四章 2


 どうにか歩いて、家に帰った。

 レディーは生きていた。顔色はろうのようだが、どうにか息をしていた。


 一刻も早く、食べものを買ってきたかった。

 でも、もう動けない。

 ほんの一時でいいから、休みたい……。


 このとき、やわらかい果物でも食べさせていれば、レディーは命をつないでいたかもしれない。


 だが、あいつが帰ってきた。

 あの、悪魔。

 悪魔が戸口に立って、ワレサを見おろしている。


「金があるんなら、出せ」

「いやだ!」

「よこせ!」


 ワレサの頰に痛烈な平手打ち。

 ワレサは床になげだされた。

 こぼれた小銭を悪魔がひろう。


「これだけか」


 舌打ちして出ていこうとする。

 ワレサは悪魔にすがりついた。


「返してよ。レディーが死んじゃうよ。おねがい。返して——父さん!」

「うるさいッ!」


 足げにされて、もう一度、倒れた。


 見あげると、悪魔の目が燃えている。

 鬼火のように青く。

 ワレサと同じ。瞳じたいが光を発するような、青い……。


「おまえが……おまえが、そんな目に生まれてなければ、ジュリオは——」


 をワレサに与えたのは自分のくせに、悪魔はこの目を憎んでいた。

 さんざんワレサをなぐったあと、悪魔は出ていった。


(大人なんて、みんな、死んでしまえばいい……)


 疲労と苦痛のはてに、ワレサは深い闇のなかに落ちていく。


 早く目ざめて、金を稼いで、食べものを……砂糖水でもいい。レディーを……レディーを、助けないと……。


 ああ、でも、おれは知ってる。

 このあと、レディーは死ぬ。おれの幼い妹は死んでしまうのだ。


(いやだ。見たくない。なんだって、こんな夢を見てるんだ? もう一度、あの苦しみを味わえというのか?)


 夢から目ざめたいのだが、意識が混濁している。

 誰かの声が夢のなかに入りこむ。


「苦しいですか? 隊長」


 あれは、誰の声だったろう?


「変じゃないか。熱がさがらないぞ。すぐ効くと言ったろ」


「そりゃ言いましたけど。すぐと言ったって、五分や十分で効くわけじゃないですよ。それにしても、ちょっと遅いですね。いい薬なんですよ。これ」


「でも、現に効いてない。気のせいか、さっきよりひどくなったような。ロンド、ほんとに、あの薬でよかったのか?」


「失礼な。見習いとはいえ、わたくしだって魔術師のです。ほんとに、はしくれですけどね。病気を診るくらいできますよ。まあ、薬が効かないのは体質のせいですね。この人、特異体質みたいだから」


「特異体質……?」


「魔術師でないかたに説明するのは難しいんですが、なんていうか、魔術師むきのめずらしい体をしてるんです。もったいないことです。わたくしがこの体なら、今ごろは世界に名をはせる、だーい魔術師!——に、なってたかも。ああ……もったいない。もったいない」


「……そう言って、隊長のどこをさわってるんだ」

「おほほ。ツバつけとこうかしら」

「……ロンド?」


「そういうわけですので、このかたの体は薬が効きにくいんですよね。お酒、薬、毒などね。

 人間には免疫力ってのがありまして、病気に対抗する力を、もともと誰もが持ってるんですよ。この人はその力が常人より、はるかに強いんです。自分で自分の体を最善にしておく機能がそなわってまして。病気もしないし、ケガなんかもすぐ治る。

 魔術師のなかには、手足を切りとられても、新しいのが生えてくる人もいます。彼がそのタイプかどうかはわかりませんが。ほんとなら、こんなことで、かんたんに病気になる人じゃないんですがね。破傷風の毒くらい、自分で殺してしまうはずなんですけど」


「あんたの言うこと聞いてると、隊長が人間じゃないみたいな気がしてくる」

「凡人じゃないって意味ならね。だから、わたくし、前々から目をつけていたんです。ああ、このかたの血を半分でいいから、すすりたい……」


「ロンド!」

「あら、そんな青い顔しなくても、わたくし、そこまではいたしません。地下の先輩がたなら、そんなかたもいるかもしれませんが」

「…………」


「いやですねえ。ほんとに、しませんってば。わたくしはせいぜい、このかたに抱かれて、少しだけ精気をわけてもらいたいな……とか思うだけですよ。可愛らしいもんでしょ? 赤くなったり青くなったり、忙しいかたですね。まあ、そんなわけですから、わたくしてとしても、このかたのことは、なんとか助けてさしあげたいのですが」


「どうしたらいいんだ? 薬が効かないとなると?」

「古典的に頭を冷やして、体をあっためましょう。そして本人の回復力に期待するしかないですね。ケガの手当てはしておきますよ。化膿どめをぬって、足首には湿布して」


「体をあっためるって言ったって、どうしたら……」

「添い寝すればいいじゃないですか。もちろん、わたくしも手伝いますよ? 仕事があるので、いつもってわけにはいかないだけで……いえ、もう、仕事なんかどうでもいいかなぁ」

「いや、ありがたいけど、おれたちもいるから……」

「むっ。なんだか迷惑げ。心外ですぅ」


「隊長。しっかりしてください。必ずよくなってください。こんなことで、あなたを失いたくありません」


「無視ですか……」


 熱いものが、ワレスの上からこぼれおちてきた。

 涙……。

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