ヤモリ

千木束 文万

ヤモリ

私は今、悲哀の泉に沈んでいる。


――――遡ること数分前。

 私は机に頬杖をつきながら、ぼうっとしていた。

 しみじみと、静謐せいひつなる夜を感じていたのである。

 しばらくそうしていたら、飼い猫がしきりにミャアミャア鳴き始めた。

 定位置である棚の上への往路に、いつも以上に物が散乱しているらしく、通らせろとわめいているようだ。

 猫という種族は、どうも高地が好きなようである。いや、私の愛のスキンシップもふもふから逃れる為であろうか。


 私はおもむろに腰を上げて机から離れ、我が猫わ こを棚に持ち上げると、毛皮を通して暖かみを感じた。

 「こんな平穏な日常が永劫続けばなぁ」等と思い、再び机へと歩を進める。


――――不意に、足の指に何か柔らかいものが当たった。

 それと同時に、「キュウゥ!!」という音がした。


 何だろう、と思って靴下を見てみると、布地に赤い染みが、ぬらぬらと付着していた。そして後ろを見てみると、そこには下半身を潰されたヤモリがいた。


 後ろ足はあらぬ方向へと曲がり、体は出血で黒ずみ、下半身はおやゆびの形に歪んでいた。


 そこで、今の音はヤモリが鳴いた音なのだとわかった。

 その小さな体から発せられたとは思えない程大きな声。赤子の夜泣きの瞬間を切り取ったような、苦痛に満ちた声だった。

 体が圧迫され、急激に空気が押し出されて、肺に溜め込んでいたものが一気に鳴き声として吐き出されたのだろう。膨らんだ風船を押しつぶしたようなものだ。


 まだ生きてはいるが、それは断末魔と言っても過言ではなかった。

 たった今、私は右足の親指でヤモリの下半身を潰した、という現実が、悲しみや罪悪感と共に頭の中をぐるぐるした。

 ヤモリを拾い上げると、そいつは上を向きながら口を開け、声にならない声をあげた。それでいて瞳はつぶらだ。

「やめてくれ、そんな目で私を見ないでくれ!」と、思わず叫びたくなる。


 ・・・・・・せめて、自然の中に葬ってあげよう。


 私は、水を掬うような形にして手中にヤモリを入れ、庭に向かった。


 庭は植物が生い茂り、小さな密林のようになっている。このヤモリも、恐らくここの出であろう。還るとしたら、ここしかない。


 私は庭の中央に立ち、手を開ける。


 何秒経っただろうか。悠久にも、須臾しゅゆにも感じられる時が過ぎ、私は再びぼうっとしていた。

   

――――ぽちょっ



 水の音がした。



 いつのまにか、手中にいたヤモリは消えていた。


 代わりに私の手には、雫が滴っていた。



 そうか、彼は泉に落ちたのだ。黄色の泉に。

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ヤモリ 千木束 文万 @amaju

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