第4話 束の間の喜び
騒ぎながらも、二人の間に自然と流れる、闇の一族と命のやりとりをくぐり抜けた後の、僅かながらの息抜きと表現できる気の抜けた雰囲気。それは、彼らを戦闘モードの緊迫した空気から一変して、いつもの仲良しな友人の関係に戻す。冗談を言い合いながらも、心の深いところでは繋がっているのが、目に見えて分かるようである。
旅立ちの準備を進める傍ら、シルはマシュと談笑しながらも、ぐるりと周りを確認のため見渡してみる。
そこに先ほどまでいたはずの迷子の学生の姿はない。代わりにいるのは、緑色の体で筋肉質。それでいて、耳はウサギのように鋭く尖り、開いた口にはキバが垣間見え、その隙間からよだれを流しているゴブリン達だ。彼らの右手に握られているのは、恐らく棍棒だろう。丁寧かつ大胆に削られたそれを持って振り回している。その度に、音を立たせながら漏らす荒い息を、隠すことなくこちらの様子を伺っていた。
彼らはシル達2人からしてみると、そこまで強くない敵だと認識していた。先程までのサキュバスと異なり、ゴブリンは知能が著しく低下し、言語を操ることすら叶わない。その上に、力の観点からも人類を軽く凌駕するレベルでもない。
どちらかと言えば、量産型として扱わられる闇の一族の中でも下っ端。二人で戦えば難なく潜り抜けられる戦場であると、無意識に考えてしまっていた。
しかし、その考えは甘かった。二人は綺麗さっぱり忘れてしまっていたのだ。自分たちが今どこにいるのかと言うことを。それに、今後、幾度となく剣をまじ合わせる相手が、どんな存在であるのか。
二人の後ろで、静かに立ち上がるその影は、太陽が流し込む光とは反対方向に向かって、妖艶に伸ばす。地面を見ている限りでは、黒色で顔も口も確認できず、その姿の輪郭しか映し出されることはない。それは、既にシルとマシュが立っている近くの場所まで侵食を始めている。それでも、誰にも気づかれることはない。勝利の後に、顔を下に向けるものは、少なくともこの戦場には存在しなかった。
完全に伸びきった影は、やがて地面に転がっている鞭に静かに手を伸ばし、殺気に満ちた目を二人に向けながら、ゆっくりと立ち上がった。そこに、先ほどまでの慢心を装う姿は一欠片も垣間見ることはできない。彼女は、怒り狂った視線をゴブリンの方にくれる。殺意を余すことなく込めた怒りの目線を。
下っ端であるが故に、強者の心変わりは敏感に察知できるものだ。それを瞬時に察した彼らは、気づかれないように詰めていた距離を静かに一歩ずつ後方にさがり、再び距離を離した。相変わらず浮かれ気分の、目の前の学生2人には気付かれないように、これ以上彼女の機嫌を損ねぬように、最善の注意を払って。
「はぁ、戯言はそこまでにしてもらって良いかしら。虫唾が走るわ」
明らかに男の声では無い声が、シルたちの後ろから響いてくる。疑いようもなくそれは、女性特有の高い声。しかし、ここに女性がいるはずなんて無い。先ほどまでいたあいつも、先ほど頭をマシュが真っ二つに切断し、血を流し倒れていたはずだ。
あの傷を負いながら、無傷で立ち上がれるとは到底思えない。少なくとも、声を発せられる状態ではないことは確かだったはずだ。奴を切り落としたマシュも、確実な手応えを感じていたに違いない。
隣にいる友に目線を送ると、シルは驚愕のあまり目を大きく見開いてしまった。ついさっきまで軽口を言い合っていた時とはまるで異なる。畏怖の表情を浮かべる友が、そこにはいた。そこに笑顔はない。紛れもない絶望の色が、マシュの表情を支配してしまっていた。
恐る恐る、二人は後ろを振り返る。思わず、数分前にタイムスリップしたのかと錯覚してしまう。それほど、無傷のサキュバスが、鞭を両手で持ち、翼を上下に揺らして、空中で仁王立ちしていた。倒れ込んだ時に流していた血も、今ではどこから流れていたのか分からない。切断した箇所や、切り傷の跡すら判別できないレベルで回復している。加えて、地面にも奴が流していた緑色の染色は一切見られない。正に何事も無かったかのように、そこに存在していた。
「お前は死んだはずじゃ」
思わずマシュは声を漏らしてしまう。流石のマシュでも、その声は恐怖で震えていた。声だけではなく、身体全体に恐怖が襲いかかり手も同様に震えさせている。いつもは冷静沈着で、物事を論理的に考えるタイプの人間のマシュ。予想外の出来事が起きた時でも、一人動転することなく、冷静に周りの人を引っ張っていくようなタイプの人間だと、シルは勝手に彼のことを認識していた。
そんなあいつに、今まで精神的にも、戦闘の面でも、幾度も助けてもらってきた。その数は、既に両手の手だけでは数え切れないほどだ。
でも、そんな奴でもこの状況はビビるのか、シルは心の中でそう呟く。あいつに一撃を食らわしたのはマシュだ。その時の手応えが、逆に余計困惑させているのかもしれない。
俺は静かに腰から携えている愛剣の柄に手を伸ばした。冷たい柄の感覚が、今のシルの心臓の温度と綺麗に比例しているように感じる。だが、シルはマシュに同じ動作を取るように促すことはなかった。このように恐怖に身体が支配されてしまえば、それを脱ぎ去るのは容易なことではないと、シルはよく理解していたから。
「あの程度じゃ死ぬわけないでしょ。ちょっとした演技をしてあげただけ。絶望を与えるのは希望の光が見えた時じゃないとね〜。あなた達は私を嵌めたつもりかも知れないけどね、私だってこの地に誘導するって狙いがあったのよ?」
「狙い——だって? ここは、俺たちの故郷があるファーム地域からそれほど離れた場所ではないはずだ! ただの何もない草原に誘導することを狙いとは言えないぞ!!」
咆哮するシルに、悪魔はふっと笑いかける。口から溢れる笑みにつられて出た空気が、春風にのってシルの前髪を揺らす。
「はぁ〜。ほんと、お馬鹿さんな二人ね。一度でも太刀を食らったのが、恥じゃない。これじゃあ。まぁ、あくまで万が一のためにやったことだから良いんだけど。あなた達は気づかなかったかもしれないけど、ここは既に私達闇の一族の陣地!
瘴気の濃度も、あなたたちが暮らしている場所と比べると10倍以上に跳ね上がっている。私たちの力はこの上ない高濃度の瘴気によって高められているの! 身体の再生なんて片手間で済むほどにね!!」
特にこの地域は⋯⋯ 。そう言いかけたところで、サキュバスは言葉を強引に終わらす。その後にあげる耳をつんざくような高音による咆哮。余裕の雄叫びなのか、それとも単なる挑発なのか。シルには区別がつかない。
「——っ!!!」
だが、サキュバスの高い声による咆哮が嫌に耳に残るのを、シルは顔をしかめながら聞き流すしかなかった。そうでもしなければ、シルの心をも覆い尽くそうとする絶望が、一瞬でも気を抜いた瞬間を作ると一気に纏わりついてくる、そんな直感がした。
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