第八話 闘技台 壱番
ファイアランス王国首都フィアスシュムート。その南部の海沿いにそびえ立つ王城フィアスシュムート城。
アンナの部屋のバルコニーから飛び降りたシナブルは、階下の屋根へと着地した。屋根伝いに駆けると南西から吹き上げる海風に少し伸ばした後ろ髪を遊ばれる。たんっ──と跳び上がり中央塔の外壁を一蹴りし、中庭の外灯の上を一つ二つと跳び移る。三つ目に着地し、ぐっ、と踏み込んだ彼は大きく跳び上がり西棟の屋根へと着地。眼前には青々とした海が広がり、その手前の白練色の闘技台──壱番が、ようやく視界に入った。
(……陛下はまだか)
安堵し胸を撫で下ろすと、三階建ての屋根から闘技台の手前へと、静かに飛び降りた。
「おお、シナブル様」
白衣を身に付けた壮年の男が、エメラルドグリーンの瞳を見開きながらシナブルへと歩み寄る。白髪混じりの銀髪が海風によって乱されるのも厭わず、シナブルに頭を下げるこの男は医師長のハクラ・バルバートン。王妃ネヴィアスの言い付けにより、闘技台 壱番の脇へ控えている。
「今回は大したことがなければいいのですが……」
「……そうだな」
眼前の闘技台は高さは五十センチ程、縦横は一メートル程の石の群だ。正方形状に敷き詰められた白練色のそれは、まるで何かの舞台のようであった。その三十メートル四方の舞台のこちら側に、白いTシャツにタイトなデニムパンツ姿のアンナが腕を組み佇んでいる。
組んでいた腕をすっ、と解きアンナは顔を上げる。ハクラとシナブルが頭を下げると、アンナの真向かいに音もなくエドヴァルドが姿を現した。闘技台の足元には渋い顔をしたコラーユが控えている。
「よろしくお願いします、父上」
「俺直々の訓練はいつぶりか」
「およそ半年ぶりです」
「……そうか」
外套を脱ぎ去り、軽装となったエドヴァルドの腰には赤い柄の一本の刀。名を
「全力で来い」
「──はい!」
ごくりと唾を飲み抜刀したアンナは、黒椿の柄を両手で握り締める。腰を落とし、地を蹴り飛び出した所でようやくエドヴァルドが抜刀した。
ぎらりと光る刀身に目を細め、アンナは一気に距離を詰める。右足を後退させ足に力を込めたエドヴァルドの刃が、振り下ろされるアンナの刀身を捉えた。
──キィン──キンッ!
ぶつかり、弾き、押し負けたアンナの上半身は後方に軽く反った。そこへ横に薙いだエドヴァルドの刃が通過する。
「──ッ!!」
無理矢理に上体を起こしていれば、下手をすれば首が飛んでいたような攻撃だ。アンナは地と背が平行になるまで腰を反らせてその攻撃を躱す。刃が鼻先を通過すると同時に地に左手を着き、その身をぐるん、と後転させる。
(──力比べじゃ父上には敵わない)
しかしスピードで上回りさせえれば、傷を与えることが出来るはずだ。
「どうした、早く来い」
「……はい!」
──キインッ! ギュイイイイィィイン!
──ガガガガガガ!
刃が衝突した刹那、一瞬アンナは押し負ける。が、腰を落として地を踏みしめ更には
「そうだ、腰を落とせ。体勢が高いといざという時に動きが鈍る」
拮抗した状態から反撃へと移行したいアンナではあるが、如何せん衝突した刀は少しでも動かせば腕ごと弾かれてしまう。そうなれば腹に一撃食らうのは間違いないと思われた。
(……こういう時、飛行盤から放出している神力を上手く操れれば)
本人も自覚している通り、アンナは神力の扱いが不得手である。強弱の放出はある程度可能であはるものの、繊細な動作──針の穴に糸を通すような細やかなものは、彼女の得意とする所ではない。毎日のように訓練をしているとはいえ、未だ発展途上である彼女の神力──エドヴァルドもそれを理解している為、そういった攻撃はこないであろうと思い込んでいた。
(思い描くような神力の攻撃が出来れば、父上の不意を突けるだろうに!)
歯を食い縛りアンナは一か八か、攻撃に転ずる。この拮抗した状態を打破するためには、自分が仕掛けるしかないのだから。
(……動くのか)
アンナの目の色の変化に、エドヴァルドはいち早く気が付くと、腕に力を込めてアンナを押し返す。
「──ぐッ!!」
一瞬力を抜き、エドヴァルドを引き付けたアンナは両足から放つ神力を最大限に放出。右足のみで体重を支え、左足を彼に向かって蹴り上げた────!
──じりっ……。
風に揺れるエドヴァルドの長い髪の毛先を、アンナの神力が焦がす。そこに手を伸ばして髪の束を掴むと、アンナはエドヴァルドの体を闘技台に──
「──はあぁぁああっ!!」
──勢いよく叩きつけた。
そのまま刃を振り下ろすが、流石にそれは止められてしまう。ならばと握った拳に神力を纏いエドヴァルドの腹に落とすが、割って入った分厚い手の皮によってそれは阻まれてしまう。
「悪くはない──が、まだまだ」
ゆるりと身を起こしたエドヴァルドの瞳に宿るのは殺意。これが実の娘に向ける目か──と場外のシナブルは息を呑むが、止めに入る手段を彼は持ち合わせていない。
それは隣に立つハクラも同じであった。エドヴァルドの瞳から最悪の事態を察した彼はこの時、耳につけた通信機で助手であるエルフのアリシアを呼び出した。勿論、闘技台の二人に悟られぬよう小声で、である。
「……ハクラ、何故アリシアを」
「見ておれば分かります」
二人が会話を終えた刹那、アンナの拳を握ったままのエドヴァルドは、そのまま彼女を闘技台に叩きつけた。爆音と共に闘技台は砕け、背中から叩きつけられたアンナの体はその反動で宙に弾け飛ぶ。
「がっ……! くっそお!」
このままではエドヴァルドの刃の餌となるのは目に見えていた。現に刀を構えた彼はアンナより高く飛び上がり、その刃を振り下ろす体制に入っている。
──ッガ……キィン!
空中で二つの刃がぶつかり合う。エドヴァルドの攻撃を止めきれなかったアンナの体はまたしても闘技台に叩きつけられた。吐血し霞む視界に、エドヴァルドが迫る──!
──ザシュッ!
「あ゙あ゙あ゙ぁ゙っ!!」
アンナの悲鳴と共に宙に舞うのは彼女の左腕。二の腕のあたりですっぱりと切り落とされた彼女の腕から溢れるのは帯のような鮮血。
「アンナ様!」
今まさにそこへ到着したアリシアは、長い金髪を揺らしながら闘技台へと駆け寄った。その淵に飛び付くと、訴えかけるような瞳をエドヴァルドへと向ける。
「アンナ様っ! お止め下さいアンナ様っ!」
腕を抑え、立ち上がったアンナは尚も刀を構えエドヴァルドを見据える。食い縛った歯の隙間から漏れる息は上がっているが、彼女の戦意は消失しておらず、赤い瞳は未だ爛々と輝いていた。
「まだ、動けます!」
声を張り上げるアンナに、エドヴァルドが一歩二歩と歩み寄る。アンナの目の前で足を止めた彼は、固く握った拳を彼女の頭に振り下ろした。
「……え…………ぢち……う……え……?」
「終わりだ。……もっと筋力をつけろ。もう少し神力の扱いを覚えれば、神力で肉体を強化し、強い攻撃が出来るようになる」
「…………」
場外のアリシアと視線をぶつけたエドヴァルドは、顎をくい、と引き上げる。それが合図となり、彼女は闘技台に飛び乗りアンナの元へ駆け寄った。その後ろにハクラとシナブルが続く。
「アンナ様、しっかりして下さいアンナ様!」
アンナの姿を目の端に捉えながら、コラーユは手にしたエドヴァルドの外套を彼に手渡す。その裾を翻すと、振り返ることなく二人はその場を後にした。
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