第一章8 『亀裂②』
――その日の夜。
淡い色が広がる暖かな空間に立ち、昔懐かしの記憶が蘇る。
そこに現れるはいつも、大好きな彼の姿。
『華聯』
純粋無垢に名を呼んでくれている。
『華聯?』
首を傾げて、こちらの様子を窺っている。
『華聯!』
頬を膨らまして、ちょっぴりお怒りの表情。
――そして、
『華聯……』
途端に見せる、悲しげな顔。
「ん……」
今まで見た、たくさんの彼との思い出が溢れ出す。
だから何度も、言ってあげたくなる。
『大丈夫だよ』、って――。
「ふえ……?」
ふとした瞬間、視界に映る天井。
幼い頃から慣れ親しんだ光景と、身体を包むベッドの温もりで、今見たモノが夢だったのだとわかる。
「トイレ……」
起きた理由を実感し、寝ぼけ眼ながらにベッドから出ると、部屋の戸を開ける。
広い廊下を歩いていくと、父の部屋の灯りがついていることに気づく。
「パパ……?」
閉まり切っていないドアの隙間。
こんな遅くまで何をしているのだろうと、中を覗く。
受話器に耳を当てていることから、誰かと電話しているのだと理解する。
邪魔してはいけないと、離れようとした時だった。
「待ってくださいっ」
聞いたことのない、取り乱すような父の声に耳は傾き、動きを止める。
「こっちは被害者ですよ!?どうしてそんな決断になるんですかっ」
平然を装いつつ、それでも見える動揺の念。
慌てふためくとまではいかない父の姿に釘付けになる。
『上層部の決定だ。覆ることはない』
相手が誰なのかはわからない。
漏れ出る男の声はどこかで聞いたことのあるようで思い出せず。
ただ事ではないことだけは見て取れた。
「羽亮は人間です!決して、フェザーなんかじゃ……」
「ぇ……」
父の言葉に唖然とする。
あり得るはずのないことに思考が停止する。
――羽亮が、フェザー……?
『君が元研究員なのは知っている。だがそれとこれとは別の話だ』
「ですがっ」
『もう一度言う。魅剣羽亮はフェザーとし、明朝身柄を確保する』
「待ってください、校長!」
張り上げた声は、物静かな部屋に響き渡り、電話は切れる。
飲み込めない状況に頭の中に嫌な事ばかり浮かんでくる。
このままでは、魅剣羽亮は危険因子として殺される。
「どうして……」
家族を失い、ようやく笑顔を取り戻し、心は悲しみにくれたまま。
そこに今度は国からの敵対視。
居場所すら与えない世界に憤りを覚える。
「―――」
決意を胸に急ぎ足で部屋へと戻る。
赤黒いフリルの戦闘用ドレスを身に纏い、革のロングブーツを履いて、鏡の前で誓いを立てる。
「待っててね、羽亮……」
準備を整え、窓から飛び降り、森から羽亮の下を目指し、駆け出す。
警備に見つからぬよう走りながら、再度、彼への想いを口にする。
「私が、守ってあげるから……っ」
息を切らし、街へと出る頃。
闇夜が徐々に明るくなりつつあることに気づいた。
――急がなきゃ……っ!
息を切らし、今までにないほど全力で足を動かし、脇腹が痛くなる。
視界に映る、彼が一人暮らしをしているという2階建ての家。
家の前まで来ると呼吸を整える。
「まだ、兵は来てないみたいね……」
もうすぐ朝日が昇ろうとする寸前、ドアノブへと手を掛ける。
「あれ……?」
握った瞬間、ドアが開いていることに嫌な予感が働く。
そのため急いで中へと入るのだが、しんとした暗闇がより一層胸をざわつかせた。
今は深夜。
誰もが眠りに落ちている時間帯。
故に静かで当たり前なのだと、自分を落ち着かせるための理由を並べて、2階へと続く階段を昇って行った。
「羽亮……」
彼の自室の前で不安を押し殺しながら、起こさないようにゆっくりと戸を開ける。
鬼気迫った状況に心臓はうるさく脈を打ち、緊張で手汗が酷い。
それでも大事な人だからと、部屋の中に踏み入った。
「へ……?」
暗がりに包まれたベッドには、人の姿はなく。
それどころか、綺麗に掛け布団が敷かれている。
トイレに行っているというわけでもなく、ただそこに誰もいなかったかのような。
そんな虚空が広がっていた。
「羽亮、どこ……」
もう連れていかれたのではないかと思うも、まだ家のどこかにいる可能性を求め、階段を降りる。
「こんな時にどこに行ったのよ……っ!」
焦燥感に駆られながら、キッチンやお風呂場を覗き、リビングへと戻る。
家中、隈なく探してみても、羽亮の姿が見当たらない。
刻一刻と時間が過ぎていき、もう朝日が見え始めている。
「羽亮……」
このままでは彼が危険にさらされる。
何もできずに終わってしまう。
泣き出しそうになった時、テーブルの上の書置きが目に入る。
「―――」
長いようで短い文章に目を通すと、自然と家を飛び出していた。
街中を疾走し、脳裏には手紙の内容が一節ずつ副読される。
『拝啓 花園華聯 様』
息を切らし、聞こえるはずのない彼の声が呼びかける。
思い出に仕舞われた、今にも消えそうなその声に頭はいっぱいだった。
『この手紙を読んでいるのはきっと、華聯だと思います』
広い街中を掛け釣り周り、あらゆるところに視線を配る。
まるでカウントダウンをしているかのように自分の中の彼が言葉を綴っていく。
『華聯には感謝しかありません。孤独に押し潰されそうだった俺を拾ってくれて。たくさんたくさん、愛情を注いでくれて』
感謝しているくせに感謝されている気がしない。
まだまだ彼の傍にいたいのに。
こっちの気持ちも知りもしないで、彼は容赦なく言葉を送る。
『正直、平民の俺をこんなにも溺愛してくれる貴族がいるなんて、思ってもみませんでした。本当に貴族なのかなって、疑った時もありました』
過去を掘り返し、昔の記憶が呼び起こされる。
初めて出逢ったときのこと。
花園家の豪邸を目に何度も瞬きを繰り返している彼が可愛かった。
無口で不愛想かと思えば、笑顔がとても煌めいていて。
ある日、芝生の庭で何をしているのかと思えば、日課だと言って剣を振る。
華奢な体つきなのに男らしくて。
またある日には、学院に入るために父と共に勉強会を開いたりもして。
魔法のセンスもあって。
父に頼まれて裏山に潜む魔物に剣一本で対峙して、差し入れを持って行ったとき、ちょうどそれを眺めることができて。
たった一筋の剣裁きに魅了された。
剣を振るう彼の横顔があまりにも凛々しくて。
一瞬で、虜になった。
たった2年の付き合いなのに。
ずっと昔から一緒にいたような感覚になる。
それほどまでに彼の存在が大きく、自分の中に居座っている。
『いつしか、華聯が傍にいるのが、当たり前のように感じられていた』
それは私もだと、大いに共感できる。
『家を飛び出した理由も、そこにあるんです』
「―――」
『華聯が、あまりにも魅力的すぎるから。一人の女の子として見てしまいそうになるから』
意識していた。
それが嬉しすぎて、顔が赤くなるのを感じる。
意識してもらえるように振舞っていて、意識してもらえているかは疑心暗鬼で。
無駄ではなかったのだと思うと、頬が緩んでしまう。
『家族なのに。貴族なのに』
世間体を気にするあたり、彼らしいと心底思う。
花園家に汚名を着せぬよう、迷惑を掛けぬよう。
そうやって、逃げる言い訳ばかり並べている。
『俺は華聯の気持ちに気づいていました』
「え……」
唐突に打ち明けられる真実。
思わず声を漏らして、恥ずかしくなる。
『気づいていながら、見て見ぬフリをしていました』
けれどそれも、一瞬で終わる。
どこまでも後ろめたい彼の言動は、淡く今にも消えてしまいそうで。
『華聯なら、きっといい人が見つかるよ』
やめてよと、心の中で何度も叫ぶ。
ずっと悲しげに苦笑する彼が、徐々に離れていく。
『俺なんかとじゃ、釣り合わないから』
行ってほしくないところに、手の届かないところに。
『華聯』
こんなにも名前で呼んでくれているのに。
これほどまでに悲しく聞こえるなんて。
『俺を拾ってくれてありがとう』
行かないで。
『たくさんたくさん、愛情をくれてありがとう』
もっと一緒にいたい。
『先生にもお礼を言っといてください。月島や如月にもよろしく言っといてください』
そんなの自分で言ってよ。
『お幸せに』
「―――」
それを最後に手紙は、終わりを迎えようとしていた。
だからこそ、終わらせて堪るかと、息を切らしながら走り続けている。
納得いかないだけじゃなく、言いたいことが山ほどある。
すると視界に4人の兵が歩いているのが見えてくる。
直感であれが父の言っていた兵なのだと察する。
しかしその傍に彼の姿はなく。
探している最中なのだとわかり、走る速度を上げ、兵の前に立ち塞がっていた。
「――あなたは確か……花園家のご令嬢」
荒い呼吸を繰り返す中、一人の年配の兵が口を開く。
それに応えるように息を整えるよりも先に口を動かしていた。
「魅剣羽亮を……捉えに来たんですよね?」
「ええ……そうです」
やはりとでも言うべきか。
間に合ったという安堵で、少しばかり気が楽になる。
「それを少し、待ってもらいたいんです」
「何ですと?」
「この件はきっと誤解です。羽亮がフェザーだなんて――」
今でも信じられないこと。
今まで確かに『人』だった。
急に疑いを掛けられるというのは、可笑しいにも程がある。
「お言葉ですが、これは上が決めたことです」
ただそれが現実だと言われているみたいに強行されている。
取れる手段は、限られてくる。
「ならば、私を同伴させてください」
「え?」
「私が彼の真意を確かめます。身内の始末は身内で行わせてください」
覚悟の瞳を持って、訴えかける。
今まで築いてきた花園家の信頼と、誇りを賭けて。
「……同伴するだけならば」
運が味方してくれているのか、僅かながらに光が見えてくる。
彼がフェザーでないことを証明できれば、彼がいなくなることはない。
――なのに、
信じているのに引っ掛かったような違和感が離れないでいた。
「彼の所在ですが……昨日、ここで彼を見たという人がいまして」
視線を向けた先には、見覚えのない骨董品屋のような店がある。
何も不安に思うことなど、ないはずなのに。
また、うるさいくらいに心臓が脈打っていた。
「―――」
店の前に立ち、ドアノブに手を掛ける。
開こうとする寸前、思考にあったのは、先ほど読んだ書置き。
その最後の文章が脳裏を過ぎる。
『P.S. ごめんなさい』
あれは何だったのか。
どうしてあんな書置きを残したのか。
こうなることがわかっていたのか。
もしかしたら、最初から嘘偽りだらけではなかったのか。
ドアを開きながら、迷い戸惑いが渦を巻く。
「……」
暗闇の広がる店内を昇る朝日が照らす。
俯いた視線の先に誰かの影があり、足元に光が届いて。
そこに立つ一人の姿が露になる。
「羽亮……」
呼び掛けた名に反応し、彼はゆっくりと振り向く。
その顔が見えるより先に、やっとのことで会えたせいなのか、抑え込んでいたはずの感情が溢れ出して。
「羽亮は、フェザーなんかじゃ……ないよね?」
疑うまいと、信じていたはずなのに。
守ると誓ったはずなのに。
つくった笑顔は、ぎこちないモノになってしまって。
「―――」
目に映る彼の表情は、まるで自分の顔を鏡で映したみたいに悲しげに微笑んでいて。
それが、酷く胸を抉っていた。
取り返しのつかない裏切りを、してしまっていた――。
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