第二章 ひとりぼっちのお茶会②
しかし、エルのやる気とは反して、クロードから任される仕事は、書類や本の荷物運びに
(今日で騎士団に入ってから五日目だけれど、なかなか心を開いてもらえないわね)
新人騎士であるエルは、騎士団の仕事を覚える必要もある。王子としての公務を兼任しているクロードには
そんなわけで、今朝も早くから演習場の
「おー、新入り。お前の掃除の仕方はほんと丁寧だよなぁ」
ぞろぞろとやって来た先輩騎士たちが、きちんと整備された演習場を見て感心する。
「おはようございます、皆さん。お褒めにあずかり光栄です」
ガタイのいい男たちにズラッと囲まれる──なんて、リトリアの王城にいた頃は想像も出来なかった光景だが、案外すんなりと
男性に囲まれて暮らすという
「そうだエルヴィン、今日からお前も演習に参加していいぞ」
「え、いいのですか?」
「団長の弟子だったんだろ? その腕前をとくと見せてみろ」
ポンと
「まだ早いとは思ったんだが、まーあれだ、お前なかなか骨のあるやつっぽいからな」
「骨のある、ですか? 私が?」
「そりゃお前、あのクロード殿下に
うんうん、と周りの騎士たちが
「確かに気軽に話しかけるのは
「いや、畏れ多いとか以前の問題だろ!? あの絶対
「あはは、そんなことありませんよ。ちょっと無愛想かもしれないですが、話しかけたらちゃんと応えてくださいますし」
エルが笑い飛ばすと、騎士たちは驚きの表情でエルを見つめた。
「お前、大物だな……。俺ならあの氷のような冷たい目で睨まれたら、ビビッて動けなくなるっつーのに」
「
騎士たちがひそひそと話す後ろから、突然不満そうな声が飛んできた。
「何がポジティブだよ、くだらねぇ。お前みたいなおめでたい頭のやつを見てるとイライラするわ。箱入りお
そう言ってエルを睨み付けたのは、マリク・ノイマンだった。入団初日から何かとエルに突っかかってくる十九歳の若手騎士を、先輩たちが「まあまあ」と
「マリク、そうカッカすんな。エルヴィンが騎士団長のお墨付きをもらってるだけでなく、王太子殿下の側付きに任命されたからって、
「なっ……、勘違いしないでください! 俺はただ、どっからどう見てもひ弱そうなガキが騎士団にいることが、納得出来ないだけです! 大体、殿下の側付きって言ったって、どうでもいい雑用押し付けられてるだけじゃないですか!」
「あ、あの、今、雑用と仰いました?」
「あ? なんだよ、間違いねーだろ」
「……もしかして、私が頼まれてきたことは、騎士や側付きの任務とは関係がなかったのでしょうか?」
「
マリクはもちろん、先輩騎士たちも声を上げて驚いた。
「城内のことについて詳しくなるために、わざといろんな場所に向かう仕事を頼まれていると思っていたのですが」
「いやお前それ、殿下に追い払われてただけだから……」
「えぇっ、そうだったんですか!」
「何この
周囲の感心するような声をよそに、エルは自分の
「私、気付きませんでした。マリクさん、教えてくれてありがとうございます」
「な、なんでお礼を言われてるんだ俺は……っ」
「お前も段々わかってきただろう。ああいうやつだ、エルヴィンは」
一方、エルは
(このままではいけないわ。ちゃんと殿下とお話ししないと)
その思いが通じたのか、ちょうど演習場にクロードが現れた。エル以外の騎士たちが、
(なんて良いタイミング!)
「クロード殿下、お疲れさまです。殿下も演習に参加されるのですか?」
騎士たちが止める間もなく、エルはいつも通りクロードに話しかけに行く。対するクロードもいつものようにエルをひと睨みし、無視してスタスタと歩いていく。後方の先輩騎士が「こ、
「殿下が手合わせするお姿を拝見するのは初めてですね。楽しみです」
「……俺は参加するなんて言ってない」
「でも、演習用の
クロードは返事をしない。それならば、とエルはさらに問う。
「では他に何かご用が? 私に出来ることでしたら仰ってくださいね」
「
先輩たちが
「やっと目を合わせてくれましたね」
「はあ?」
〝目を合わせる〟という表現は明らかに間違っている、とその場にいる誰もが思ったが、エルにとってはそうではなかった。たとえ機嫌が悪そうでも、背を向けられたままよりはずっといい。
「それで、殿下はどんなご用があってこちらに?」
そのまま平然と会話を続けるエルに、クロードは眉間に深く皺を刻む。
「……お前、
ボソリと呟かれた内容は聞こえず、聞き返そうとしたが彼の長い
「…………コーディーが珍しく演習に参加すると言っていたから、来ただけだ」
そこでエルは、以前先輩たちに聞いた話を思い出した。クロードは普段、演習には参加しないということを。理由は、彼の剣の腕前は相当なもので、相手を出来るのが騎士団長であるコーディーしかいないから、ということだった。
「なるほど、だから木剣をお持ちだったのですか。ですが、まだ団長は来ていませんね」
「そのようだな。なら用はない、帰る」
「ああっ、待ってください。それなら私とお手合わせをお願いします」
「え────っ!?」と騎士たちの
「お、おい、エルヴィンや……、お前はなんて畏れ多いことを……」
「それで、もし私が殿下に
「
「そう仰らずに。さ、いきますよ!」
「お前はなんでそう
だがクロードも動いた。彼の動きは
(わっ……。やっぱり速いわね、殿下の剣は)
久しぶりに誰かと剣を交えることが楽しくなり、エルは負けじとまた突っ込んでいく。
木剣を打ち合う音が、青空の下に気持ちよく
けれど、ギリギリで彼の剣を
(でも、負けるわけにはいかないわ)
ここでの生活を守るため、クロードに自分のことを認めてもらいたいのだ。リトリアと兄弟のことを
大きく振り下ろされたクロードの剣は、逃げようもない角度でエルを
(あぁ……! もう少しだったのに)
空高く弾かれた剣を目で追い、悔しくなる。視線を下ろすと、クロードが珍しい動物でも観察するように、まじまじとエルを見ていた。
「お前、意外と……」
そう言いかけた彼の肩に、タン、と軽い音を立て、木剣が落ちてきた。
「え」
エルをはじめ、クロードも、観衆と化していた騎士たちも、しばし動かなかった。
カランカラン、と木剣が地面に落ちて鳴らす音を聞いていると、騎士たちからおーっという
「……俺の負けか」
「え、でも今のは……」
一撃当てた、というには
「当てたことには変わりない。それに……思っていたより動けるようだから、お前の話とやらを聞いてやらなくもない」
不服そうではあるが、クロードはそう言った。エルは嬉しくなり、微笑む。
「ありがとうございます。殿下はとってもお心が広い方なのですね」
「はあ? なんでそうなる」
「私がそう思ったのですから、そうなのです」
「答えになってないだろう。わけがわからん……あーもう……」
そんな二人のやり取りを、騎士たちが
「殿下がエルヴィンに押されている……!?」「あの殿下が……!?」というコソコソした声を聞き取ると共に、クロードが急に険しい顔になった。そのまま騎士たちを
その
「わ、待ってください殿下! 話を聞いてくださるんじゃないんですか?」
「うるさい!」
そのままズカズカと歩いていってしまうクロードを、エルも急いで追いかける。思い出したように振り返り、先輩たちに声をかける。
「すみません皆さん、ちょっと外します!」
「お、おお……。
「あいつやっぱすごいな、あんなに殿下と会話できるなんて……」
騎士たちの怯えたような呟きだけが、その場には残った。
「殿下、待ってください。話を聞いてくださいってば!」
執務室に着いたところで、彼はようやく足を止めた。
「……ほんっと、調子
「え? 何か仰いましたか?」
「何でもない」と言いながら振り返ったクロードに、ようやくエルは伝える。
「えっとですね、私のお話というのは……、側付きのお仕事についてなんです」
「
「もう、なんでそうなるんですか。そうじゃなくて、もっと他にもやらせてくださいってお伝えしたかったんです」
クロードが
「……お前の結論がなぜそうなったのかを俺は知りたい」
「だって私、殿下に追い払われているだけだって気付いてしまったんです」
「そこまでわかってても辞めたくならないのか。良い度胸してるな」
「辞めませんよ。だって、まだ全然殿下のことを知れていないですから」
「知る必要なんかないだろう。お前に何のメリットがある?」
「もちろんあります。殿下のことを知れた分だけ、仲良くなれますから」
「仲良っ……、だからお前はどうしてそう恥ずかしいことを平気で言えるんだ!?」
「恥ずかしくなんてないです。殿下の側付きの役目を
そしてそれは、最終的には国と兄弟を守ることに
真剣なエルを見たクロードは、
「俺はお前と仲良くなりたいなんてこれっぽっちも思っていない。だからとにかく、俺に
そう言って、部屋の中からいつものように書類の山を持ってきて、エルに押し付ける。エルが何か言おうにも、
(うーん、あそこまで言われてしまったら、今日のところは
仕方ないと息を吐き、エルは今日も書類運びの仕事に取り
「殿下、失礼しま──……」
書類の山を運び終えて執務室に戻ったエルは、さらにもう一山分、書類が積まれているのを発見してしまった。
(まだこんなにあったのね……)
それを置いていった部屋の
(とすると、まだ戻っては来ないかしら。でも、この山も早目に片付けた方がいいわよね)
そうして、新しい書類の山を
(確か、ここがその会議室よね)
会議が終わったようだ。身なりを見る限り、部屋から出てくるのは皆、高い地位の者たちに思える。クロードの姿は見えなかったが、出てくる人が揃いも揃って疲れ果てた顔をしているのが、エルは気になった。
(難しい会議だったのかしら。国政に関わることですものね、きっと緊張した空気の中
リトリアでもそういう場に同席したことがないエルは、やつれた二人組の男が通り過ぎるのを見て、なんとなく心配になってしまう。
(今の人たちは官僚ね。胸元の緑色のバッジは、確かそうだったはず)
王城で役職に
「おい」
その時聞こえた、
(クロード殿下?)
クロードはエルの前を
「で、殿下……、まだ何か……?」
(え? な、何?)
「お前たち、さっきの話はまだ解決していないからな。くだらない提案はさっさと取り下げておけよ」
「……お言葉ですが殿下、先程も申し上げましたように、くだらなくはありません。歴史ある
「だから、定期的とは言っても、半年に一度は
「神聖な場所ですゆえ、入念な手続きと準備に時間がかかるのです。ご理解ください」
「理解なんか出来るか。一か月で
クロードが冷たく言い放ち、官僚が押し黙る。
(え、えっと……、これは一体、何が……)
目の前の氷点下の空気に、エルも思わず凍り付く。
(いつにも増して、殿下のご機嫌がよろしくないような……?)
「いいか。そんなことに使う金のために、
最後にもう一度圧をかけ、クロードは官僚たちに背を向けた。
(……あ。なんとなくわかった……かも……?)
教会の修繕費を巡って議論が
(でも、ちょっと言い方が……キツいのではないかしら)
国民のことを思って
思ったことをハッキリ口にする人だということはわかってきたが、どうにも落ち着かなくなったエルはクロードを追いかけた。
「あの、クロード殿下」
返事はなく、彼は振り返りもせず歩き続ける。先程のお怒りモードを引き摺っているようだ。しかし聞こえてはいるはずなので、エルは続ける。
「たまたま通りかかったので、今のやり取りを聞いてしまいました。それで、その……」
「お前には関係ないことだ」
突き放すような声だった。もちろん、エルが口出しすべきことでないことは、わかっている。それでも黙っていられないと思ったのだ。
「仰る通りです。ですから話の内容ではなく、話し方について申し上げたいと」
「話し方だと?」
クロードは立ち止まり、特大の睨みと共に振り返った。エルはその迫力に押されないよう、
「そうです。あのような仰り方では、殿下が損をすると思いました」
「損? 俺が?」
「ええ。正論を口にしていても、あのように冷たくて一方的な話し方では、伝わるものも伝わらないと思うのです。殿下の印象も良くならなくて、すごくもったいないです」
間違ったことは言っていなくとも、
「フン、別に印象なんかどうでもいい。正論が通じないやつも放っておけばいい」
「ですが、あれでは周りの皆さんを
「あれくらいで怯んでるやつらなんか知るか。どうでもいい」
「だから、どうしてそう何でも突き放すような言い方をするのですか!」
ほんの少しムキになってしまうと、クロードはさらに目を細めてエルを睨んだ。
「俺に意見するなんて、大層なご身分のようだな。その減らず口をどうにか出来ないなら、側付きどころか騎士団まで辞めさせるぞ」
「……っ」
そう言われたら、エルはもうそれ以上何も言えなかった。
黙ったエルを
ここを追い出されるわけにはいかない。けれど、ああやって人と距離を置くことを
どうしてあんなに頑ななのだろう。
(……難しいわね……)
意気
そうして残りの分も少なくなった頃、西の
この仕事も五日目ともなれば、城内の構造はだいぶ頭に入ってきている。オリベールの王城はリトリアの城より広く、最初は
(西の棟には、図書室に行くぐらいしか用がなかったのよね)
王城の中でも執務区域にあたるのは東側で、西側には王族の私的な部屋が多く造られているらしい。クロードの私室もこちら側にあると聞いた。
(騎士の身分で、用もないのにウロウロするわけにはいかないわよね……)
それでも足を止めてしまったのは、回廊の奥から花々の良い
それは、先程のクロードとのやり取りで
(もしかしてこの先に、庭園でもあるのかしら? ちょっと気になるわね……)
「わっ、待って!」
その声も
(……ごめんなさい、書類を取りに行くだけなので!)
心の中で
(昔、お兄様たちに言われて木登りの特訓をしていて良かったわ)
幼き日の
ひょいひょいと身軽に登り切り、生垣の向こうを見下ろすと、そこにはエルが想像していた以上の景色が広がっていた。
「まぁ……、なんて
視界に広がるのは、一面に広がる色とりどりの花の
けれど少しだけ気になったのは、四方を高い生垣に囲まれているせいか、広いのに
(何か特別な場所だったりするのかしら。早く退散した方がいいかもしれないわね)
書類は生垣の内側に落ちていた。周囲を
(良かった、全部あったわ。もう少し探検してみたいけれど、早く戻りましょ──……)
「まぁ、どなた?」
「ひゃっ」
背後から小さな声が聞こえ、エルは慌てて振り向く。
そこには、眩しい白銀の髪に、ふわりとした
「もっ、申し訳ありません! 書類がこちらに飛ばされ、勝手にお
「まあ、それは災難だったわね。探し物は全て見つかって?」
小鳥の
「はい。無事に見つかりましたので、すぐに失礼しま──……」
「ねえ、もしかしてあなた、先日騎士団に入団した新入りさんではなくて?」
吸い込まれそうな
「ああ、やはりそうなのね。あなたのことは城内で
美の
「今、話し声が聞こえたような……。何かございましたか? 王妃様」
(王妃様!?)
エルが驚いて目の前の女性を見つめると、彼女はシー、と人差し指を口元に
「いいえ、何も。
駆けて来たのは王妃付きの女官だったようだ。そうして、女官を下がらせた王妃に、エルはもう一度頭を下げた。
「あの……、申し訳ありません。王妃陛下の
「気になさらないで。それより、良かったら
「え、でも」
そんなわけにはいかないと断ろうとしたが、その時エルは、王妃がどことなく
(こんなに
エルが迷っていると、王妃はしゅんと
「……
「い、いえ! では、お言葉に甘えて、ご一緒させてください」
今は一騎士である自分が王妃とお茶をする、なんてとんでもない話だと思うが、彼女の切ない表情を見ていたら、勢いでそう答えてしまった。王妃が嬉しそうに微笑んだので、エルはホッとする。
「嬉しいわ、ありがとう。わたくしはマデリーンよ。新入り騎士さんのお名前は?」
マデリーンに手招かれ、東屋へ向かう。自分の名を名乗りながら、エルは記憶を辿った。
(マデリーン王妃は、第一王妃のお名前だったわね)
つまり、クロードの母君ではない。彼の母君は第二王妃だからだ。
「いつも一人でお茶をしているのよ。でも今日はお客様が来てくれて嬉しいわ」
東屋のテーブルに着き、いそいそとお茶を用意しようとする手を、エルは止める。
「あ、よろしければ私に淹れさせてください。実家では、家族によくそうしていたので」
「まあ、そうなの。ではお願いしようかしら」
テーブルにはたくさんのユリが
「綺麗な手をしているわね。男性にしておくにはもったいないくらい」
ドキリとして紅茶を
「せ、成長期がまだ来ないみたいで、なかなか男性らしい身体つきにならないんですよね」
「成長期……、なるほど。そういうのは、人それぞれだと言うものね。でも、あなたにはこのままでいてほしいわ。女の子みたいで可愛らしいもの」
「おっ、男としてはやっぱりそれは困る気もしますね!」
透き通った翡翠色の瞳に、真実を
「そうよね。当人からしたら、気にしてしまう問題よね」
マデリーンはそれ以上深く追及せず、カップを口に運んだ。エルはホッと息を吐き、改めて庭園に目を向ける。
「それにしても、本当に素晴らしい庭園ですね。ここは王妃様専用の庭なのですか?」
「ええ。国王陛下が
「国王陛下ともこちらでお茶をご一緒されるのですか?」
「いいえ、誰も招いたことがないの。だからあなたは、初めてのお客様」
「えっ、初めての……! 私、本当にお邪魔して良かったのでしょうか……」
それほど特別な私的な空間に、騎士が
「心配いらないわ。わたくしが黙っていれば、誰にも知られずに済むから。それに、他の人間だったらお断りするけれど、あなたは特別。こんなに可愛らしいお客様を追い払う気にはならないもの」
男らしく見えない外見が役に立ったらしい。エルは安堵し、緊張を解いた。
「ありがとうございます。実は、回廊を歩いていたら花の良い香りがしてきて、気になっていたんです」
「そうだったの。あなたも花が好きなの?」
「はい。なのでここは本当に
「それは、祖国ソリヴィエにしか
(ソリヴィエ王国……ここからはだいぶ遠い
「綺麗でしょう? ソリヴィエはこの国に比べたら小国だけれど、自然が多くてのどかな良い国なのよ」
「王妃様は、ソリヴィエが大好きなのですね」
「ええ、生まれた国ですもの」
エルもリトリアのことを思い、共感して頷く。対するマデリーンは、祖国のことを想って感傷的になったのか、瞳が
そっと庭園を見渡すと、風に揺れる花々以外は何もない。たくさんの色に満ち溢れているのに、なぜか
それに地上から眺めると、四方の高い生垣のせいで閉じ込められているような感覚になる。こんな所に一人でいるのは──寂しいだろう。
「そういえば新入りさん。あなた、クロード王子の側付きの騎士なんですってね」
今しがた見せた
「はい。……と言っても、雑用しかやらせてもらえていないのですが」
先程のクロードの態度を思い出し、また少し落ち込んだ気持ちになる。
「まだここに来て日が浅いですから、そう簡単に信用してはもらえないですよね」
「初めのうちはそんなものよ。少しずつ歩み寄っていけばいいのではないかしら」
「……でも、さっきも余計なことを言って、言い合いになって怒らせてしまったばかりで。歩み寄るには時間がかかりそうです」
「言い合った? 王子と
「喧嘩というか……、そうですね、私もついムキになってしまって」
するとマデリーンは、
「それならあなた、見込みがあると思うわ。わたくしもクロード王子とそんなに言葉を
「そ、そういうものですか?」
「ええ。それに彼は、あまり人を側に置きたがらない方でしょう? その彼が、側に付くことを許しているだけでもすごいのではないかしら」
「……すでに何度か、その役目をクビにするぞと言われているのですが……」
「本当にクビにしたかったら、あなたに告げずに黙って
なるほど。マデリーンの言うことは一理あった。ということは、エルは一応、
諦めなければ、いつかは心を開いてもらえるだろうか。マデリーンのおかげで、エルは少しずつ元気が戻ってきた。
「ありがとうございます、王妃様。私、めげずに頑張ってみます」
「
「え?」
「国を背負う王太子ですもの、近付いてくる人間には警戒してしまうと思うのよ」
マデリーンは、また寂しげに目を
「立場上、周りの雑音が嫌になることはわたくしもあるわ。そうなると、誰とも関わらないで一人でいた方が気が楽だ、と思ってしまうようになるのよね」
こんな風に、と言ったマデリーンの表情は、今にも消えてしまいそうに儚げだった。その時、エルはようやく気が付いた。この庭園の違和感と、マデリーンから感じる
(……もしかしてここは、王妃様が自らの意思で閉じこもっている場所なのかしら)
漠然とだがそう感じた。マデリーンは子を産んでいないと聞いている。第一王妃でありながら子をもたないという事実は、当人にとって
(まるでここは、美しくも寂しい
物寂しく遠くを見つめるマデリーンに、エルの胸は苦しくなる。
リトリア王国の先代王妃はエルの母一人だけ。その母は自分を
「クロード王子が
彼女にはいないのだ。そんな風に接してくれる人間が。
「あのっ……、良ければ、王妃様のことも私に教えてください!」
思わず口から飛び出てしまった言葉だった。けれど、マデリーンは目をぱちくりさせた後、
「……ありがとう、新入り騎士さん。
マデリーンの庭園を辞したエルは、回収した書類を目的の相手へ届けてから、騎士団の
(あんな風に気まずく別れたままなのはモヤモヤが残るけれど、これも大事なことよね)
マデリーンに背中を押してもらい、やる気が戻ってきたエルは、図書室に来ていた。今ページをめくっているのは、オリベール王国史の分厚い一冊だ。
(何も知らない他国の人間にとやかく言われたら、殿下も怒って当然よね。ならせめて、オリベールのことを少しずつでも知っていかないと)
ただの気休めかもしれないが、何も知らないよりはマシだろう。そう思って、一から学んでいこうと思っていたところだった。
(それにしても、調べてみると殿下が仰っていた通りだったわ。国民の税金は、過去に何度も上げられているのね。他国に比べ、平均的に
クロードが腹を立てていた理由は納得出来た。だから後は、言い方の問題だ。
しかしそれを伝えるには、今のエルではまた言い合いになってしまう。もっと自分が彼に認めてもらえるようになれば、少しは話を聞いてくれるようになるだろうか。
そう考えつつも、もうだいぶ夜も
運良く会えた、と目を輝かせたエルと目が合ったクロードは、元からの
そんな彼に、エルは素早く駆け寄る。
「殿下、こんばんは。少しよろしいですか?」
「よろしくない。俺は用事を思い出した」
「ではその用事に取りかかるまででいいので、私の話を聞いてください」
クロードは何か言いかけたが、開きかけた口を閉じて足を早めた。
「昼間は
クロードはエルの方を見ようともせず、無言で歩き続ける。
「それで反省をしまして、殿下に私のことをちゃんと認めてもらうため、気持ち新たに頑張りたいと思いました。なので、これからもお側にいさせてください」
「あれだけ言われても逃げ出さないのか」
「逃げませんよ。私はここにいたいのですから」
そこでようやく、クロードはちらりとエルの手元に視線を
「……何だ、それは」
「オリベールについての本を、いくつかお借りしました。改めて振り返ってみると、私はこの国のことをまだまだ全然知らないなと思ったので、勉強しようと」
「…………フン」
少し、物思うような間があった。いつもほどの
「もちろん、殿下のことも教えていただければ嬉しいです。気が向いたら少しずつでもいいので、話してくださいね」
「誰がするか、そんな話」
やはりまだ
マデリーンの言葉を思い出す。〝立場上、近付いてくる人間を警戒してしまう〟と。
(リトリアの城にいた時、私はそんな風に思ったことはなかった。でもそれは、信頼出来るお兄様たちに守られていたからなのよね)
人を疑う必要のない世界で過ごしてきた。つくづく、自分は大切にされてきたのだと感じる。クロードにも、少しでもいいから同じような気持ちを味わってもらえないだろうか。自分はその一助となれないだろうか。
そんな中、また
「あ、あの、殿下のお母様はどのようなお方なのですか?」
「なぜ急に母が出てくる。お前には関係ないだろう」
「それはそうですが、第二王妃様はどんな方なのか気になったものですから」
「第一王妃のことだって知らないだろう」
「いえ、マデリーン王妃様とは先程……」
と言いかけ、ハッと気付く。
(いけない、王妃様にお会いしたことは、
成り行きとはいえ、庭園に入り込んでしまったのだ。黙っていた方がいいだろう。
だが案の
「……先程? どういうことだ?」
エルは仕方なく、予期せぬ事態でマデリーンとお茶をすることになった
「……お前、王妃の庭園に
「侵入だなんて、そんな敵地に乗り込むみたいな。ですから、事故みたいなものなんです」
「他国の貴族とはいえ、
「はい。ですからすぐにお
寂しそう、とクロードは小さく繰り返した。少し間を置き、不満げな顔になる。
「だからと言って、勝手な行動はするな。……ったく、俺でさえ年に一度しか顔を合わすことがない相手だっていうのに……」
「えっ、そんなにお会いする機会がないのですか?」
「あの人は
「そうなのですか……」
「とはいえ、マデリーン王妃はこの国で二番目の権力者だ。お前が
「……どうしましょう。また遊びに行くと約束してしまったのですが」
「……どうして短時間でそんなに親しくなれるんだよ……」
クロードが
「ったく、放っておくとどこまでも人脈を広げてくるわけのわからんやつだな」
クロードが髪をくしゃりとかき回した時だった。風の音に交じり、女性の悲鳴が聞こえてきた。
(な、何!?)
二人で声のした方に駆け出す。中庭を突っ切ったところで、クロードが足を止めた。
「……クレア!」
クロードがいつになく
(クレア……って、殿下の妹君!?)
十一歳の妹姫がいるとは聞いていたが、なぜあんな場所にいるのだろう。疑問に思いながらも、バルコニーの真下に向かって走っていくクロードを、エルも追いかける。
近付くにつれ、状況が見えてきた。クレアが
(もしかして、バルコニーの手摺りから
どうして手摺りの外側に落ちることになったのかわからないが、必死に石造りの手摺りに摑まる彼女の様子からして、恐らくそうだろう。女官の震える声が聞こえた。
「姫様、人を呼びに行っていますから、どうかご
地に足がつかない不安定な状態で、腕がプルプル震えているのが地上から見てもわかる。ヒュウ、と風が吹くたび、クレアは目をギュッと
(大変だわ、早く助けないと……! あの手からいつ力が抜けてしまうかわからない)
クロードも同じことを考えたのだろう。表情には動揺が
「クレア、大丈夫だ、落ち着け。今助けに行くから──……」
しかし、クレアは手を伸ばせば届く距離にいるのではない。現実的には
それを見たエルは、迷わず大木に登り始めた。
「おい! 何をしている!?」
エルの行動に気付いたクロードが声を上げるが、エルは構わず木をよじ登る。
「助けを待つより、私が行く方が早いです。任せてください」
「何言って──……、無茶だ! 降りてこい!」
「この通り小柄なので、大丈夫ですよ」
大の男が登れば危険だが、エルの体重ならギリギリ持ち堪えてくれそうだ。モタモタしていたら逆に危ない、とするする登っていく。あっという間に手摺りのすぐ側まで辿り着いたエルは、しなる枝の上を
(──よし!)
手摺りを伝い、クレアに近付いていく。彼女は
エルの視線に気付いたクレアが、弱々しい声を発した。
「そ、それ……」
(もしかして、これを取ろうとしてバルコニーから身を乗り出してしまった……?)
エルはクレアを安心させるように頷き、リボンをそおっと枝から解く。それをポケットに収め、クレアの腕を支えるように摑んだ。
「姫様、もう大丈夫ですよ。私が手を貸しますから、お部屋に戻りましょう」
緊張しすぎて冷え切った腕を引っ張る。手摺りから覗き込む女官の向こうから、ちょうど警備の兵士たちがやって来るのが見えた。
「今から姫様を引っ張り上げるので、そちら側から受け止めてください」
兵士たちが頷き、手を伸ばす。エルは精一杯の力を込めて、左手で手摺りを摑み、右手でクレアを引っ張り上げる。一人で持ち上げるには
(良かった……!)
今度は自分の腕がプルプル震えているが、落ちる前に助けられて良かった。どっと押し寄せる
そうして油断したのがいけなかった。
突然強い風が吹き付け、その
(きゃぁっ!?)
手摺りも離してしまい、そのまま地上に向かって落ちていく。三階に近い高さであることに気付いたが、もう遅い。迫りくる落下の
「………………え?」
「……ひゃあ!?」
飛び
(えっ、な、何……、えぇ!?)
どうやら、落下したエルをクロードが抱き留めてくれたらしいが、さすがに兄弟からもされたことのない体勢に、声が上擦ってしまう。
「す、すみません殿下! お、降りますから、離してくださいっ」
しかし、クロードは黙ってエルを見つめたまま、離そうとしなかった。
「あ、あの……、殿下……?」
「……ああ、悪い」
ようやく解放され、地面に足を付けたエルは、やっとのこと深く息を吐き出した。クロードはまだエルをじっと見ている。
「あの、助かりました。ありがとうございます……」
「礼を言うのは俺の方だ。助かった」
「い、いえそんな……」
しかしエルは、見上げたクロードの顔を見て、言葉を失ってしまった。
抱きかかえられた上に初めて礼を言われたことよりも、衝撃的な光景を目にしたからだ。
(お、
妹が無事だったことへの安堵がそれほど大きかったのか、クロードはいつもは冷たい印象を与える
それは、エルが初めて目にするクロードの姿だった。
「確かにあの木を登るのはお前でなければ駄目だったろう。お前がいてくれて助かった」
「そ、そんな、
柔らかい表情のままそんなことを言われ、エルの胸がドクンと大きく鳴った。
(え? こ、これは何?)
ドクンドクン、と
「お前についての見解を、今後は改めることにする。──ありがとう」
向けられた瞳に宿るのは、いつもとは違う温かな光だった。
「……こ、こちらこそ、ありがとう……ございます……」
嬉しいことを言われているはずなのに、声が
(こんな顔もなさるなんて……ずるいわ)
月夜に照らされたクロードの優しい表情は、エルの胸に強く強く焼き付いたのだった。
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