四章
四章 1
「ワレス隊長が倒れたって?」
どこか遠くで声がする。
「わっ。何してるんだ。クルウ」
「ぬれた服をぬがせているんです。小隊長は破傷風です。このままでは、よけいに熱がひどくなりますから」
「あ、そうか……」
「早く、あたたかくしてさしあげないと」
「破傷風なんて、どうしたらいいんだ。あれは高熱が出て……」
「けいれんを起こし、
「やめてくれ。とりあえず、ベッドに寝かせて……」
「専用の薬が必要です。風邪の熱とは違いますから、ほっといてもよくなりません。しっかりしてください。分隊長」
「ああ、そうだ。おれが、うろたえてるときじゃないな。おれはロンドを呼んでくる。おまえは、クルウ。その……早く隊長に服を着せてさしあげてくれ」
「いいのですか?」
「…………」
走っていく、あわただしい足音。
誰かが、ワレスの肌をなでている。
(誰……?)
ああ、そうだ。
これは、さっき道で会った行きずりの男だ。
「やせっぽちのガキだな」
木賃宿のそまつなベッドの上で、男は言った。
ついさっき、その飢えて死にそうな、やせっぽちのガキを抱いたくせに。
「帰る……」
ふらりと、ワレサは立ちあがり、やぶれて黄ばんだ衣服を身につけた。
薄い長袖一枚では凍えるように寒い日。
今日は南の海岸ぞいのこの地方でも、何十年ぶりに雪が見られそうだ。
「まだいいだろ。もう一回、来いよ」
「だめ。帰らなきゃ」
「そう邪険にするなって」
ひきよせようとする男の手を、ワレサはすんでのところでかわす。
とにかく、空腹で目がまわる。いつもなら、すばやく逃げだすことができたが、今は思うように体が動かない。立ってるのが、やっとだ。
男はそれがわかってるので、あわてない。弱った子猫をいたぶるように、おもしろがるような顔で、ゆっくり近づいてくる。
「……来ないでよ」
「いいだろ。おれ、おまえが気に入ったんだ」
「一回だけって約束だ」
「金がほしいんだろ」
お金は欲しい。
もう三日もろくに食べてない。三日前に近所のおばさんが、あまりもののスープをくれたのが最後だ。
二年前、母が死んでから、おばさんは何くれとなく親切にしてくれた。だが、近ごろは、あまり、かまってくれない。
「ごめんね。ワレサ。これしかあげられなくて。おまえのお父さんと、うちの人。この前、ハデにケンカしたろ? だから、これも、うちの人にはナイショなんだ。バレたら、あたしもぶたれるからさ」
「うん」
「まったく、ひどい父親だね。これじゃ、ジュリオも死にきれないよ。可愛い子どもを二人も遺して」
その可愛い子どもは、最初は四人だった。でも、母が死んでまもなく、一人は売られ、一人は死んだ。
残ったのは、年長のワレサと、末っ子のレディーだけ。
むじゃきに笑うレディー。
愛くるしいレディー。
蜂蜜みたいなレディー。
ワレサのたったひとつ、心のよりどころ。
レディーが死にかけている。三日前のスープを最後に、何も食べてないから。
家にはパンもチーズも、ひとかけらもない。
あるのは、朝から晩まで、あびるように酒を飲む父が作った借金だけ。
以前はよく市場で盗みを働いた。が、ワレサの容姿は目立つので、商人たちに目をつけられてしまった。このごろは、なかなか、うまくいかない。
せめて、ワレサが働くことができればよかったが、幼すぎると言って、どこもとりあってくれない。
なまじ、ユイラが富んだ国なので、幼児を使っていると体裁が悪いのだそうだ。八つになってから来なさいと言われた。
ワレサは今、六つ。もうすぐ誕生日が来たら、七つだ。
あと一年以上ものあいだ、食べていくすべがない。
それは、ワレサとレディーが確実に死ぬということだ。
だから、自分で稼ぐには、これしかなかった。
最初の相手は、石切り場で働く、バリス。バリスは近所で男色家だと陰口をたたかれていた。母が生きていたころは、近づいてはいけないと言われていた。
母が死んで食べ物に困ってたので、誘いにのった。
たしかに、それは、してはいけないことだったのだろう。あるいは、経験するには早すぎた。気絶するくらい痛かったが、でも、ワレサの手のなかに、お金は残った。
バリスはいけない大人なのだろうが、客としては悪くなかった。気前がよく、約束はちゃんと守ってくれた。たまには、よぶんに甘いお菓子をくれることもあった。
ふだんなら、よほどのことがないかぎり、バリス以外の男についていくことはなかった。
でも、そのとき、バリスは石切り場の仕事に行っていて、何日も家に帰ってこなかった。
しかたなく、ワレサは行きずりの相手を探した。
今朝、目がさめたとき、レディーが、ぐったりしていたから。可愛い顔を亡霊のように青ざめさせて。
話しかけると目はあくのだが、口をきく元気がない。
はっきり、わかった。
レディーが死んでしまう——
ダメだ。レディーはまだ三つなんだ。
ぼくの可愛い、たった一人の妹。
君がいなけりゃ、ぼくはこれから、どうやって生きていけばいいの?
あいつになぐられても、罵られても、どんなにヒドイことがあっても耐えてきた。
ヒマワリみたいな、君の笑顔があったから……。
それで、見知らぬ男を誘った。あとくされないよう町の男はさけて、安宿の近くで旅人にお金をせびった。
男はワレサを上から下まで値ぶみして、宿の一室につれこんだ。
自分につけられた法外に安い値段と、そんな小銭で耐えるには、つらすぎる苦痛。
男は帰ろうとするワレサを背後から抱きすくめ、床にひきたおす。
「まだだって言ってるだろ。言うこときかねえと、なぐるぞ」
なぐると聞いて、ワレサはあきらめた。大人の暴力の前では、どうにもしようがない。それはイヤってほど、わかってる。
おとなしくなったワレサを、そのあと、男はずいぶん責めさいなんだ。
やっと自由になって、虫の息で男を見ると、
「なんだよ。さっさと出ていきな。帰りたいんだろ」
しっしっと犬を追いはらうように手をふる。
「お金は?」
「さきに渡したろ」
「これは最初の一回のぶんだ」
「一回ずつ払うなんて誰が言ったよ。さっさと行きな。うるさくすると、なぐるぞ」
「…………」
「なんだよ。その目」
大人は汚い。
大人はウソつきだ。
こんなやつら、みんな死ねばいい。
こうして、ワレサは人間の醜さを学んでいく。ひとつ。またひとつ。
人間が自分より弱い者に対して、どれほど残酷になれるかを。
(でも……これで、レディーを助けられる)
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