第一章 第七話 野獣の暴走

 俺は手鏡を片手に、参ノ宮駅の花壇の前で立っていた。見上げるとシャガールの絵のような深く青い空と深紅色の太陽が俺を見ている。


 ああ、夢か。


 この言葉を夢の中で言うとは思いもしなかった。さて、手鏡でも見てこの世界からさらばするか。


 シュシュシュシュシュシュシュシュ


 なんの音だ? この匂いは何だ? 雨が降った時の独特な匂いに似てるな。


 ポーー、ポーーー!!


 そうか、ここは駅だったな。機関車が走っているのか。

 ふと疑問に思う。人がいないのに何で走っているんだ? あまり考えない方がいいな。ここは夢、そういう世界なのだろう。そう思いながら握っている手鏡を開けようとした時、肌がピリピリし始めた。


 それに追い立てられるかのように駅、ロータリー、橋のスロープと周りを見渡した。機関車が通り過ぎた後、駅の方から足音と悲鳴が聞こえてきた。何か来るのか? 手鏡を急いでポケットに入れようとした。しかし、慌てて手鏡を石畳に落とす。しゃがみ取ろうとした瞬間、悲鳴が近づいてくるのがわかる。


「いやぁぁぁぁぁぁ! 助けてぇぇぇぇぇぇ!」


 駅の方を見ると、茶髪の青年が俺の方に向かって来ている。彼の後ろには高さ三メートルほどの大きい猪が彼を追っている。


 俺は手鏡を取り、すぐさまスロープに向かって走り出した。背後から青年の悲鳴とフゴフゴフゴと猪が向かって来るのがわかる。スロープを登りきると橋だ。百貨店に向かう直線の橋を必死に走る。そこで青年と並走する。



 フゴフゴフゴ!!



「いやぁぁぁぁぁぁ!」


 来てる来てる! 怖い怖い怖い怖い!


 目の前には小さな花壇と人形が出てくる時計。橋を渡りきり、左、右と思いっきり顔を振る。右に降りるスロープがある。俺は思いっきり彼を引っ張り、そっちに向かって走り出すと後ろからものすごい音が聞こえた。後ろを振り向くと、猪が曲がりきれなかったのか、花壇に凭(もた)れかかっていた。猪はゆっくりと立ち上がり、こちらへ向かってくる。


「「なんで来るの!?」」


 俺たちは全速力でスロープをくだり、道路と歩道の仕切りであるガードパイプに手を掛け、俺たちは同時に飛び越える。交差点を突っ切る。首を一瞬後ろに見向くと、猪はガードパイプを無視し、そのまま飛び越え俺たちに向かってくる。


 これは追いつかれる。この人だけでも……。


 交差点の真ん中で止まり、振り返る。


 怖い……怖い……怖い……。


 後ろから「おい、どうしたんだよ! 逃げるぞ!」と俺を呼んでいる。


「あなたは逃げてください! 俺がここで止めるんで!」


「そ、そんな馬鹿なこと……あっ……あっ……うわぁぁぁぁぁぁ!」


 彼は逃げる。巨大な猪は俺に向かってくる。


 怖い……怖い……怖い……。


 心臓がバクバクする。


 でも誰かがやらなければならない。


 手が震える、脚が震える。


「あぁぁぁぁぁぁ!」


 俺は叫びながら、猪に突っ込んで行った。


 またあの感覚だ。時間がゆっくりになるあの感じ。


 右手に違和感を覚えた。見るとつるぎを握っている。


 俺は剣の取手を両手で握り、俺から向かって左側、猪の鼻孔の右側に刃を突き刺す。


 ズズズズズズ


 剣を鼻に刺したと同時に、左側に転がり立ち上がる。後ろを気にしながら、猪との距離をとる。


 猪はその場で暴れている。


 息を整えなければ。


 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。


 よし、剣だ。剣がもう一本あれば……。


 あれ? なんで出てこないんだ?


 暴れている猪の鼻を見る。剣が突き刺さったままだ。そこで俺は理解した。


 剣は一本しかない。


 急に現れるので、鼻に刺さっている剣が消え、右手に握られているのではないかと思っていたが、そうではなかったようだ。


 剣は一本しかない。一本しか現れない。


 巨大な猪が鬼の形相で俺を見た後、進行方向を定める。


 こっちに来るみたいだ。……やばい。


 俺は猪を見つめるしかなかった。

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