第十話 本心

 中庭中央に鎮座する噴水から溢れる水を右手に眺めながら、フェルは風の吹き抜ける渡り廊下を進む。太い大理石の柱の合間から見える季節の花々の植えられた庭園を眺めるのは、彼のお気に入りであった。天気の良い日に眺めるのは勿論、雨に濡れた花弁も美しいと、好んで愛でていた。


 医務室を後にした彼がアンナの血でまみれた手をハンカチで拭っていると、正面から見知った男女二人組がこちらへと歩みを進めてきた。


「フェル様、ヴェルミヨンも伴わずどちらへ?」


 声をかけてきたのはルヴィスとシナブルの姉でフェルの従姉──レンブランティウス直属の臣下マンダリーヌであった。 薄縹色うすはなだいろの長い髪を頭の高い位置で一纏めにした、血のように赤い瞳を持つスーツ姿の、一族にしては目元の優しげな女だ。


「ヴェルミヨンには書庫に本を探しに行ってもらってて。僕は追加で必要になった本を取りに行く途中なんだ」

「そうでしたか」


 にこりと微笑むマンダリーヌは母のサン似であった。彼女の末弟のヴェルミヨンもサンに似て優しげな顔付きであるが、ルヴィスとシナブルは父のコラーユに似て目付きが鋭い。特にシナブルはアンナと同じく祖母アリアの血が濃いのか、きょうだい達の中でも一番顔立ちがきついと言われていた。


「……血の匂いがする」


 マンダリーヌの横で、鼻をすん、と鳴らすのはフェルの兄 レンブランティウスであった。赤銅色の長い前髪の間から覗く赤い瞳は、フェルを掴んで離さなかった。


「フェル、何があったのか言ってごらん」

「……兄上」


 膝を曲げて腰を落とし、フェルの視線に合わせて中腰になったレンは、濃紺のベストを羽織った弟の肩に手を置いた。マンダリーヌはその様子を後方で黙って見つめている。


「怪我をしたのか?」


 血の香る部位へと目を落としたレンは、フェルの両手をそっと掴み上げる──が、怪我をした様子はなく、フェルの手には拭き取った血の跡があるだけであった。


「兄上、これは……その」

「…………アンナか?」

「父上が戦闘訓練をなさると言い出して、それで──」

「……あの親父」


 フェルの手を離したレンは舌を打ち、マンダリーヌの制止も聞かず廊下を駆けて行く。溜め息を一つ吐いた彼女はその背を追う。


「マンダリーヌ!」

「わかっております!」

「頼んだよ!」


 フェルの心配の種は、駆け出しもう姿も見えぬ兄だった。レンはアンナのこととなると歯止めが聞かなくなるということを、幼いながらもフェルは理解していた。

 少しずつ小さくなるマンダリーヌの背を見送り、フェルは当初の目的地である書庫へと向かった。





 医務室の扉が激しくノックされる。ハクラとアリシアの補助をしていた医師がその扉を開けると、険しい顔をしたレンが扉の淵に手をかけた。


「レ……レン様、如何なさいましたか」

「アンナはいるのか」

「はい、いらっしゃいます……しかしまだ治療中で……あっ、レン様お待ちください!」


 医師の呼び掛けにも応じず、ずんずんと医務室の奥へと足を進めるレン。そこへ少し遅れて到着したマンダリーヌは、入口の困り顔の医師に事情を聞いた。医師から事情を聞き終えた彼女が主の後を追うと、視界に入り込んだのは第一治療室入口の、開かれた白い扉だった。


「アンナ、大丈夫か」


 ハクラとアリシアが治療を進める横で、レンはアンナの手を握りしめていた。眠りに落ちかけていた彼女の目は、とろん、と半開きになっている。


「どうしたんだ兄上」

「フェルから聞いてな、全く、あの親父ときたら……」

「いいんだ兄上。いつものことだから」

「しかしだな、こう『いつも』が続けばお前の身が持たない」


 幼い頃からずっと、エドヴァルドはアンナに厳しく接してきた。それは彼女が彼の跡を継ぎ、この国の頂点に立つ為のいわば教育なのだが、あまりの厳しさにレン自身や母のネヴィアス、姉のマリーや側近のコラーユまでもが苦言を呈していた。しかしエドヴァルドが誰の言葉も聞き入れていない結果、彼女は父の剣や拳の餌食に為り続けているのであった。


「父上の所に行ってくる」

「なっ……止めてくれ兄上! そんなことをしたら兄上が……」

「気にするな。俺が勝手にやることだ」


 怪我の部位に触れぬようレンはアンナの身体をそっと抱き寄せた。髪を一撫ですると彼女を解放し、踵を返す。


「……そうだアンナ、臣下達は来ていないのか」

「いや、シナブルは訓練を観ていたからさっきまでいたけど」

「フォードは?」

「執務室だ。このことは今頃耳に入っているかもしれないな」

「そうか」


 ゆっくり休めよ、と早足で医務室を去る彼に、医師達は無言で頭を下げる。訝しげに眉を潜めたマンダリーヌは、再びその背を追った。



「……お待ち下さいレン様」


 医務室のある西棟を抜けて中央棟に差し掛かった所で、マンダリーヌは背後からレンの手を掴んだ。白いシャツの袖から伸びる主の手は熱を孕み、じっとりと汗ばんでいた。


「積極的だな」

「何故、フォードのことを?」


 マンダリーヌが問うと、レンは通路の──中庭側とは反対の壁際へ彼女を追いやった。ちょうど窪みになっているその場所は、中庭や東側通路からでは見ることの出来ぬ死角であった。


「あいつの行動は、時々気になることがある……それだけだ」

「……気になる?」

「裏でコソコソ何かやってるっつー意味だ」

「何かとは────えっ、ちょ……レンさ……っ!」

「……これ以上は聞くな」


 壁に背を追いやられ、マンダリーヌの唇は無理矢理レンによって塞がれた。その感触に放心状態の彼女は、赤面し我に返ると再びレンの手を握り彼を拘束した。


「まるでフォードが怪しいと言っているように聞こえます」

「俺の言ったことが分からなかったのかマンダリーヌ。それとももっとして欲しいのか?」


 死角になっていた壁側から全面ガラス張りの中庭側へ、レンはマンダリーヌの手を強く引いて行く。彼女の身体を窓に追いやると、ガシャン、と大きな音が広い廊下に響いた。


「レン様、何を疑っていらっしゃるのですか。フォードは……絵に描いたような忠臣ではありませんか」

「お前の方が忠臣だろうが」

「またそうやって話を反らす。って、ちょ……誰かに見られ……たら……っ」

「動くな。お前が悪い」


 強く掴んだ細い肩から、彼女の緊張が伝わってくる。スーツ越しでもわかる豊かな胸が、心臓の鼓動に合わせて激しく上下していた。

 再び押し当てた唇の合間から、マンダリーヌが何か言おうと身を捩る。それを許すまいと、レンは己の舌で彼女の口内を犯した。


「…………レン様」

「黙れ、これ以上は話さん。深入りするな、これは命令だ」

「……」

「行くぞ」


 この時のマンダリーヌは、ただ主の背に黙って着いて行くことしか出来なかった。しかしもしも──もしも何かあれば、その身を呈して彼を止めるのが己の使命なのだと改めて痛感していた。


(本当に……人の気も知らないでこの人は)


 触れられた唇を指でなぞる。惑わされてはならぬと己を叱責し、彼女は主の背を追った。



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