アーミーナイト 初日
第9話 ようこそ、アーミーナイトへ
人間のものではない。緑色で血液と呼んでいいのかすら分からない液体が、シルの少し日に焼けた肌をじっとりと湿らせた。それは、右手に握った剣を振り回せば振り回すほど、びっしりとより一層纏わり付いてくる。
「キィエェェェェ!!!!!!」
命を奪われる直前の断末魔。ゴブリンは、激しく切られた一線に沿って体液を撒き散らすと、その場にドンっと倒れていく。シルは、一瞬それに一瞥すると、すぐに視線を次の標的に向け直し、剣を構え直す。そして、呼吸を整えるや否や、距離を詰め、再度剣を振り下ろした。
強く握った剣を介して伝わる、命ある者から大事なものを搾取する感触。永遠と錯覚するほどの長時間、それは途切れる事なく、脳に刺激として送られ続けた。その刺激は、決して顔を歪ませるほどの嫌なものではない。それどころか、どこか心地よさを感じさせるもののように思えた。
実際のところ、シルがどれほどの時間剣を振り、クリーチャーと戦闘を繰り広げていたのか、正確な数字は分からない。ほんの数分間かもしれないし、数時間という長い時間を過ごしたのかもしれない。ただ長かった、という感覚だけが襲いかかる敵がいなくなった時に頭にこびり付いていた。それは、きっとシルとマシュの両者に共通して。
全てが終わった後に降りかかる、重りを背負っているかのような疲労感。立っていることすら困難で、気を抜けばそのまま地面に倒れ込みそうになる。
「クソッ! 戦っている時はこんなに疲れを感じてなかったのにな〜・・・」
これだけで、今まで繰り広げられていた戦闘の過酷さを物語っていた。戦闘中に脳から連続して分泌されていた、脳内麻薬もついに、その効果を切らし始めたのか。襲いかかるそれを、塞ぐ手立てはどこにもないように思えた。だが、それでも——まだ倒れることはできないのだ。
シルの前に立ちふさがる敵が全ていなくなると、いつもの静けさが、辺り一面を覆い包む。吹き抜ける春風も、気がつけば元通りになり、殺意が混じっていたりしない。全ていつも通り平穏な日常が、シルとマシュを抱き抱える。
だが、一つだけ前と比べて変化していたものがあった。それは、眼前に広がる風景。これだけは、少し前と大きく異なるものに変貌していた。なぜなら、広がるそれは、先程までの綺麗な草原と草花は見る影もなくなっているから。
地面を緑色と赤色の液体で染め上げ、所々にバラバラになった四肢の一部が散らばっている。それらがくっついていたはずの身体を持つ、一部分が欠けたクリーチャーの死体も横たわっている。これだけで、視界は大きく色を変えていた。
それに加え、高濃度の瘴気に当てられた草花は、綺麗に咲いていた満開の花から一変、茶色に変色させ、太陽とそっぽを向くようにして地面と見つめあっている。見るものの心を穏やかにさせる草原の草達は、戦闘の最中幾重にも踏み荒らされ、その片鱗すら思い起こすことができないほどの有様だ。
そんな変わり果てた光景に、視線と共に肩をも落とすシルであったが、はぁはぁと平穏とは異なる荒い息を何度も吐き出していた。今だに、何とか立つことは叶っているが、隣で戦っていたマシュはそれを許すほど体力が残っておらず、半ば気絶しているかのように地面に伏している。死んだか、と不安に思うが、膨張しては縮小する胸の動きを見て、ほっと胸を撫で下ろす。
次から次へと吐き出される体内の空気を他所に、戦闘の緊張感から解放されたシルの心に浮かんだのは、生き延びたという安堵だけでは無かった。もう戦いは終わってしまったのか、という消化不良な気持ちもまた静かに心を占有する。
そして、自分が未だにこの剣の全てを、戦闘の最中に引き出せてやれなかった。そこまでの力量を、持ち合わせていなかったという後悔。これもまた、彼の心に深く突き刺さった。今まで以上に強く握られ少し窮屈そうな愛剣も、その想いに呼応するかのような反応を見せる。複数人の体液にまみれ、何色を放っているのか分からなくなってしまっている隙間から、本来の色である黒色を窺わせる。
しかし、そんな事を考えていたのはほんの僅かな時間だった。全てをやり遂げたあと、シルは誰かに頼まれた訳でもないのに静かに目を閉じる。視界からの光の情報を遮断し、その場にそのままの体勢で二足に込めていた力を解放した。ドサっという音が、この場で小さく、でも確かに響き渡る。だが、誰も彼の元に駆け寄ってくる者はいない。大丈夫かと、声を掛けてくる者も当然。迎えにきてくれるのは、抑えきれない睡魔と、依然として頬を撫でる風のみだ。
持てる全ての気力を出し切ったことによって生じた、遅すぎる身体ダメージと精神的なダメージ。両者が彼を一斉に襲い、闇と暴力に溢れたこの世界から、真っ暗でありながらも快楽を与える夢の世界に誘う。力を失った持ち主の手からスルリと地面に向かって落ちていく黒刀。
音の吸収材が刈り取られた地面に、派手な音を立てながら柄から先に衝突する。だが、その音すらも虚しく、誰の耳にも止まることがない。そのまま、静かに戦場へと音は溶けていった。すでに遅刻のことを考えられるほど、頭の体力は残っていない。それを訴えるように、身体は無常にも理性の垣根を超えて、欲望の世界にへと落ちていった。
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「今年の生存者は結局何人だ?」
「去年と比べると多いですね。流石、全国民から選ばれた精鋭達と言ったところでしょうか。何より驚いたのは、ほとんどが逃走することによって敵の手から逃れたというのに、立ち向かって生存した新入生がいることです。我々でも勝てるか分からない相手に勝利ですからね。代償は小さくないですが、それでもすごいと心から思いますし、目を覚ました際には賛辞を送りたいほどです」
興奮冷めやらぬ、といった言葉が今の彼女を表現するのに、一番適しているだろう。座っている椅子には、前半分の部分にしか腰をかけていない。それでいて、体勢は前傾姿勢で、話しかけてきた人の方に傾いている。
「何より、これから訪れる避けることのできない戦闘という恐怖。そして相手の命を奪い取るという罪悪感を、この瞬間に味わっているというのは期待が持てますからね。この年は大豊作になるという、あの方の予言は間違いではなかったことが、これで証明されましたかね」
どこか凄く遠いところで、聞いたことのない声が頭上で交錯しているような気がする。言葉は聞き取ることができるのだが、それを頭に叩き込み、そして考える動作が取れない。これはこれで大事な話のようだが、それ以上に大事なものがあったような不思議な感覚に襲われた。
今しがた、何だかとても大事な夢を見ていたような気がする。真っ暗な世界にポツンとシル1人で立ち、周りには何物も存在しない。そして、声を出そうにも言葉が口から発せられない状況。まさに無の世界と言った環境に辺りは包まれていた。
いつも腰静かに刺さっている自分の愛剣が、他の見覚えのない剣数本と何らかの図形を描くように、規則性を含ませて地面に突き刺さっている。疑問に思い、その近くまで歩み寄ろうとするが、身体を動かすことはできなかった。足全体が石化したかの如く、ピクリともする気配がない。
それは、愛剣の方を見つめれば見つめるほど曖昧さを増していき、ついには眼鏡を取り上げられた視力の悪い人のように何も見えなくなる。次第に意識が覚醒していくと、そのぼやける世界は一気に加速するようにモヤがかかり始めた。
その代わり、聞き覚えのない声で途切れる事なくシルに声をかけてくるヤツがいた。誰かは分からない。どこにいるのかも分からない。そもそも、この場所にシル以外の人がいるのかどうかも、怪しいものではある。
それでも、最後の悪あがきにと、シルは首を声がした方向に目一杯力をこめて振り返る。正直のところ、動かすことはできないと思っていた。身体が石化した如くの状態。首だけが動かせるなんて出来過ぎる話だ。
しかし、なぜか首だけは硬直を免れたかのように、すんなりと動いてみせた。何とかして動かせたその時に、一瞬、こちらをじっと見つめていた声の主を見たような気がする。既に今の段階でもその夢の内容は朧げだが、それがとても重要だということだけは頭が覚えている。いや、忘れたくとも頭から離れてくれそうになかった。
確か、とても長い髪をした綺麗な女の子が話しかけてくれていたような。ダメだ、やはり思い出せない。それを思い出せないようにするかのように、また深い睡魔が襲ってくる。目を開けようかと思っていたのに、まぶたの重さがいつもの10倍以上に感じられ、既に自分の意識でどうにかできるものでは無かった。そして、シルはそのまま睡魔に身を委ね、再び長い眠りについていった。
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一体どれほどの時間が経過しただろうか。気がつけば窓から漏れる光はどこか赤みを帯びていて、遠くからカラスの親子が列を形成しながら、カラス特有の鳴き声でまるで会話をしているかの如く順にカァカァと声を上げては、赤く染まった空に消えていく。風が強いのか、やけに雲の流れていく速度が速いのが目についた。
外の様子を見ようと、ベッドに寝転がっていた体勢から起き上がろうとした時、途中でピタリとシルの体が停止させられる。何も自分の意思で止めた訳では無い。物理的な力で遮られていたのだ。自分の身体をよく見てみると、胸や腕に大量のチューブが繋がれていた。身体を無理に動かしたことで、限界にまでピンと張って伸びるそれを見て、シルはゆっくりと元々の姿勢に戻っていく。少し背中に冷や汗をかきながらだが。
そういえばと、シルは体勢を戻しながら辺りを見渡す。するとそこには、自分の体内からの電波を感知して、異常を感知する電子機器があり、その状態の変化を捉える毎に鳴らす電子音が、静かなこの部屋に一定の感覚で鳴り響いていた。
まさしく重傷者、という言葉が今のシルを指すには適切な言葉であるのは、誰から見ても明らかだ。真っ白な床に、真っ白な壁。それにBGMすら無く、ただベッドのみが列になって整列されている部屋に、シルはただ一人寝転がっていた。
隣のベッドには少し前まで使用していた人がいたようで、掛け布団は綺麗に畳まれているが、僅かにシーツは乱れていて、所々にシワの波が出来ている。それに、見覚えのある色の髪の毛が、枕に数本くっ付いているのもシルは見逃さなかった。
「何だよこれ。ていうか、ここってどこだよ」
「アーミーナイトにようこそ、シル・バーン君。ここはアーミーナイトの医務室にあたる場所だ」
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