぼうとして、どうしても思い出せなかった。そう彼は、ただのクラスメイトなんかではなかったのだ。いつだってクラス二位、細身でひ弱そうな男子。私の首を絞める冷たい手。
「やっぱり、死にたくないなんて嘘なんでしょう」
空が、青い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます