あのデパートが潰れる。

夕空心月

第1話

「あのデパートが潰れる」


その知らせを聞いた時、気づくと私は泣いた。

部屋で一人、静かに、声も立てず。


どうしてだろう。


芸能人が亡くなったというニュースが流れた時、特に思い入れもないにもかかわらず、訳知り顔で悲しむふりをするのは嫌いなのに。


なくなるまで関心なんかなかったものに対して、感傷的な感情を抱くのは嫌いなのに。


泣いてしまった。

そして涙は私に、幾つかの記憶を想起させた。

あまりにも鮮やかに、狂おしいほど美しく。




***




私は16歳だった。


今よりも若く、今よりも勇敢で、今よりも向こう見ずだった。

どこにでも行けると思っていた。けれど世界は小さく完結していた。新宿もハチ公も山手線も知らなかった。私の世界は、上るか下るかしか選べない電車で行ける場所がすべてだった。


その世界の片隅に、そのデパートはあった。


デパートと呼べるのかも危うい、古くて寂れたそれは、何かを諦めたような顔をして、いつも退屈そうに佇んでいた。


私は何度か、そこに足を踏み入れたはずだ。けれど、その中がどうなっていたのかは、うまく思い出せない。確かなのは、そこにはプリクラもなければタピオカ屋さんもなかったこと、流れる音楽はJポップなんかではなく、名前の知らないどこかの国の民謡だったということ。


けれど記憶の中に、その断片はあまりにも鮮やかに保存されている。その多くは、何故かどうでもいいものばかりだ。


例えば


友人と映画を観に行った帰り、そこで食べたたこ焼き。それはどこにでもあるような安っぽいたこ焼きで、特別美味しいわけでも不味いわけでもなかった。けれど、濃いソースの匂いや、口にいれた時の熱さを、今でもありありと思い出せる。


そういえば


私はあの人のことが好きだったっけ。

あの人は誰のことが好きだったんだっけ。

あの人は今どこにいるんだっけ。


忘れていくのはいつだって大事なことばかりだ。たこ焼きのソースの味なんて、覚えていたって仕方がないのに。


恋をしていた、

その時の胸の高鳴りや、不快ではない苦しさだけを覚えている。

あんなに好きだった人の声も匂いも、もう遠くへいってしまった。


忘れたくなんかなかったのに。




あぁ、また思い出した。


たしか


いつかのデートでも私はそこに行ったんだっけ。

どんなデートだったかは思い出せないけれど、不思議なことに、あの人がそこで私に買ってくれたピュレグミの味だけは覚えている。マスカット味で、甘くて酸っぱくて、口の中にじゃらじゃらしたものが残って。その時もBGMはロマンチックなものなんかじゃなくて、相変わらずよく分からない民謡が流れていた。


あの人は元気かな。

別れた時は随分泣いたっけ。

この苦しみは永遠に続くだろうと思っていたのに、思い出してもちゃんとこうして息は出来ている。

私はまた、何か大切なことを忘れてしまっているのだろうか。


けれど何を忘れてしまったかは、忘れてしまったから思い出せない。




***





あぁ、わかった。

どうして涙が出てくるのか。


忘れていくのが怖いんだ。


16歳だった私を。

少女だった私を。

好きだったあの人のことを。

戻れないあの日々を。


記憶というのは、自分が息をしたあらゆる場所に散らばるものだ。だから普段忘れていても、その場所に行けば、ふわりと思い出すことができる。その時目にしていた色も、感じていた温度も、聴いていた音楽も、一緒にいた人のことも。全部。


だからそのデパートがなくなれば、私はあの記憶たちを、もう一度そこに訪れてふっと思い出すことが出来なくなる。


絵の具を水に溶かしていくように、記憶はゆっくりと薄れ、やがて消えてしまう。そしていつかは、そのことさえも忘れてしまう。


嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。


忘れたくない。全部。


私は泣いた。泣いたところで、デパートは迷惑がるだけだろう。お前なんかに泣かれる筋合いはない、俺はどうせなくなる運命なんだ、と。けれど彼もまた泣いている。そのことに彼は気づいていない。


私は彼の頬を伝う涙を拭う。そこで彼は初めて、自分が泣いていることに気づく。


私は思う。


忘れていくことが避けられないのならば、いっそ忘れていくことを忘れてしまおう。


少なくとも今、私は彼に触れて、愛しい記憶たちを思い出すことが出来る。それで十分だ。少なくとも今は。そしてどんなに足掻いても、人は今の中でしか息が出来ない。


忘れるまで忘れない。

きっとそれは、永遠に忘れないことと同義なのだ。


「私は忘れないよ」

私は言った。

「うるせえよ」

彼は言った。


そして、ゆっくりと消えていった。

光の中で、彼が右手を小さく上げるのが見えた。



その夜、私はプリクラとタピオカ屋さんのあるデパートで、たこ焼きとピュレグミのマスカット味を買った。それは何の変哲もない、過去でもなく未来でもない、今、夏の終わりの味がした。



デパートが潰れるという知らせは、あの人にもあの人にもあの人にも届いただろうか。



皆の夜が幸せで、ほんの少し寂しければいい、と思った。

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