第一章 国を賭けた逃走劇の始まり

リトリア王国の現王家でゆいいつの王女、エルセリーヌ・フォン・リトリアの一日は、兄弟たちとの交流に始まり、兄弟たちとの交流に終わる。

 生まれてから十六年間、毎日そうやって過ごしてきた。それがエルの日常だった。

 そしてもちろん、その日もいつもと変わらない一日が始まろうとしていた。

「エル~! 私のわいい可愛いエルセリーヌ~!」

 とびらが大きく開くと共に部屋に入ってきたのは、エルの一番上の兄王子、アルバート。かれは、エルより少し落ち着いた色のきんぱつさつそうとなびかせてり、エルのほおに口付けをした。

「おはよう、私のエル!」

「おはようございます。アルバートお兄様」

「ああ、今日も変わらず愛らしいな! ピンクのドレスも、長くて美しい金髪をかざかみ飾りも、どれもかんぺきに似合っている! さ、その可愛い顔を、もっとこの兄に見せておくれ」

 なおにニッコリと笑うと、アルバートはまゆじりを下げてがんした。

「くぅ~! 朝一でこの天使のがおを見ることが出来るなんて、今日も私は幸せだ……!」

「もう、お兄様ったら。おおですよ」

「うむ、困ったような顔も可愛い! たった一人のいとおしい妹よ。私はお前の兄として生まれついたことに、今日も一日感謝のいのりをささげるとしよう……!」

 アルバートはエルをきしめ、ほおりをする。としごろむすめにするには子どもっぽいが、あふれる愛情ゆえのものだとわかっているし、兄がうれしいとエルも嬉しいので気にしていない。

「私の方こそ、お兄様の妹として生まれついたことに、毎日感謝しています。こんなに大切にしてくださって、エルセリーヌはリトリア王国一の幸せ者です」

「エル……! そんなまぶしい笑顔で殺し文句を言うなんて……! よし、今のお前の言葉は、『アルバートお兄様と愛しいエルのメモリアル・二百十七巻』に記しておこう……!」

 かんきわまってなみだぐみ、さらに激しく頰擦りする長男の背中を、やさしくでる。なんとかメモリアルとは、どうやら日記のことらしい。一度も見せてもらったことはないけれど。

「さて、今朝はこれをプレゼントだ。お前のその美しい金髪にえるだろうと思ってね」

「わあ、れいしんのリボン! ありがとうございます、お兄様」

「そうやって全力で喜んでくれる私のエルは本当に可愛い! 私は本当に──……」

 しかし、アルバートのかんさけびは、新たに入室してきた男にさえぎられた。

「ちょっと、何してるんですか、アルバート兄上!」

 入って来るなりエルからアルバートを引っぺがしたのは、二番目の兄王子フェンリルだ。

「まったく、ちょっと目をはなすとけ駆けするんだから……。ああ、おはよう、エル」

「おはようございます、フェンリルお兄様」

 眼鏡のおくから厳しそうな目でアルバートをにらんでいたフェンリルは、エルに目をめると優しくほほんだ。

「ふむ。ついさっきまで、どうやったらアルバート兄上をそこの窓から投げ捨てられるかなと考えていたが、お前の花のごとき笑顔を見たらいかりが収まったよ」

「フェンリル!? お前、お兄様に対して何てことをしようとしているんだ!?」

 さわぐアルバートよりも、エルの顔色の方がさぁっとあおめた。

「フェ、フェンリルお兄様! そんなおそろしいことをおつしやらないで……!」

「はは、じようだんだよ。それを実行してしまったら、愛するお前にきらわれてしまうからね」

「……もう。お兄様ったら、冗談にしてもあくしゆすぎますよ」

 いつしゆん本気にしかけてしまったが、次男の答えにエルはあんめ息をいた。「嫌われないならやるつもりなのか!?」というアルバートのぼやきは聞こえなかった。

「フェンリル兄上……、エルはこんなにじゆんすいなんだから、おびえさせちゃだよ……」

 その声と共に入室してきたのは、黒髪の少年だ。

「まあ、ジョシュラン。おはよう」

「おはよう……エル……。今日も大好き……」

 ねむそうにまぶたこすりながらはにかむこの少年は、唯一の弟である末の王子だ。

「ありがとう、私も大好きよ。それにしても、またてつで読書をしていたの?」

「うん……、だから、まだ眠くて……。エル、抱きまくらになって……」

 言いながら抱きしめてくる弟の背中を、よしよしと撫でてあげる。

「いいわよ。ちょっとだけね」

「よくな──────い!!」

 アルバートが叫び、引き離されたジョシュランがこうそくされる。

「これだから末っ子は……! 可愛くあまえたらいいと思って、タチが悪い!」

「ちっ……」

 ジョシュランの舌打ちが聞こえなかったエルは、めにされた弟が心配であわてた。

「ア、アルバートお兄様、乱暴しないでくださいな」

「ああエル、かんちがいしないでおくれ。私はお前を守るためにこうしているのだ。そう、私は世界中のあらゆる外敵からお前を守ってみせるし、たとえお前が姿形を変えてかへ行ってしまっても、すぐに見つけ出してやれるくらいには──……」

 熱弁しながら身体からだを拘束し続けるちようけいの足を、末っ子が思いっきりみつけた。「ギャッ」という声と共にジョシュランは解放されたが、エルはそのやり取りには気付かなかった。

「さ、やかましい兄上は置いといて、今日も始めようか。エル」

 フェンリルにうながされ、アルバートを気にしながらもエルはテーブルに着く。

「さて、古代語学習のしんちよくじようきようを聞こうか」

「はい。お兄様にお借りした本は昨日全て読み終わりました。は頭に入っております」

「さすがだ、エル! 可愛いだけじゃなく飲みみが早いなんて、なんてすぐれた──……」

「ちょっと、今は私が話してるんですからアルバート兄上はだまっててください。……エル、お前は本当に学習能力の高い子だ。兄として鼻が高いよ」

「本当ですか? 私、こうして毎日来てくださるみんなの期待に、こたえられていますか?」

「もちろんだよ」

 満面のみでうなずく三人の兄弟に、エルは嬉しくなって頰をゆるめる。というのも、エルの元には〝王女のたしなみ〟を学ばせるため、兄弟が朝昼夜の当番制で訪ねて来てくれているのだ。内容は勉学だったり、だんいについてや会話力の向上だったりと、色々だ。

 ちなみに、当番が三部制に分かれている理由は、全員そろうと大所帯になるからだった。

 なぜなら、エルには九人の兄と一人の弟──あわせて十人もの兄弟がいるから。

「えへへ、嬉しいです。私、王女としてお役に立てるよう、もっとがんります!」

「お前はそのままでいいんだよ。こうして当番とかこつけて会いに来──……、いや、いやしてもらうことによって、その分私たちも公務にはげむことが出来るから」

「私なんかでみんなを癒すことが出来るなら、いくらでもご協力します」

 ニッコリと笑うと、兄弟たちはなぜか顔をおおって天をあおいだ。

「うぅ、眩しい……! 私のエルは本当に良い子だなぁ……! 本当に可愛い!」

「ええ。エルが良い子で可愛いということに関しては全力で同意です。……ですが、その『私のエル』っていうのいいかげんやめてもらえませんかね、兄上」

 フェンリルが深呼吸して眼鏡を直しながら、冷静なこわで言った。急に空気が変わる。

「兄上もそろそろ、そんなことを言っていられなくなるでしょう?」

 意味深な言葉に、アルバートはハッと表情を変えた。フェンリルがほくそ笑む。

「いつまでも抜け駆けや自分勝手な行動ばかりするなら、こっちにだって考えがあります」

「フェ、フェンリル、お前……、何を考えている……?」

 何が始まったのかわからないが、長男次男のただならぬ様子に、エルは息をむ。

「アルバート兄上、いいんですね? ここで言ってしまいますよ?」

「ま、待て、やめるんだ、それを言っては──……!」

「母上が昨日、今度のえんだん相手からは絶対にげないように、ときつく仰っていましたよ」

「わ────!! やめろ──────!!」

「縁談!?」

 予想外の言葉が飛び出し、エルはアルバートのうでつかんだ。

「アルバートお兄様、縁談があるのですか? てきだわ、おめでとうございます!」

「ほら────! エルにお祝いされてしまった────!!」

 エルは嬉しくなってはくしゆをしたが、アルバートはもんの表情でうずくまってしまった。

「え? お、お兄様、どうしたのですか?」

「あぁぁ、やめてくれ、おめでとうなんて言わないでくれぇぇぇ……」

 さっぱりわけのわからないエルはこんわくしたが、次男と末っ子は満足げな表情だ。

「うぅ、エルの前でその話はしない決まりだろう! これは重大な規律はんだぞ!」

「日々規律違反ポイントを積み上げている兄上に、文句を言う権利はありませんよ」

 規律違反とは何のことだろう。よくわからないが、それよりも気になることがあった。

「あのぅ、アルバートお兄様は、ごけつこんを望んでいらっしゃらないのですか?」

 結婚、とエルが口にしたしゆんかん、アルバートが「はうっ」と小さなうめき声を発した。

「そんなはずないさ、エル。兄上ともあろうお方が、結婚しないわけにはいかないからね」

「も、もうやめろ、フェンリル。それ以上敵意を示すなら、こちらだってようしやしないぞ」

「どうぞご自由に。どういても、あなたが結婚から逃げ続けられないのは変わりませんよ。──何と言ったって、あなたはこのリトリア王国の現国王なのですから」

 その言葉に、アルバートが開きかけていた口を苦しそうに閉じた。

 フェンリルの言う通りだ。ひと月前、父である先代国王がほうぎよし、王太子だった長男アルバートが新王にそくしたばかりなのである。

「一国を背負う王が、まさかひとり身のままでいられるなんて思っていませんよね?」

 ぐうのも出ないアルバートに、フェンリルがたたける。

「今まではのらりくらりとかわしてこられたようですが、そろそろねんの納め時です。母上もたいへん心配していらっしゃいますし、いいかげん落ち着いていただかないと」

「そ、それを言うならお前たちもだろう! 全員独身のくせに!」

(あれ? そういえば、そうだわ)

 その時エルは、ようやく気付いた。──この兄弟、だれ一人ひとりとして結婚していない。

(ちょ、ちょっと待って。みんな独身だわ。……えぇ!?)

 二十五さいのアルバートから、十二歳のジョシュランまで。みな揃いも揃って独身である。

 なぜ今まで気付かなかったのだろう。兄弟に囲まれるのが当たり前の日々を過ごし、一度も疑問に思わなかった自分におどろいた。

「私はまだいいんですよ、次男ですから」「いいや、お前たちだって責任は同じだ!」などと言い合い始めた兄弟を前に、エルは急にあせりだした。

(王家の人間が誰も結婚していないなんて……よろしくないのでは!?)

 もちろん自分もふくまれているし、弟に関してはまだ気にしなくてもいいかもしれないが、兄たちについては問題があるだろう。とつぐために家を出てしまう王女と、妻をめとり王家をぐ王子たちとでは、責任の重さが全然違う。

「アルバートお兄様、どうして結婚なさらないのです?」

「や、やめてくれエル──! お前の口からその二文字は聞きたくない! お、お兄様が結婚なんてしてしまったら、お前だってさびしいだろう!?」

「それは……、寂しいのはもちろんですが、いつかはするでしょう?」

「ほら、エルもこう言っていますよ。観念してください、兄上」

「もう、アルバートお兄様だけじゃないですよ。みんなもいつかは結婚なさるでしょう?」

 エルがあとの二人にも向き直って言うと、彼らは目を見開き固まった。

「え? ど、どうしたのですか、二人とも」

 すると、ジョシュランが耳をふさいでしゃがみ込み、フェンリルはじゆうの表情になった。

「う、うわぁ……。まさかの、流れだま……」

「くっ……、まさか私たちまでダメージをらうとは、手痛い失態だ……」

「ははは、それ見たことか! みんなして私をおとしいれようとするからだぞ!」

 アルバートがやけくそ気味に笑うが、エルはそれどころではなかった。

「もう、はぐらかさないでください! 本当にどなたもご結婚の予定はないのですか?」

 しびれを切らしてエルが問いめると、急に三人とも静まり返った。真顔でそれぞれ視線をわし合ったかと思うと、一息いてアルバートがエルに向き直った。

「エル、このことは、非常に、とーっても重大かつせんさいな問題なのだ。悪いがこの件に関してだけは、お前の意見を聞くことは出来ない。お前に冷たい態度を取ることしか出来ない非情な兄たちを、どうか許しておくれ。そしてどうか嫌いにならないでほしい」

 至ってしんけんおもちで言われたが、ただ話をらされているだけのような気がする。

「いえ、そんなことで嫌いになったりはしませんが……、お兄様、ちゃんと私の話を」

「わかってくれ。これも全て、お前を大切におもうがゆえなのだ……! はい、というわけでこの話はおしまいにしよう。解散!」

「かいさーん!」

「えぇっ、お兄様!?」

 高らかに告げられた長男による解散の一声で、兄弟たちは風のように去って行った。

 残されたエルは、ただぜんとして立ちくすことしか出来なかった。

(こ、このままにしておいては駄目よね!? だってこれじゃ、跡継ぎがいないことに……)

 それはまずいだろう。今までそのことに思い至らなかった自分にあきれるが、自己けんおちいっている場合ではない。おそらく自分は、いろんな事に気付いていないような気がする。

(そういえば、今度は逃げないように……と言っていたわね)

 ということは、いつも縁談から逃げているということだ。なぜ逃げているのだろう。

 モヤモヤと考え始めた時、女官長が慌ただしくエルの部屋へやって来た。

「ああ、ひめ様! こちらに国王陛下はいらっしゃいますか?」

「アルバートお兄様なら今までここにいたけれど、逃げて行ってしまったの」

「逃げ……!? ああ、王太后陛下から何が何でもお連れするよう言われてますのに……!」

 今にもたおれそうな女官長の背を支え、縁談の話と関係があるのでは、とエルは察した。

「待って、私が行くわ。ちょうど、王太后陛下──お母様に話があったの」

 そうしてエルは、全てを知っているであろう人物の元へ向かった。




「ええ、その通りよ、エル。あの鹿むすたちは、こぞって縁談から逃げ回っているの」

 いらたしげに答えたのは、母である王太后ナタリア。エルを含む十一人の王子王女を産んだ、最強のきさきと呼ばれている人物は、怒りのオーラをしつ室全体に振りいていた。

「やっぱりそうなのですね? でも、どうしてなのですか?」

 ナタリアはエルにちらりと視線をし、深い溜め息を吐いた。

「あなたを何よりも優先しそばにいたいがために、今まで数多あまたの縁談を断り続けてきたのよ」

「えぇっ!?」

 想像もしていなかった理由に、思わずとんきような声が出てしまう。

「あなたも十分わかっているでしょう? あの子らがどれだけあなたにしゆうちやくしてきたかを」

「執着……」

「兄弟の誰かが四六時中べったりしていることに、疑問を感じたことはなくて?」

 言われてみれば、いついかなる時も、エルの側には兄弟の誰かがいた。そしてなにかと構われまくる時間を過ごしてきた。しかし疑問に感じたことはない。

「それは、みんなが私に〝王女としての嗜み〟を教えてくれていたからでは……?」

「それはあの子たちが取って付けた言い分よ。いことを言ってごういんに周囲をなつとくさせたようだけど、単にあの子らがあなたと過ごす時間を作りたかっただけ」

「そうだったのですか!?」

 予想外の真実にしようげきを受けながらも、エルは恐る恐る母に問いかけた。

「もしかして、お兄様方の私に対する愛情表現は……ちょっと度が過ぎるのでしょうか」

「ちょっとどころではなく、異常ね。まったく、あのエルできあい隊ときたら……」

「エ、エル溺愛隊? なんですか、それは」

「息子たちによってあなたを溺愛し守るために結成された、ただのシスコン軍団よ」

「そ、そんなものが……あったのですね……」

 自分は本当に、色々なことを知らなすぎたようだ。いまさらながら、その事実にだつりよくする。

「まあ、最初は目をつぶっていたのだけれど。何せそのちんみような組織が結成されたのは、あなたがゆうかいされかかった事件がほつたんなのだから」

 そういえばそんなことがあった。エルが五歳になってすぐ、不届き者にさらわれそうになったことがあるのだ。だが城から連れ出される前に助けられ、事なきを得たのだった。

「あの時、二十分で犯人確保というスピード解決に導いたのは、アルバートを筆頭にした王子たちだったわ。彼らの恐るべき行動力と完璧な指揮系統は、いまだに伝説となり語り継がれているほどなのよ。そしてそれを機に、『エルのことは自分たちが守る!』と張り切りだして、溺愛隊なんてものをほつそくしてしまったの」

「はぁ……」

「でもいいかげん、あの子たちのわがままを聞いていられる状況ではなくなってきたのよね。特にアルバートに関しては。このままだと国の存続に関わるのだから」

 その言葉に、エルの背中にあせが流れた。

「それは……、アルバートお兄様が、現国王陛下だからですね?」

「そう。それをきつく言ったら、『結婚なんかよりエルを守ることの方が大事なんです!!』などと大馬鹿なことを言って逃げたのよ、あのシスコン息子は……」

「えぇ~~~~~~~……!?」

(お、お兄様、なんてことを……)

 それほど自分を大事に思ってくれているのは嬉しいが、この場合は全く嬉しくない。

「さらに、その発言を城内の一部の者が聞きつけてしまい、大変なことになっていてね」

 妹を溺愛している王子たちのことは皆理解していたが、さすがにその発言は問題であった。それ以降、アルバートを非難する声が、にわかに上がってきてしまったのだという。

「王家が断絶すれば国はれる。しかしそれ以前に、現国王に対する不満が生まれてしまっている。……これはしき事態だわ」

「いけません……そんなこと……」

 エルの身体はいつの間にかふるえていた。生まれ育ったリトリア王国、溢れる愛情で自分を包んできてくれた兄弟たち。どちらもエルにとって、かけがえのない大切なものだ。

 けれどそれが今、くずれようとしている。

(……私が……いるから?)

 そうだ。兄弟たちの結婚をじやしているのは、他でもないエル自身なのだ。エルが意図したことではなくても、結果的にそうなってしまっているのだ。

「私……、ここにいてはいけませんね」

 ポツリとつぶやいた言葉に、ナタリアが目をしばたかせた。

「私は一度、お兄様たちから離れなくてはいけません。私がいると、みんなずっとこのままでしょうから。どこか遠く……お兄様たちから離れた場所へ行かないと」

「……彼らから身をかくし、結婚するように考えを改めさせよう、と?」

 真剣に頷くエルを、ナタリアははんしんはんな表情で見つめた。

「はい。私のせいで国が荒れることも、みんなが悪く言われるのもえられません」

「でも、なまはんな隠れ方ではすぐに見つかってしまうでしょうね」

 母の言う通りだ。せめて長男が結婚に前向きになってくれるまで、しんせきの家にかくまってもらう程度のことを考えていたが、誘拐事件の時のことを思うとそれは難しそうだ。

(絶対に私だと見つからないようにするには……どうしたら?)

 二人して黙り、しばし考え込む。

(みんなの行動原理は、私を守ろうとしてくれていることにあるのよね。……なら、守られる存在じゃなくなればいいのかしら)

 助けてもらうばかりのかよわい王女ではなく、自分で自分の身を守れるような存在なら。

 そこまで考え、とつぜんエルののうにあることがひらめいた

「そうだわ! お母様、私、全くの別人に……。──そう、男の人になります!」

「……は?」

 きよかれたような母に、エルはこれぞ名案、といった様子で身を乗り出す。

「私がすべき王女ではなくなったら、上手く隠れられるのではないでしょうか。……そうと決まったらゆっくりしていられないわ。お母様、失礼いたします!」

 何か言おうとしていた母に背を向け、エルはそのまま急いで退室し、自室に駆け込んだ。そしてきようだいの前に行き、引き出しの中のはさみを取り出す。

(この国もお兄様たちも、大切な存在なの。私のせいで駄目にさせるわけにはいかない)

 ほとんど勢いで飛び出したが、これはエルの中でゆずれないことなのだ。後には退けない。

(今までたくさん愛され、守られてきたんだもの。なら私だって、私に出来るやり方で国とお兄様たちを守りたい)

 迷いはなかった。こしの下までびた見事な金髪をにぎりしめ、兄弟がことさらでてくれていたその髪に、勢いよく鋏を入れる。

 一息吐き、かくを決めて顔を上げた鏡には、肩先までの金髪で見つめ返す自分がいた。

(しばしのお別れよ。エルセリーヌ)

 大好きなみんなのため。エルは、鏡に映る自分に対し、力強く微笑んだ。




 翌日の昼、エルはりんごくオリベールにいた。

 髪を切った後、エルは再び母の元を訪ねたのだが、その姿を見て母はエルの本気の覚悟を受け取ってくれたようだった。そうして提案してくれたのが、男子としてオリベールにいるのコーディーの元に身を寄せる、という計画だった。

 コーディーは、現在オリベールの王城で団長の任にいている人物だ。だが元々はエルが幼い頃、リトリアの王城にしゆつしており、しん術のいつかんとして基礎的な武術やけんじゆつを教えてくれた、エルのしようでもある。彼の父がオリベール出身だったため、エルが十二歳の時にオリベールに移ってしまって以来会っていないが、外部の人と接してこなかったエルにとっては、兄弟以外で唯一たよれる存在といってもいい。

「ここが、オリベールの王都……」

 王都まで乗せてくれた荷馬車を降りたエルは、初めて踏むオリベールの土に少々興奮しながらも、しんに思われないようひかえめに周囲を見回した。人生初の国外の空気にきんちようもするが、不安になっている場合ではない。とうぼう生活をやりげなければならないのだから。

(さすが、大陸一の歴史をほこる大国オリベール。活気に溢れているわね)

 王城の城下にあたるこの町は、立派な石造りの家や店、行き交う人々でにぎわっている。リトリアにいた時は町を歩くことなどなかったので、市民がたくさんいる光景を目にするのはとてもしんせんだった。それも、外に出ることを兄に許されなかったからなのだが。

きんしんかもしれないけれど、ちょっとワクワクもしているわ。一人で行動するのって初めてだもの。……でも、まずはコーディーを訪ねなくちゃ。騎士団がいる王城に行って、お母様が用意してくれたこの書状をわたして、〝エルヴィン〟と名乗ればいいのよね)

 男装して逃亡するにあたり、とおえんの男子の名前を借りることになった。それが〝エルヴィン・アースト〟。リトリア王国で王家に連なるはくしやく位を持つ家の、同い年の少年の名だ。

(ゆっくりしている暇はないわ。早く行きま──……)

 歩き出そうとした時、ドン、と誰かがぶつかってきた。

「ご、ごめんなさい!」

「いえ、すみません……。ちょっとまいがしてしまって……」

 ぶつかってきた男性は、そのまましゃがみ込んでしまった。よく見ると、顔色がとても悪い。心配になったエルもいつしよにしゃがみ、背中をさすってあげる。

だいじようですか? 手を貸しますから、そこのベンチに横になった方がいいのでは……」

「あ、ありがとうございます……」

 よろよろと立ち上がる男性に手を差し出す。しかし次の瞬間、思いがけない力でき飛ばされ、地面にしりもちをついてしまった。

「いたた……」

 何が起きたのかわからずに見上げると、ついさっきまで具合が悪そうにしていた男がニヤリと笑い、エルを見下ろしていた。そして、その手に自分が持っていたはずのバッグが握りしめられていることに気付く。

「えっ、それ私の……」

 エルが呟くと同時に、男は背を向けて駆け出した。

(えぇっ!? うそでしょう!?)

 行商人のおじさんにされた、スリの話を思い出す。まさか本当にスリにってしまうなんて──そう思いながら、慌ててエルは立ち上がった。

「待って……!」

 あのバッグの中には、母が渡してくれた大事な書状があるのだ。エルは必死に追いかけるが、男女のきやくりよくの差は大きく、あっという間にきよを離されてしまう。

(あぁもう、もっと体力をつけておくんだった……!)

 路地裏に入り込み、足がもつれて転びそうになったその時、何者かの腕が伸びてきてエルの腰を支えた。

「えっ……」

 エルを力強く支えてくれたのは、見知らぬ青年だった。

「ここで待っていろ」

 青年は短くそう言い残し、スリの男を追って行った。困惑したままその後ろ姿をながめていると、青年はすぐに男に追いついた。追い詰められた男がナイフを取り出していこうしようとしたが、青年はさやに納めたままのけんで受け止め、流れるような動作で受け流す。そしてつかの先で腹を打ち、いちげきで仕留めて男をせてしまった。

(あ、あざやか……!)

 あっという間にロープで手足をしばる、そのぎわの良さに思わずれてしまった。しかし我に返り、エルも慌てて二人の元へ近寄った。

「あ、あの、助かりました。ありがとうございます」

 顔を上げた青年と目が合う。りんとしたおもしの、目を引くような美青年だった。

(わぁ……、むらさきがかった綺麗な黒い髪。それにひとみは、私の青さとは対照的な深い海の色)

 色の瞳をまじまじと見つめているエルに、青年がバッグを手渡してくれた。

「ちゃんと中身が全部あるか、一応見ておけよ」

「はい! あの、よろしければ、何かお礼をさせてください」

「そんなの気にしなくていい。おれは仕事をしただけだ」

 青年はぶっきらぼうに答えながらも、「は?」と問うてきた。エルが首を振ると、そのまま犯人を引き起こす。その時どこからか、「お~い」と気の抜けるような声が聞こえてきた。青年が「おそい」と呟きながら顔を向けた先を、エルも振り向く。

「あー良かった。急に走り出すからどこへ行ったのかと……。おや、もしかして例のスリをつかまえたんですか?」

 聞き覚えのある声に、まさか、とエルは目をかがやかせた。

「コーディー!!」

「えっ? ……あー! エル!?」

 探していた従兄弟の姿に、エルは喜びもあらわに駆け寄る。四年ぶりだが、にゆうな微笑みも緩く結ばれた肩下までのちやぱつもちっとも変わっていない、見慣れた姿がそこにあった。

「おっどろいたなー、まさかこんなところで会うなんて」

「会えて良かった、コーディー。お久しぶり!」

「いやー、聞いてはいたが……そうか、本当に来たのか……。うん、久しぶりだな、エル」

 長かった金髪を知っているコーディーは、かんがい深そうにエルを上から下まで眺めた。

「……おい、コーディー。お前の知り合いなのか?」

 その時、背後から青年の低い声が聞こえた。振り向くと、彼はさきほどの態度から一変し、けんしわを寄せてエルを見つめていた。いや、睨んでるといった方が正しいかもしれない。

(いけない、ついコーディーに気を取られてしまったわ。恩人に失礼なことを)

 そのせいでおこらせてしまったのかと思ったエルは、ていねいに頭を下げた。

「失礼いたしました。私はコーディーの親戚であるアースト伯爵家ちやくなんの、エルヴィンと申します。先程は助けていただき、本当にありがとうございました」

「……伯爵……」

 何度も心の中で練習したあいさつを告げると、青年はなぜか一段と低い声で呟いた。

「先程の剣さばきでコーディーのお知り合いということは、騎士団の方なのでしょうか?」

「……お前、嫡男と言ったか? 男なのか?」

 エルの質問には答えずに、青年は疑わしげにエルを見て言った。それだけでなく、やはりどうにもげんが悪そうだった。

(どうしましょう、怒らせてしまった上に疑われている……!)

 睨まれていることよりも疑いのまなしを向けられている方が心配になり、エルは言葉を詰まらせた。男装している事情を知っているコーディーが、見かねて間に入ろうとする。

「あー、そう、そうなんですよ。男には一見見えないですが、れっきとした男です。うん、一応。──それからエル、こちらは確かに騎士団の団員だが、ただの騎士じゃないんだ。このオリベール王国の王太子、クロード・ゼス・オリベール殿でんでいらっしゃる」

「えぇっ!」

 隣国オリベールの王子のことは、もちろん知っている。外交で他国の王族と対面する機会がなかったため、会うのは初めてなのだが。

 よく見てみると、彼が着用しているのは、コーディーが着ている騎士団の団服であろう服装とは違った。動きやすいようにデザインされているようだが、質のそうしよくで作られており、確かに王子の正装といった風だ。それに何より、当人から発せられるオーラに、じようじんにはない気品がただよっていた。同時に、不機嫌そうなよどんだ空気も感じるが。

「そうだったのですね。王太子殿下とは知らず、失礼いたしました」

 改めて頭を下げるが、クロードはエルをひと睨みして顔をそむけてしまった。最初は特に何も感じなかったが、今はすごくけいかい心をき出しにされているように感じる。

(名乗ってから様子がおかしいわ。何がいけなかったのかしら……)

 自分が気分を害させてしまったのかと反省し、エルはクロードの前に進み出た。

「……あのっ、王太子殿下でありながら騎士としての務めも果たされているなんて、らしいお心構えですね!」

「……は?」

 空気を変えようとしたら、とつに思ったことが口から出た。何のみやくらくもなかったからか、クロードは睨むというより、今度はげんそうにエルを見つめる。

「ちょうど自分のり方について考える機会があったばかりなので、殿下の姿勢はとても尊敬します。王子と騎士のけんなんて、強い意志がないと出来ないことでしょうから」

「……何だ、いきなり」

「えっと、つまり、私もあなたのように立派な志を持って生きたいと思ったのです」

「なぜそんなそうだいな話になっている」

「殿下のお志は素敵だと思ったからです!」

「おい、近い! 一体何なんだお前は!」

「あ、すみません。気持ちが高ぶってしまいまして」

 その時、コーディーがき出した。それをクロードがギロリと睨み付ける。

「くっ、ふふ……。いやー、すみません。コントみたいで、つい。エル、気にしなくていいぞ。殿下は初対面の相手には、たいていこんな風に不機嫌だから。特に貴族──……」

「余計なことをしやべるな、コーディー」

 クロードは再び不機嫌なオーラをまとい、エルたちに背を向けた。

「付き合ってられない。俺は先にもどるから、後はお前が処理しておけ」

 エルが呼び止める間もなく、クロードはスタスタと立ち去ってしまう。となりでコーディーが、なぜかたのしそうにニンマリしていた。

「コーディー?」

「なるほど、こいつはなかなかあいしようが……、ふむ」

 そしてコーディーは、クロードの背中に向かって呼びかけた。

「殿下─! こいつ、今日から騎士団に入団することになってるんですが、せっかくなんで殿下のそばきとして置いてやってもらえませんかね?」

(え!? ……な、何言ってるの────!?)

 突然のななめ上からの発言に、エルは叫びを飲み込み、小声で必死にうつたえかけた。

「コ、コーディー、そんな話聞いてないわ。どうして私が騎士団に入ることに!?」

「今決めた。良い案じゃないか? 王太后様の話によると、兄上たちから逃げてきたんだろう? まさか可愛い妹姫が男所帯の騎士団にいるなんて思わないだろうし、隠れるにはうってつけじゃないかね。ほら、せっかくそうやって男の格好してるわけだし」

「それは……そうかもしれないけどっ、でもそんな……」

 しかし、コーディーの言うことには一理あった。確かに、隠れ先としては理想の場所かもしれない。そこまでてつていすれば、絶対に兄弟からは見つからないような気がする。

 思考を追いつかせようと考えをめぐらせていると、クロードがするどい眼光を向けながら戻って来た。とりあえずさっきよりも機嫌が悪そうなのが、エルにも伝わってくる。

「……今何と言った? 俺の聞き間違いでなければ、そのチビを側に置けと聞こえたが」

(チ、チビ……? まぁでも、そうよね……)

 暴言に怒るどころか、その通りだとエルは思った。どう見ても騎士団にいそうなタイプではない。コーディーの提案には無理がありすぎるのではないだろうか。だがコーディーは、クロードの負のオーラなど気にもせずにカラリと笑う。

「ええ、言いました。一応これでも俺の大事な親戚なんですよ。あなたの側にいれば目にも付きやすいし、なんとなく安心するかなーと思いまして」

「ふざけるな。俺は子どものお守りなんてごめんだ」

 クロードの周りに冷気が立ち込め始めているような気がした。とにかく怒っている。

「こんな頼りなさそうなやつが騎士団に入団だと? 簡単にスリに遭うような、注意力のさんまんしているやつが? そんなやつがいたって何の役にも立たないだろう」

 エルを上から見下ろし、クロードは言い捨てる。エルはしゅんとうなれた。

「そ、それは仰る通りですね。おずかしい限りです」

 素直にあやまられるとは思わなかったらしい。クロードは勢いをがれたのか、次なるとうの言葉を飲み込んだ。

「まぁそうつんけんせずに。ここは一つ、オリベール王国騎士団団長、コーディー・ライソンたってのたのみを聞いてもらえませんかね」

「……お前がその改まった口調と締まりのない顔で何か提案してくる時は、ろくでもないことをたくらんでる時だと俺は知っている」

「あはは、嫌だなぁ殿下ってば! わかってるんだったらわざわざ突っかかってこなくてもいいじゃないですか」

(認めるのね!?)

 なんとも軽いノリの従兄弟の返しに、エルは心の中でツッコミを入れた。

「少しは否定しろ。俺は断固きよする」

「そう言わずに。ほら、エルだって殿下の剣捌きを見ただろ? この方の側にいたら、色々と学べると思うぞ」

 そう言われ、エルは必死に脳内で状況を整理する。

(予想外の展開になってしまったけれど、コーディーの言う通り、騎士団に入団というのは良い方法ではあるのよね。自分の身を守るすべも身に付きそうだし……そうよ、何が何でもやり遂げるって決めて来たのだから、やるからには徹底していどまないと……!)

 覚悟を決め、睨みをかせたままのクロードをえる。

「はい! 私は、守るべきもののために、騎士としてお努めしたいと思っております。なので、お側で色々と学ばせてください!」

「いや、だから俺は……」

「よく言った! 騎士団長の俺が許しちゃうから、お前も今日からオリベールの騎士だ!」

「やったぁ! ありがとう、コーディー!」

「俺は許してない!」

 クロードの訴えは、スリの男を引っ立てて鼻歌交じりに歩き出したコーディーには届かなかった。クロードはしばらく文句を言い続けていたが、コーディーの強い意志を曲げることは不可能だと思ったのか、最後にせいだいに舌打ちをして後ろを歩き出した。

「あの、これからよろしくお願いします。クロード殿下」

 エルは親しみを込めた笑顔を向けたが、返ってきたのはやはりぶつちようづらだった。

「………………」

 無言の睨みの中に、彼のどんな想いが秘められていたのかわからない。かんげいの意が込められていないことは、確かだっただろうけれど。

 かくしてエルの逃亡生活は、不機嫌そうな王子との出会いと共に、幕を開けたのだった。

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