愛する人

 せっかく久しぶりに朝から終業まで教室にいたというのに、今日は不運なことに掃除当番で、挙句じゃんけんに負けてゴミ捨てに任命されてしまった。

 ゴミ捨てから戻ってくると、朝、私に「諦めたの?」と問いかけた彼が、教室にぽつんと佇んでいた。

 新しいゴミ袋を用意しながら、彼に「何してるの」と尋ねると、「日直」と短い答えが返ってきた。

「芹沢さんが戻ってこないと鍵締められないから」

 彼の華奢な指先で、プレートのついた銀色の鍵が揺れた。

 なるほど、と私は頷く。

 今朝の話の続きをする気にはなれなかった。隣の席の彼の意見を聞いても尚、私の中での答えは出ていなかった。

 さて、ゴミ捨ても済んだし帰ろうかなと、自分の席に置いていた鞄を肩にかけようとしたとき、彼がこちらを見ていることに気付いた。ぎゅ、と心臓を掴まれるか、あるいは心を何かに絡めとられるような感覚を覚えた。教室の暖房が効きすぎているせいか、嫌な汗が背中を伝うのがわかった。真夏のように、前髪がおでこに張り付いているように思えた。廊下を、冷たい風が通り過ぎていく音がした。

「芹沢さんは」

 彼が呼ぶ私の名前はざらついている、と思った。彼はどんな気持ちで私を呼ぶのだろう。嫉妬か憎しみか羨望か。それとも、もっと他の何かか。

「死にたいと思う?」

 鞄を肩にかけ直す。

「思わない」

 はっきりと、嘘をついた。

 ふと、彼の虚ろな瞳が、私の胸を貫くようにこちらを見据えた。

 思わず一歩後ずさりすると、彼は急に私の方に歩み寄り、そして私の胸倉を掴んだ。脚が机にぶつかり、ガタンと音を立てた。心の奥底から這いずるような恐怖心がせり上がってきた。

「嘘つき」

 彼は淡々とそう言った。怒りをあらわにすることも、憎しみを込めることもなく、ただ静かに、淡々と。だが胸倉を掴む手の力は一向に緩まなかった。彼との体格差、力の差をひしひしと感じる。肌がぴりぴりする。その細い体つきでも、彼はしっかりと男だった。

「どうしてそんなに堕落しても平然と生きていられるんだ、自分の価値を見出せるんだ、僕は君のようになったら羞恥心と苦痛でもう二度と日の当たる場所で生きていけない。なぁ、僕よりずっと先を走っていた君はどこに行ったんだ、どうして何もかも投げ捨てられたんだ」

 より一層首が絞まる。いくら抵抗しようにも、彼の力には到底かなわない。

 そのとき初めて、はっきりと、彼の瞳の奥底にある憎しみによく似た感情が見えた。虚ろな瞳は、まるで深淵を描くように、深く、暗い。

「なぁ、教えてくれよ、死にたいと思わないなんて嘘だろう。芹沢さん。君がいつもテスト前に死にたいと呟きながら、放課後遅くまでここで勉強していたのを僕は知っているんだ。去年だってそうだった。君はいつだって苦しみながら自分と闘っていたじゃないか。それに、あの日君は」

 彼は何かを言いかけて、口を噤んだ。すると、胸倉を掴んでいただけだった手が、両手でしっかりと首を絞めるように力を込める。苦しい、やめて、と言おうとしても、声が出ない。深淵が迫る。彼は虚ろな目をしたまま私の首を絞め続けていた。

「君がいなくなってようやくわかった。自分の見据える先に追いかけるべき背中がいないというのが、どれだけ苦痛か。どこまで頑張ればいいのかわからない。それでも努力を辞めたら負けてしまう。これは自分との闘いなんだ。ようやくわかったんだ、君の苦しみが。なのに」

 首を絞めていた手が緩む。私は咄嗟にその手を振り払って、喘ぐように必死に息を吸った。

「なのに、どうして、君はいなくなってしまったんだ。せっかく分かり合えると思ったのに。せっかく君に近付けると思ったのに」

 私はその場にしゃがみこんで、朦朧とする意識の中で必死に酸素を求めていた。彼の絶望と憎しみと怒りの入り混じった感情の渦が、頭上に降ってくる。重くて重くて、身体が動かなくなる。押しつぶされそうなくらい、のしかかってくる。

「あぁ、いっそ、このままこの手で君を殺して、僕も死んでしまえば、すべて分かり合えるだろうに。君と一つになれるだろうに」

 ねぇ、芹沢さん、と甘い声で呼ばれる。毒だ、と思った。その甘い声は敵意が剥き出しの毒だった。その毒は私が呼吸するたびに、酸素と共に肺の奥まで染みこんでくる。

「僕は君が羨ましかったんだ、その才能が、品格が、美しさが。君はなんでも持っている。なんだって出来る。なのにどうしてそれを全て投げ捨ててのうのうと生きているんだ、今の君は僕が憧れた芹沢さんじゃない」

 彼は静かにしゃがみ込み、私と目を合わせる。

「ねぇ、君はどうして、諦めたの?」

 何かを答えようとした。だけども何も言葉にはならず、口の中で溶けて消えて、必死に酸素を求めて咳き込むたびに、教室の乾いた空気が喉の奥に突き刺さって苦しかった。

 彼はじっと、苦しみもがく私を眺めていた。虚ろな瞳。

「私は、何を諦めたようにみえる?」

 ようやく絞り出した声は掠れていた。彼は迷わずそれに答えた。

「僕に嫌われること」

 その回答はあまりに見当はずれで、私は咳き込むのも忘れて彼の顔をじっと見つめた。

「君が僕よりずっと先を走っている以上、それが憎くて羨ましくて仕方なかった。だから僕は君を好きにはなれなかったんだ。だけど」

 彼の華奢な白い手が伸びて、私の頬に触れる。冷たい、と思った。暖房の効きすぎた教室とは対照的に、彼の手は真冬をそのまま切り取ったように冷たかった。

「こうして君が僕と同じ舞台で闘う相手ではなくなってしまった以上、君を好きになる以外の選択肢はないんだ」

 彼の指先の冷たさが、皮膚を通り越して、私の身体の芯まで冷やしていく。効きすぎた暖房で滲んだ汗がすっかり引いていた。

 うっとりと、彼は目を細める。

「その才能をもってしても全てを投げ捨てていった君が憎いのは当然だけど、それ以上に、その美しさを、その完全さを、僕のものにしてしまいたいという気持ちでいっぱいなんだ、ねぇ芹沢さん」

 彼の指先が私の肌を這っていく。まるで催眠術にでもかけられたかのように、全く抵抗する気になれなかった。私の奥底で蠢く感情は、恐怖か、果ては、その真逆のものか。

「ずっと君が羨ましかった、憎かった、でも今は違う。君の全てを僕のものにしてしまいたい」

 冷え切った指先が、頬から下りて、再び首にかかる。両手がそっと私の首を包み込んで、その冷たさと、徐々にかかる力に眩暈を感じながら、あぁこのまま彼に殺されてしまうのも悪くないかなと一瞬、ほんの一瞬だけ思ってしまった。彼の甘い毒が、冬の冷たさと一緒に私の命までも全て吸い取ってしまえばいい。そうすればきっと楽になれる。すべて投げ捨てた代償も、この先に待ち受ける苦しさも何もかも考えなくていい。ただ彼の甘さと冷たさに殺されて、そうして。

 きゅ、と靴紐を締めるときのように、意識が細く絞られた。

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