第七話 秘めたる想い
エドヴァルドが指定した時間まで、あと一時間弱。止血を済ませ王の間を出たアンナは、フォードを連れ立って自室へと向かう。
「大丈夫ですか、姫」
「問題ねぇ」
肩の上で髪を弾ませながら、アンナはずんずんと足を進める。東棟三階の自室に続く執務室に到着すると、背中から鞘を抜いた。
「あたしはシャワーを浴びて向かうから」
「はい、では私はこちらで仕事をしておりますので、何かありましたら声をかけて下さい」
「ありがとう」
執務室を抜け自室へと続く豪奢な扉を開くと、アンナはライダースーツのファスナーを下ろしながら浴室へと向かう。しばらく帰っていなかったのによく掃除が行き届いているこの部屋は、フォードとシナブルが毎日手入れをしてくれているお陰で清潔を保っている。落ち着いて愛でる間など殆どないというのに、花瓶の花は萎れる前に取り替えられ、大して使いもしないのに鏡台には様々な化粧品が揃えられている。
バスタブになみなみ湯を注ぎ浸かりたい気持ちを抑え、すべてを取り払いシャワーの栓を捻る。髪と体を手早く洗うと、タオルも持たず濡れた体のまま浴室を後にする。
「よっ…………まだ無理か」
全裸の彼女は一体何をしているのか。
アンナが行っているのは、風呂上がりに体表と頭髪の湯を蒸発させる訓練。体の方は随分前からコントロール出来るようになっていたが、頭髪の方はまだまだであった。火力が強すぎると髪が焦げてしまうし、弱すぎると乾ききらない。
くだらない訓練のようにも見えるが、繊細に
「姫、よろしいですか?」
扉がノックされる。声の主はシナブルだった。帰りは遅くなると聞いてきたが、どうやら仕事が早く済んだようだ。
「いいぞ」
「失礼します」
背の高い、目付きの鋭い男だ。兄のルヴィスと同じ、明るい星空のような前髪をアップにし、肩甲骨辺りまで伸ばした髪は、背中で束ねられていた。
仏頂面だったシナブルの顔が、アンナの姿を見て一気に紅潮する。
「ひ、姫!」
「何?」
「なんで裸なんですか!」
「シャワー浴びたからさぁ」
「いつも言いますけど! 服を着てないなら、入って良いって言わないで下さいよ!」
背を向けたシナブルをよそに、アンナは彼に歩み寄る。
「髪乾かしてくんない?」
「はあ!? ……わ、わかりましたよ!」
シナブルがアンナの髪に指先で触れると、彼女の髪がふわりと波打った。余分な水分は消し飛び、完全に乾ききっている。
「ありがと」
「いいえ」
「難しいよなこれ」
「訓練すれば、身に付きます」
部屋の奥の緩やかな螺旋階段を上り、アンナは半二階のベッドルームへと足を伸ばす。ベッド脇のチェストから着替えを取り出すと、のろのろと身に付けた。
「早かったんだな」
「はい。思っていたよりも早く終わりましたのでご挨拶に」
スーツの襟を正すと、シナブルはアンナの黒椿を持ち彼女に歩み寄る。ようやく冷めた頬に触れると、不意に先程の主の姿が脳裏に浮かんだ。美しく、均等のとれた主の体──。
「どうかしたか?」
「いえ」
「顔、赤いぞ?」
「大丈夫です」
主には、もう少し女性としての恥じらいというかなんというか──を、身に付けて欲しいとシナブルは切に願った。彼が何を言ったところで、彼女は聞く耳を持たないのであるが。
「……エドヴァルド様と戦闘訓練をなさると聞きました」
「ああ、『壱番』だ。来るか?」
「はい。後程参ります」
受け取った黒椿を背に差すと、アンナは壁に掛けられた金の大時計に視線を投げた。少し早いが父を待たせる訳にはいかない。
そのまま何も告げず、アンナは静かに部屋を後にする。執務室の机に向かうフォードを一瞥すると、彼女は訓練用闘技台──壱番へと足を向けた。
一方、アンナが立ち去った部屋。彼女の部屋から執務室に移動したシナブルは、からかうようなフォードの視線に、唇を尖らせた。
「聴こえてたのか」
「まあ、大体はね」
「……はぁ」
「よかったな」
「どこがだよ!」
シナブルがアンナの裸体を見るのはこれで何度目になるのか。従兄だからといって、アンナはこういうことに関してシナブルに全く気を使わない。同じ臣下といえどフォードは軍上がりの異端児だ──彼女なりに多少は彼に気を使っているようで、彼曰く「自分がこういった場面に遭遇することは、基本的にはない」とのことだった。
「なんだよシナブル。嬉しくないのか」
「……俺が手放しで喜んで、誰が得をするというんだ」
「損得の問題なの?」
処理の済んだ書類を纏め、執務机の上でとんとんと揃えると、フォードは新たな書類の山に手を着ける。壁にもたれ掛かるシナブルにエメラルドグリーンの目を向けると、彼はまだ困ったように溜め息を吐いていた。
「……シナブル、君も素直になればいいのに」
「それは、姫のためにならない」
「姫が生れた頃から傍にいる君が一番、姫には相応しいと思うけどね。過去の資料を見ても、そういった例は多いようだよ」
「俺などより、もっと姫に相応しい血は──婿などいくらでもいるだろうに」
ファイアランス王国は、より強い跡継ぎを残すために国外──あるいは国内の強者を取り入れることを常としている。基本的には本人たちか「この者ならば王家に相応しい」と自らの目で選び、王の了承を得て結ばれることが多いのだか、稀に例外もある。アンナの姉マリーローラーンだ。彼女は父エドヴァルドと仕事で出向いた先の一般人を夫としており、これは過去にも例がないことであった。
一方のアンナはといえば、次期国王であるにも関わらずそういったことに関してはまるで無頓着。恐らくこのままいけば、父が選んだ相手と婚姻を結ぶこととなるだろうと、一族の間では噂となっていた。
「姫に相応しい男など、数える程しかいないさ。例えばだ……君との間に
「フォード」
「なんだい?」
「俺は……お前ならば良いのではないかと、そう思っている」
「何を馬鹿な」
基本的にこの国では、一人の王族に仕える臣下は二人。それは身内から選定されるのだが、ファイアランス軍で飛び抜けて優秀な者は、ごくごく稀にこの臣下に引き抜かれることがあるのだ。勿論、その際には所作などを叩き込まれるのであるが、フォードはその引抜きでアンナの臣下となった、異端児であった。
彼を推したのは言うまでもなくアンナだった。自ら手合わせをし彼の本質を見抜いた彼女は、父に彼を推挙したのであった。
そんなフォードのことをアンナは特別に目にかけている。その様子がシナブルから見れば、違う意味で特別に見えているのであった。
「姫
「それは君の勘違いだよシナブル」
「……どうだろうな」
「しかしなシナブル、このままでは本当に陛下は姫のお相手を──」
「この話は終わりだ」
スーツの内ポケットから煙草を取り出したシナブルは、それをフォードに見せつけるように掲げた。落胆したような顔を向ける彼を尻目に、シナブルはアンナの私室へと踏み行ると、大窓を開けバルコニーへと足を向ける。
(俺は──あくまでも姫の、アンナ様の臣下だ。自らの意志でそんなこと、出来るはずもない)
指先に
(姫には幸せになって頂きたい。その為に相応しいのは、俺ではなくフォードなんだ)
吸い殻を手の中で燃やし尽くし灰に帰すと、シナブルはバルコニーから飛び降りた。屋根伝いに駆け、壱番へと向かう彼の憂いを帯びた瞳を見た者は、誰一人としていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます