第二十五話 マリカ王国の王女
時を数日遡り──ここはマリカ王国首都マリオン。マリカ軍入隊式を無事に終え、城内を後にしようと足を進めるものの完全に迷子と化している栗毛の少年が一人。
「参ったな……広すぎる。おまけに誰もいない。完全に取り残された」
解散の号令がかかった直後、少年はあまりの嬉しさにその場から動けずにいた。というのも、少年は新入隊員代表としてこの国の王女から直接手渡された入隊証を、穴が開くほど見つめていたからであった。
「どこだよここ……どなたかいらっしゃいませんかー?」
答えるものは誰もおらず、少年の声は分厚い城壁の石壁に弾かれる。足を止めた所で城内から出られるわけでもないので、なりふり構わずずんずんと足を進める。──と、その時。
「──ラ ラ ラ ラ ラ ラ ララララ……」
聞こえてきたのは女の歌声だった。人がいるのであれば道を尋ねられる、と駆け足になった少年は、声のする方へ全速で向かう。
「あ……」
「あら?」
声の主が立つのはおよそ三メートル程の城壁の上。長い金髪を靡かせ、コツコツとヒールの踵を鳴らし、ゆったりと躍りながら歌声を響かせていた。彼女は少年の姿を見るやいなや、その身をくるりと翻らせて彼の前に着地した。ドレスの裾からちらりと見えた彼女の真っ白な足に、ギルバートはどぎまぎしてしまい、顔は熱を孕んでいった。
「ティ……ティファラ様っ!?」
「あらあら、あなた……さっき会ったわね? ええと名前が……たしか……」
「ギルバート・ウライトです!」
「そう! ギルバート君!」
偶然にもギルバートが出会ったのはマリカ王国王女 ティファラ
マリカ王国王女 ティファラ・M(マリカ)・ラーズは聡明叡智で社交的な人物である。明朗な美しき王女として国民から愛される彼女は、時に父──国王の代わりに政治に手を出し口を出し、戦争にすら参加する気鋭な女性であった。マリカ王国は元来ティリスとエルフのみで構成された国であったが、十数年前に人間の受け入れを国王に提言したのもこのティファラであった。
「新入隊員代表 ギルバート・ウライト君。入隊試験がトップだったのよね?」
「え……あ、はい!」
「優秀な方が軍に入ってくれて嬉しいわ」
そんな彼女を眼前に、緊張のあまり言葉の出てこないギルバートは石像のように固まってしまう。足元の草花がさわさわと風に揺れ、ティファラが不思議そうに首を傾げた。
「どうかした?」
「いえっ……あの、驚いております……あと、緊張もしております」
「何故?」
「ティファラ様とお話をしているからです……」
舌を噛みそうになりながらも、必死に会話を続けるギルバート。彼の緊張など露知らず、ティファラは愉快そうににこにこと目元を弛緩させる。
「もっと沢山お話をしていたいのだけれど、多分そろそろ……」
「そろそろ?」
「…………おい、誰だお前」
低く唸るような声にティファラは嬉しそうに振り返る。殺意の籠ったその声に、ギルバートは顔を上げるとこが出来なかった。
「……ッ!?」
瞬きをたった一度した直後、ギルバートの胸倉は突如現れた人物によって乱暴に掴まれ、直後に足は宙いた。真新しい軍服の襟が皺だらけになり、ギルバートは思わず顔を
「こいつ……いい度胸してやがる」
「エリック待って!」
ティファラが止めに入るも、エリックと呼ばれた男はその呼び掛けに応えることなくギルバートの首元を絞め上げてゆく
「な……だれっ……」
「口の利き方には気を付けろ!」
「エリック!!」
城壁に反響したティファラの声が周囲に響き渡った所でようやくギルバートの体は自由になった。咳き込みその場に踞ると、後頭部の髪を掴まれ無理矢理顔を引っ張りあげられた。
ギルバートの視線の先──ぎらりと光るエメラルドグリーンの双眸には、わずかに殺意が残ったままだ。少し伸ばしたミントグリーンの前髪をかき上げると、エリックは乱暴にギルバートを解放した。
「生意気そうなガキだ……」
「良い眼をしているとは思わない?」
「ララがそう言うのなら、そんなんだろうな」
突然の蛮行に謝罪すらなく、ティファラと対等に会話をするこの男。服装からしても、身分が相当高いことは流石のギルバートにも理解出来た。
(……待てよ、エリック……? まさか……!)
ハッと顔を上げた直後、額を地べたに擦り付け頭を下げるギルバート。「申し訳ございません!」と謝罪をすると同時に、ティファラの柔らかな手がポン、と肩に添えられた。
(エリック……! エリック・P(ペダーシャルス)・ローランド! ペダーシャルス王国の王子でティファラ様の婚約者……!)
乱暴者だとは噂は聞いていたが、まさかここまでとは思っていなかったギルバートは、ティファラに呼び掛けられるまで必死に頭を下げ続けた。隣国の王子に向かって誰かと問うなど、あってはならいことであった。
「お前の無礼な行いなど気にしてはいない。国外にはお前よりも遥かにクソみたいな奴が沢山いるからな」
「……はい」
「フン、必要以上に俺のティファラに近寄るな。いいな?」
「はい。申し訳ございませんでした」
「分かればいいんだ」
スッと身を滑らせたエリックは、あろうことかティファラに近寄り流れるような動きでその唇を塞いだ。目の前にギルバートがいるにも関わらずだ。
「わっ……!」
慌てて目を逸らしたものの、齢十七のギルバートにはなかなかに衝撃的な光景であった。視線は澄んだ青空に向いているというのに、二人の重なった唇と寄せられた身の光景が、目に焼き付いたまま離れないのだ。
「エリック、気が済んだのなら離れてくれる? 公衆の面前でこれはまずいわ」
「……なら、用が済んだら君の部屋に行ってもいい?」
「構わないけれど、用?」
「そういえば、急ぐように言われていたんだった」
先程ギルバートに向けていた威圧的な目とは打って変わって、柔らかな視線をティファラに向けるエリック。
「君の父からだ」
受け取ったティファラは、サッとそれを広げて読み終えると一度天を仰ぎ、もう一度食い入るようにそれを読み直した。
「…………大変なことになったわ」
透き通るような白さを誇るティファラの顔が蒼白になってゆく。彼女の発言と顔付きからして、もはや場違いだと自覚するギルバートであったが、こうなってしまってはもはや退席する時期を得られない。
「ファイアランス王国国王……エドヴァルド・F・グランヴィからの書状よ」
「ファイアランス王国だって!?」
叫んだ後ハッとして口許を覆ったエリックは、ティファラの手元の書状を覗き見る。読み終えると同時に彼の眉間の皺は深まり、盛大な溜め息を吐いた。
「これは一体どういう……」
「国土の拡大目的かしら。それとも奴隷でも欲しいのかしら……」
「ファイアランス王国は奴隷制度はないはずだろ? 殺しで潤っているあの国に労働力なんて必要ないだろう」
話の全容が全く見えないが、自分が口を挟むわけにもいかない。ギルバートは黙って二人のやり取りを見つめるしかない。
(隣国ファイアランスといえばあの殺し屋大国だよな……? この平和な国に一体何の用だろう)
頭を捻っても答えが出る筈もなく、ギルバートは背筋を伸ばし空気のようにその場に佇む。畳んだ書状をしまうと同時にティファラはギルバートへと視線を移した。
「ギルバート君……入隊早々申し訳ないわね。録な訓練も詰んでいないというのに」
「ど……どういうことですか」
「戦争になるわ。すぐにね」
──戦争、という言葉にギルバートは背筋が凍る。軍隊に入隊したからには勿論、覚悟を決めていたつもりであったが、まさか入隊証を受け取り一時間もしない間に戦争の話が出てくるとは。
ティファラと少し会話をした後エリックはすぐさま自国へと向かった。友好国としてマリカ王国に尽力する為の準備に、急いで取りかからなくてはならない。ギルバートはティファラに連れられどうにか城を出ることが出来たが、彼女との別れを惜しむ間もなく軍の緊急召集へと向かうこととなった。
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